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【Forget-it-not】第三十二話「時間は実在しない」

 皐月のある晩に私は海を見つめていた。
 平遠と広がる海原は、鷹揚おうような音楽を奏でている。重く轟く海鳴りは父の寝息のようで、大地を撫でる波音は母の子守歌に似ている。

 この音の始まりはどこだろう。

 最果ての波は力なくうな垂れ、又どこかへと旅立ってゆく。それを間断なく繰り返すのが私の知る世界だった。

 遠くへ目を向ける。闌干らんかんとかがよう青い満月が空と海の境界を際立たせていた。

 船はない。灯台や人家の灯かりもない。海角みさきは陰鬱に沈み、まるで世界に独りであるかのように錯覚する。いや、錯覚ではない。事実、私は独りだった。

 あの水平線の先には何があるのだろう。

 神の国、あるいは竜宮城?

 もしも神が存在するのなら、私を過去に戻らせてはくれないだろうか。あの御伽話の亀のように世界から嫌われる私を。

 過去に戻りたい。

 砂上に頽れ、両手を組んで祈る。

 誰か助けて。

 そう願った瞬間、突如として富士颪ふじおろしが吹き荒ぶ。乱舞する髪を両の手で押さえ、身体を丸めてやり過ごす。温かい風が止むと、後ろから怜悧な眼差しを感じた。

 振り向くと、そこには紫紺の袴の、世にも麗しい巫女がいた。

「やっほー。私を呼んだのは君だね?」
「……誰?」
「天才つよつよお姉さんの輝夜様でぇす」
「はぁ」
「そういうテンションじゃない?」
「まあ」
「じゃあ普通にしよう。いやね、辛気くさいのはアレかなって思って」

 輝夜は私に近付く。

「で、るぅりぃは力が欲しいんだよね」
「どうして名前を知っているの」
「君は瑠璃って感じだから。瑠璃色の海、今はまっくろくろすけ。で、力が欲しいんだっけ」

 首を振る。

「過去に戻りたいだけ」
「それは難儀だね」
「……何故?」

 輝夜は静謐せいひつに笑う。

「小難しい話をするとね、そもそも過去とか現在とか未来とか、いわゆる時間と呼ばれるものは、この物質世界にはないんだよね。あるのは物事の流れと、流れから生じる関係の二つ。実際、暦なんてのは、太陽系の周期を数字に要約したものでしかないし、時計も針が空間を一定の拍子で動いているのを秒とか分と定義しているだけでしょ? 時間は人間が生存するための手段として作られて、それがいつしか時計作りおじさんたちのビジネスに使われ、今現在は時は金なりというように、資本家たちにとって都合のいい概念と化した、人間的な代物に過ぎないのだなぁ。

 では、今まであったはずの関係はどこに行ったのか。それは概念世界に概念的な存在者として保存されているの。アカシックレコード的なね。いや、違うか? うーん、まあいっか。おほん、当然のことながら、再現可能な者、つまりは実在に認識されていない関係は、もはや実在することはできない。だからほとんどの関係は再現不可能な、かもしれないという可能性の存在になっているの。まさに神代文字なんかはもう誰も読めないし、理解もできないから、エライおじちゃんたちが空想にふけって、こうだったのかもなぁって予想しているだけじゃない? でもいくら予想したところでそれは、当時の人々が使用していたようには再現されず、同じようには機能しないでしょう? この世のほとんどの物事は同じように再現不可能なの。まあ、この宇宙は人間と同じように、忘れっぽくて気まぐれな側面があるということだね。つまり過去は実体としてはもう無くて、だから過去に戻るのは無理なんだなぁ」

 輝夜は私の口の端を釣り上げる。

 その手を掃いのける。

「じゃあ私は死ぬしかないんだね」
「君はそれでいいの?」
「構わない」
「君がよくてもお姉さんは哀しいな、君が死ぬと」
「…どうして?」
「理由なんてないよ。強いて言うなら、私が哀しいと思うからかな」
「そんなことを言われても、もうどうしようもない。そもそも生きることに意味なんてないのだから、百年後に死のうが今死のうが、大した差はないでしょう? 世界から見れば、百年も一日も変わらない。人間なんて、所詮はその程度」

 輝夜はひどく悲しそうな顔をする。

「私はそうは思わないかな。確かに世界を俯瞰して見れば、人一人の人生には意味なんてないように思える。けれど私たちは、主観と客観のなかに生きているでしょ? 少なくとも私はあなたの人生に意味を見出しているし、きっと瑠璃ちゃんも本心ではそう思ってるんじゃないのかな。
 人間は存在していないモノを認識することはできない。それは裏を返せば、認識できるモノはすべて存在しているということ。私たちが意味を感じられるのは、そこに意味が存在しているからだと私は思うな」

「でも……」

「気持ちはよく分かるよ。学者や宗教家の大先生方の本には、世界にも人生にも意味なんてないって出てくるんだよね? でもさ、彼らは高名な者や家ではあっても、人間としては三流だよ。生まれたばかりの赤ちゃんや、これから死にゆく人に向かって、あなたの人生に意味はないなんて言えるのかな。もしも言えるというのなら、それはもう人間失格だと思う。人間はさ、何者かである前に人間でしょう? 私は人間は当然善良であるべきだと思うな。だからさ、他人の借り物の、そして偽物の知識のなかに生きるのはやめようよ。誰がなんと言おうと、あなたには自分を肯定する自由があり、人生を選択する権利がある。自分の意思で死を選ぶのなら、私は止めないよ。けど、瑠璃ちゃんは自分で選んでいるのかな?」

 私は首を振る。

「でも、それでも、生きるのは苦しい。皆私を嫌っている。友達も、お父さんもお母さんも、みんな……」

 涙が溢れる。

 輝夜は私を抱きしめる。

「みんなじゃないよ。だって、私はあなたを愛しているから。大丈夫だよ、瑠璃ちゃんを愛してくれる人は、これからいっぱい現れるから」

 輝夜は私の頭を撫でながら続ける。

「瑠璃ちゃんはもう少し色々な物事を視て、視野を広げるべきだと思うな。あなたは十二歳にしてはとても賢いけれど、まだまだ甘ちゃんだね。そこがかわいいんだけどさ」

 輝夜は私を解放し、私の瞳を見つめる。そこで初めて瞳の色が同じということに気が付いた。

「瑠璃ちゃんには私の力を分けてあげる。そんな大それた力ではないんだけど、今よりは視えるものが多くなるよ」

 輝夜は髪に挿したかんざしを手に取ると、己の手のひらを貫いた。

「何をやっているの」
「……やばい、思ったよりも痛い」

 輝夜は前傾姿勢で何度か深呼吸をすると、既に青い顔を一層青くしてこう言った。

「ともかく、私の血を飲んでごらん」
「血を?」
「私の遺伝子を瑠璃ちゃんの遺伝子に注入するんだぜ。なんかちょっと官能的だね」
「……」

 言動の意味はわからなかったが、彼女が戯言を言っているとは思えなかった。私は口を開けて滴る血を含み、舌と上顎をすり合わせて味わった。

 特に感慨のない味がする。

 血を飲み込むと、全身が沸騰するかのような感覚に陥る。

「ダイジョーブダイジョーブ。ちょこっと記憶が混濁するかもだけど、目覚めた頃にはスーパーウーマンになってるから」

 彼女は簪を引き抜き、ハンカチで血を拭っていた。拭き終わる頃には血は止まり、後には傷跡一つ見当たらない。

 輝夜は寂寥とした笑みを浮かべる。

「これから先、今までより辛いこともたくさんあると思うけど、でも大丈夫。君を助けてくれる人は必ず現れるから」
「本当に?」
「うん、だから生きなさい」

 私は目を反らし、それから又目を合わせる。

「善処する」

 輝夜は溌溂とした笑みを見せると、もう一度私を抱きしめた。

 言葉はない。

 ここにあるのは、彼女が私を愛しているという事実と、私がそれを受け入れたという事実。理由なんてどうでもよかった。私も彼女の背に手を回した。










 どれだけ時間が経っただろう。

 輝夜は私から離れるとこう言った。

「君なら必ず力を使いこなして真実に辿り着ける。七年半後にまた会いましょう、私たちの世界で」

 私は力強く頷いた。


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