「ここはすべての夜明けまえ」を考察してみた

SFマガジン二月号が出て以来、なにかと話題になっている(いた?)作品「ここはすべての夜明けまえ」。三島由紀夫賞の候補にもあがったということで、三島由紀夫で遊んでいる私としても気になる存在でありました。

普通に読んだ感想でも書こうかなぁと思ったのですが、なんか著作権について調べていると「おもしろかったですまる」くらいのことしか書けなそうなんですよね。正直それは他の人に任せておけばいいかなぁと思ったので、私は小説の皮をはがして出てきた知の蜜をジュルジュルとすすろうと思います(つまり文学的構造を抽出するってことですね)

文学的な構造

さて、まず主人公の女の子(125歳)は利用される者且つ利用する者として描かれています。ここでいう利用=自分の欲望や弱さを他人で解消するという意味です。また彼女は最後を除いて、全体的に受け身で主体性に欠けた人物として描かれています。

そんな彼女の周りの人間はどういった人たちでしょうか。私の目には徹底的に利用する者として描出されているように見えています。家族は各々の弱さを主人公を使って解消し、何かしらの鬱憤や欲望を発散しています。

ここで主人公に『なんて可哀想なんだ!』と同情してはいけません。何故なら彼女もまた利用される者であると同時に利用する者でもあるからです。甥っ子のシンちゃんに好意を向けさせ、彼の人生を奪うといった具合に……つまり彼女の本質はちょっとアレな家族と同じなのであります。

では主人公に利用されているシンちゃんはどうかと言うと、彼もまた利用される者でありながら自分に好意を向ける女性を欲望の解消に利用しています。全くもって同情できませんし、なんなら主人公より性質が悪いと言えましょう。

そんなちょっとおかしな登場人物の中で、唯一まともな人間として書かれているのがシンちゃんを好く陽葵という人物であります。彼女は少なくとも作品内では利用される者としてしか描かれておらず、いい人感が満載です。どうして彼女がシンちゃんにこだわっていたのかは置いておくとして。

この作品の主題の一つは陽葵という人物に凝縮されています。主題と葉すなわち、自分のストレスや嫌な気持ちを他人で解消するなということです。主人公の夢に出てきた女性が最初陽葵であった理由はここにあります。他人に利用されているのに自分は利用せず、決して主人公のせいにしたり嫌ったりしない彼女は自分の人生の面倒をきちんと自分で見ているのです。主人公はそんな彼女であるなら自分を救ってくれると思ったのでしょう。

ただ、終盤になると主人公は、それもまた自分の弱さを他人にゆだねる行為であることに気付き、夢の女性は自分であると得心します。自分の罪を償い、過去を受け止められるのは自分だけであって、他人に救ってもらおうとするのはやはり利用でしかないからですね。それに気付いたとき、主人公の長い長い夜は明けるというのがタイトルの意味なのでしょう。

第二の主題は〝主人公が動かない〟というところにあります。これは現実の私たちに対するメタファーだと思われます。毎日毎日ベッドに寝転がりながらスマホを眺めてじっと画面を見つめる私たち。社会問題に色々と言及はするものの実際には動かない私たち。そうする合間にも世界では悲惨な戦争が起こり、誰かが飢え死に、また差別によって傷ついている。そんな私たち現代人の受け身な態度を暗に批評し、行動へ促がそうとする意図があるのではないか……主人公の名前が明かされないのも、この物語は主人公だけに当てはまるものではなく、皆さんにも当てはまるんですよ~ということなのではないか、と私は思いました。

感想

ここまで書いておいてなんなのですが、実はこの作品を読み終えたのが二か月くらい前で、今回書いた内容は、脳内で読み返して思い付いたものなんですよね。だからもしかしたら別な作品と混線しているかもしれないので間違っていたらすみません。ホントはもう少しちゃんと書きたかったのですが、ここに労力を割くなら自分の作品を頑張ったほうがよくね? と思うんですよね笑

個人的には、こういった認識的な話は好きなので、これを機に流行ってくれればいいのになぁと思いました。文学的な内容なのに純文学の枠にはまらないのもいいですよね。

優れた作品というのは構造を抽出すれば作品の模様が見えてくるものです。この作品にはそういった構造が少なくとも二つ埋め込まれているので、三島賞にノミネートされたのも頷けますね。おそらくは、ここであげた二つの主題以外にも色々と技巧が凝らされていることでしょう。それを見つけるのが文学の楽しみの一つなので、皆さんも作品を長く頭に留めて読み返し、なんでくらげハンターなんやろなぁ……と考えてみることをオヌヌメします。

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