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バランスを欠いた二本の棒を揃えても箸とは呼ばない
道具は意識せずとも身体の一部さながらに使えるよう設計されていなければならない。長さも重さも太さも材質も違う二本の棒をペアにしても、箸とは呼べないのだ。
この二本の棒を無理矢理に箸として使用し、何百粒もの豆を一方の皿から別の皿へ移す実験を想像してみてほしい。何年も繰り返し実験すれば習熟し、被験者もおのれの技術の熟達具合に満足する。しかし、使いやすい一般的な箸で同じ作業を行った場合には、たいした練習をせずとも、同じ時間内により多くの豆を移動させられる。被験者は、自らの成果の限界を本来の高さよりも低く見積もり、満足してしまっていたのだ。なんと哀れ。道具は使いこなせてこそ価値を生み出せるが、それ以前に使いやすくなければ存在意義がない。
よく聞く話題がある。MacでもWindowsでも、実現できる仕事や趣味の活動は同じだという。確かにそれは事実だろう。けれど、それらを行うために必要なエネルギーや、それらを使って得られた作用や成果には明確な違いがあると感じる。
ユーザーインターフェイスのバランスの良し悪しが、そう感じさせる主な原因だ。バランスが悪いと視認性や可読性が下がり、その分より多く脳のリソースを割かなければならない。見るだけで脳に多くの負担がかかれば、創造性に使うべきだったリソースが浪費されてしまう。
久しぶりにWindowsを触った。どっと疲れた割に、移動させた豆はごく僅かだった。
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