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【Forget-it-not】第四十二話「月の女王は静ひつに笑う」

 あくる年の八月、待ちに待った青月の晩がやってきた。

 わたしも瑠璃も歳をひとつかさね、大学三年生になった。瑠璃は宣言どおり熊野地方に空き家を借り、そこと東京と群馬を行ったり来たりしている。帝東大学からわたしと同じ大学の社会学科に転入し(榛名がひとりなので、考古学科と迷ったみたいなのだけど――そういうところが本当に素敵だと思う!――榛名が「だいじょぶだよ~ん」と言ってくれたみたいで)近ごろは泉水と三人並んで授業を受けるようになった。

 わたしは以前住んでいたアパートを引きはらって、泉水たちと同じマンションに引っ越した。瑠璃が東京にいるときは、そこでふたりいっしょに暮らしている。

 隠世の神社の裏手から志津の岩屋の海岸を八人で目指す。朔夜が家を空けるため、雪乃さんに小夜ちゃんをあずけておくはずが、いつの間にか泉水と榛名と摩耶さんがくっついてきた。みんなも朔夜の召使いになったので、事情はすべて知っている。

「精霊って何匹くらいいるの?」
 と摩耶さんが辺りを見まわしながら言った。

「三百八十六匹くらいとちゃうかな。しらんけど」
「なんちゃら博士みたい」
 と泉水がツッコむ。

「なつかし。子どものころやったよねぇ」
 雪乃さんがしみじみ言うと「アレめっちゃ楽しかったわ。次の次の世代くらいまでやっとったで」朔夜が雪乃さんを振りかえる。「あたしぜんぜん知らんわ。今度みんなでやろうぜ」雪乃さんの提案に榛名、泉水、摩耶さんが「ぜったいおもしろいじゃん!」「バトルは瑠璃が一番強そうだよね」「瑠璃ちゃんは予習無しで」口々に言う。「お母さんを特訓して送り込めば丁度良さそう」「ぶへぇ! 瑠璃ママがペケモンはおもろすぎっしょ」瑠璃の発言に雪乃さんが吹き出す。瑠璃と摩耶さんと手を繋いでいる小夜ちゃんが、
「ねぇねぇ榛名ちゃん、あとでたんけんしよう?」
 同世代のちびっ子に声をかける。

「いいね、伝説つかまえようぜ」
「あんま遠く行ったらアカンで?」
「「はぁい」」
 夜空には青い満月が出ていて、周囲は電灯の必要のないくらい明るい。現世と同じく虫の声がとよめき、ときおり吹く風に木々がさざめいていた。

 浜に着いた。夢で視た、芥ひとつない美しい海岸だ。凪いだ海が砂浜を舐める音が涼やかで、深呼吸をすると清らかな空気が身体いっぱいに広がる。
 泉水と榛名と小夜ちゃんが浜を駆けている。泉水が「行くよ?」何度か後方転回をすると、宙に舞いあがって五六回転した。ふたりの賞賛に泉水は得意満面なご様子だ。

「あいつら元気だなぁ」
「若いっていいね、てか泉水てゃんヤバ過ぎん? オリンプックじゃん」
 年長組が言う。

「おふたりは走らないんですか」
「二秒で肉離れする自信がある」
 と摩耶さんが自嘲する。離れる肉があるのだろうか、とわたしは思う。

「あんたらおばあみたいやな」
「そう言ってられるのも今のうちじゃぞ、朔ばあよ」
「はぁ?」
 となりの瑠璃はとおくの空を眺めていた。今日はスニーカーとスキニーに、ギャザーのついた五分丈のブラウスを合わせている。白いリボンでひとつに纏めた髪は風になびき、顔にかかる横髪を美しい指で耳にかける仕草は色っぽい。

 服の裾をかるく引っぱる。

「うん?」
 瑠璃はおだやかな微笑をわたしに向けた。

「緊張するね」
「うん、とても」
 と瑠璃は目を伏せ、ひとつ息をはく。

 姉はわたしたちを歓迎してくれるだろうか、ちゃんと覚えてくれているだろうか、愛しんでくれるだろうか。帰ってきてはくれないだろうか。

 さまざまな感情が、想いが、心のなかに渦まいている。

「ま、人生はなるようにしかならんからな。さっさと行くで」
 朔夜が海に秀でた桟橋に向かう。そこには船外機のついた船が一艘止まっている。

「こんなだったっけ」
 わたしは夢の景色を思い浮かべる。

「こないだまでは古い葦舟を使ってたんやけど、輝夜が漕ぐのしんどいでしょって買うてきて、ついでに桟橋まで作ってった」
「えぇ?」
 いったいどうやって運んだのだろう。

 瑠璃は長い足を伸ばして難なく船に乗り、物怖じしているわたしに手を差しのべてくれた。そんな些細なことで胸を高鳴らせるのも、もう終わりにしなければいけない。

「おおい、ガキどもおぉ。出航の時間だあぁ」
 と雪乃さんが地球の裏側まで届きそうな声で言った。ここが地球であるかはわからないけれど。三人はすぐに駆けよってきた。五人は口々に、
「お土産よろしく」
「わたしはあっちのスイーツと服がいいかなぁ」
「じゃあ私は月の石。高く売れるらしいし」
「絵をとどけるの、わすれないでね」
「海賊王千夏によろしくな」
 欲望やお願いや意味不明なことを言った。

「小夜が一番まともやな」
 朔夜はそうはき捨てるとエンジンをかけ、「ほなら小夜のことよろしく」一番しっかりしてそうな泉水に向かって言う。泉水は「はいよ、三人とも気を付けてね」爽やかに手を振る。雪乃さんに両手を振らされている小夜ちゃんは「心配しなくてもおるすばんできるよ?」母に抗議する。朔夜は「知っとるよ」美しく微笑して、それから船を出した。

 船はきららに輝く海面をすすんでゆく。海中にはあわく光る海月が無数にたゆたい、海を内側から彩っている。水面付近には青や翠や黄いろの魚たちがあつまり、興味津々といった様子で船に沿って泳いでいる。華やかな海の底には、種々の宝石のような、色とりどりの珊瑚が佇んでいて、その光景はわたしを、美しい宝石箱の中をのぞき込んでいるような気持ちにさせた。しかしその幻想的な雰囲気も、エンジン音のせいで台無しだった。

 浜の西側をぐるりとまわり、左手の岩場を横目に海原へ出た。しばらくすすむと、岩と岩のあいだから、月明かりが作り出したブルーカーペットが現れた。そこを真っすぐに行くと、わたしたちを出迎えるかのように、イルカたちが白波のごとく海面から次々に飛び出した。きゅーきゅーという愛らしい鳴き声が聞こえる。その他にもいろいろな生き物のはしゃぐ気配がする。わたしの頬は自然とゆるんでいく。

「すごいね、瑠璃」
「本当に。綺麗」
 彩りあふれる世界の前方に、濃い海霧が立ちこめてきた。レースカーテンを何枚も重ねたような、やわらかな霧である。船はそのなかへ迷いなく入ってゆき、周囲は灰みがかった色に覆われる。

「なんも見えないけど、大丈夫なんですか?」
 とわたしは大声で言う。

「巫女には標が視えてるんやで」
「へえ」
 視界を塞がれているためか、船の揺れが気になって酔いそうだった。

 突然、途轍もない音量の声が轟いた。例の魔物の叫びである。船の下に超大型生物の蠢く気配がして、お腹の底から畏怖が湧きあがり、視界がねじ曲がって、わたしはひっくり返って船から落ちそうになった。

「ひゃ――」
 と叫びにならない悲鳴が漏れる。朔夜に味方の精霊だと聞かされてはいるものの、こわいものはこわいのだ。

 気配が遠ざかるとともに霧が晴れてゆく。わたしが不安そうな眼差しを向けると、瑠璃は背中をそっと撫でてくれた。このまま身体を寄せられたら、どれだけ幸せだったろう。

「吃驚したね」
「死ぬかとおもった」
 わたしは胸を撫でおろす。

「美春ちゃんって結構ビビリよな」
「だれでも怖いですよ」
「おもろいわぁ。ひょあぁあって何?」
 朔夜はニヤニヤと笑う。

「そんなんじゃなかったです」
 顔がにわかに熱くなってくるのを感じた。

 気をとりなおして前を見ると、数十メートル先に簡素な渡し場が見えた。その奥からは、長い石の階段が差しのべられていて、最下段の広まったところに、紫紺の袴の巫女がふたり立っていた。手には蒼炎を灯した松明を持っている。

 渡し場に船が着き、朔夜が巫女のひとりにもやい綱を投げると、巫女はそれを受け取り、木の柱にゆるやかな手つきで結んだ。ふたりともに仮面をつけているため表情は見えない。

 船を降りる。

「そんじゃあ、あとはよろしく」
 と朔夜が巫女に言った。

「え、朔夜さんは行かないの?」
「行ってもやることないしな」
「ここにいてもやることはないはず」
「……まあな」
「せっかくだし行きましょうよ」
 とわたしは朔夜の手をとって歩行をうながすが、朔夜は動こうとしない。瑠璃が反対側の手をとって、「一緒に来てくれると心強い」ふたりで無理やり歩かせる。

「はぁ、しゃあないなぁ」
 朔夜はしぶしぶといった足取りで階段をのぼる。

「お姉に会いたくないんですか?」
「そういうわけやないけど」
「どういう訳?」
 朔夜は声をひそめて、
「うしろの巫女もそうやけど、自分とそっくりの知らん人間がおるらしいんよ。なんか気味わるいやろ? ドッペルゲンガーというか、クローンっていうか」
 と言った。

「朔夜さんは朔夜さんですよ。自信持っていきましょう」
「見た目なんて関係ない。人は心」
「泣けるわぁ」
 朔夜はわざとらしく鼻をすすった。

 わたしたちとしては、よくわからない場所にふたりだけで行くのは心ぼそいから、月の都をよく知っている彼女がついてきてくれると心強いのだ(もちろん、朔夜といっしょにいたいから、というのもあるけれど)。

 階段のいただきには鳥居があり、それをくぐった先に社殿と御神木と見られる巨大な樹が生えていた。空は真っ暗だ。

 巫女のひとりは社殿に向かい、かがりに火をうつし、建物の中に入っていった。もうひとりとわたしたちは樹の根元に開いた穴の中に入る。

 中は三メートル×三メートルていどのエレベーターのような空間で、真ん中には手のひらサイズの美須麻流之珠みすまるのたまがあり、巫女が手をかざすと扉が閉まって、ホログラムの宇宙のようなものが立ち上がった。

「それは何?」
 と瑠璃が聞く。

「常世と隠世の全物質を読み込み、情報化したものでございます。一メートル×一メートルを立体の情報一と定義し、それを宇宙大まで広げたものですね。勿論、情報はほとんど際限なく分割可能です、現世と同じように。この情報と現実を繋げておけば、どれだけ遠い場所にも一刹那で行けるのでありますよ。都合上、移動している間のわたくしたちは、いわゆる概念的な存在者となりますが、ご安心ください。この中であれば認識が霧消することはありませんし、構成する物質も変わらないですから、わたくしたちは移動前も移動後も元のわたくしたちで在り続けます」
「なるほど」
 瑠璃は納得した様子だった。

 わたしは巫女が普通に話すことにおどろきつつ、未知の体験に恐れをいだいていた。

「大丈夫なの?」
 朔夜にささやく。

「よゆうよゆう」
 と朔夜はのん気に言った。

「では出発します」
「え、まだ心の準備が」
 おぼえず朔夜の腕にしがみつく間に、
「到着いたしました」
 巫女は淡々と宣言するのだった。

「え、なんか起こった?」
 扉の開く音がする。

「起こったみたいだね」
 瑠璃の指さすほうを見ると、先ほどいた暗い神社とはちがって明るい光が見えた。エレベーターを出て樹の根をくぐると、金木犀に似た花が甘い薫りと光をはなち、石畳の上を朝焼けの海のように輝かせていた。

 紫いろの鳥居を抜けた先、眼前に広がる光景は、能うかぎりの豪奢をつくした世界だった。空は巨木の枝に覆われているというのに明るく、紫陽花が空に咲いたかのような色合いだ。金色に輝く雲の影は銀で、とおくにそびえる山は赤銅いろ、その足下の人家や道は翡翠や瑠璃いろに煌いている。

「まぶし、目ぇわるなりそうやな」
 朔夜がぼやく。たしかに目が灼けそうなほどに眩しい。

 階段をおり、広場に止まった馬車に乗りこむ。外観は黒地に青い扉がついており、金箔で洒落た模様が描かれていた。屋根は和風の瓦屋根で、金色の鳥の像が厳かに据えられてある。車内は青一色で目にはやさしいけれど、やや寒々しい印象を受ける。カーテンをのけて外を見ると、巫女が運転席に乗って、黒馬のお尻を撫でて出発をうながしているところだった。

 馬車が走り出す。規則的な蹄と車輪の音、ゆりかごのような揺れが心地よい。

「お城にでも行くの?」
「せやな。千夏は月の女王やから」
「お姫さま?」
「姫って表現はかわいすぎるけど、まあそうゆうこと」
「ふぅん」
 女王の妹のわたしもお姫さまということになるのだろうか。そうだとしたら、ほんのすこし嬉しい。

 窓から往来をのぞく。通りの両端には明るい茶を基調とした、一階建ての日本家屋が並んでいる。表には青い布の敷かれたベンチが置かれてあり、そこに顔の上半分に仮面をかぶった人間がすわって談笑をしていた。

 女性の服装は、主張の烈しい色味の着物に落ちついた色の袴を合わせ、足元には西洋風のブーツを履いている。髪は豪華なかんざしやリボンでまとめていて、大正時代のご令嬢を思わせた。男性は着物の上に外套を羽織り、黒地に金の制帽をかぶった格調高い服装だ。道端には他に、どこかなつかしいデザインの洋服を着た人、純粋な和装の人、朔夜に似た容貌の人も見られる。

「けっこうオシャレかも」
「うん、でも白いシャツに運動靴みたいな人もいる」
「えぇ?」
 わたしは瑠璃の側の窓外をのぞく。

「ほんとだ、しかもジャージのズボンじゃん」
「たぶん千夏が布教したんやろな。あいつジャージ大好きマンやったから」
「え、そうなの?」
「瑠璃ちゃんと仲良うなってからはマシになったけどな」
 と朔夜は苦笑した。

 馬車が止まって、巫女がうやうやしく扉を開けた。足元からお城の階段にかけて、ふかふかのブルーカーペットが敷かれている。

「また階段か……」
 と朔夜が文句を言う。小夜ちゃんが見てないところではいつもこの調子なのだ。

「抱っこしてあげようか?」
 瑠璃が真顔で言うと、朔夜は無言であがりはじめた。

 階段をのぼりきったところには、おおきくあくびをする門がつっ立っていた。両わきに立つ巫女がわたしたちを中へとうながす。そこには金閣寺を横に引きのばし、中央に西洋風のバルコニーを取ってつけたような建物があった。屋根は夏の青空を映じたような瑠璃いろで、壁や柱はキンキラキンに光っている。建物の両わきからはながい渡り廊下が伸び、右側は釣殿、左側にはテーブルとパラソルの置かれたテラスが見える。釣殿とテラスは澄みやかな池によって繋がっており、その池の表面には蓮の花、水中には赤や白や黒がゆらめいている。わたしは池のほとりに立ち、水面に映る自分の顔を覗きみた。かなり緊張しているみたいだった。

 わたしたちは池のほそまったところ、銀箔の貼られた木組みの橋を渡った。

 金閣のそばには日本風の美しい庭木が寄り添っていた。それを横目にバルコニー下の階段の前に立ったところで、両開きの戸がゆるやかに開き、それと同時に黒髪と白髪の小柄な人間が出てきた。ふたりはわたしたちにお辞儀をすると、向かい合って狛犬のように佇立した。

 仄暗い屋内に背の高い女性が立っている。顔の上部は鳥の仮面に覆われ、真一文字に結ばれたくちびると合わせ、一切の感情が読み取れない。口元と輪郭線からは、美が玲瓏れいろうと澄み渡り、辺り一帯に高雅な雰囲気を漂わす。立派な体格に纏った桔梗ききょうの羽織り、白い着物、黒い袴は煌びやかで、一分の隙も感じられない。

 女性は淑やかな足取りで戸をくぐりながら、おもむろに仮面をはずした。日の下に顕されたその顔は、瑠璃に勝るとも劣らない真秀まほな佳しさを湛え、常世を統べる者に相応しい、女王の風格を醸し出していた。

 浅倉千夏は微笑する。

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