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【Forget-it-not】第三十三話「日本で哲学が育たない理由」

 目を開けるといつも通りの天井が見えた。位置は少し違うけれど。
 隣から寝息が聞こえる。

 上体を起こして音のする方を見ると、美春が苦し気な表情で眠っていた。近付いて見ると汗が間断なく流れている。

 手拭で汗を拭ってあげると、眉間に入っていた力が抜けた。前髪を退けて額と額を合わせて熱を測る。まだ熱は下がっていない。

 眼の色が変わったり、奇特なものを視たのだから仕方がない。加えて昨日は寒かったし、止むを得ないとはいえ伊勢さんの運転は荒かった。

 彼の行く末が気になって携帯を見ると、何件かのmessageが届いていた。美春の両親、雪乃さん、そして件の伊勢さん。彼女たちも無事のようだ。

 どうやら彼は警察に出頭をしたものの、防犯カメラには何も映っておらず、目撃者もいないため、無罪放免になったらしい。むしろ警察が無辜の罪を主張する彼に困惑していたのだとか。

 電話をかけて昨日の感謝を述べる。彼は二十九年来のゴールド免許が守られたことに感激していた。

 彼は私を助けてくれた恩人だ。大学に入学後、東京に住もうと部屋を借り、しばらく生活したのだが、街の冷たさに辟易し、沼沢市に逃げ帰ったところ、大学までの送迎を買って出てくれた。何やら祖父に恩義があるらしく、その縁があって知り合い、私のような変人に対しても詮索せず、黙って東京へ運んでくれる。

 料金がもう少し安ければ完璧だ。

 時刻は正午。

 布団を片し、寝間着から洋服に着替える。いつもの全身黒装束だ。黒が好きだからとか、御洒落だと思うから着ているわけではなく、単に洗濯が楽だから着ている(埃が目立つのは面倒だけれど)。昔は別な色の服も着ていたが、色々気を使わないといけないから着なくなった。

 見せる相手もいないのだし。

 洗面所で歯を磨き、顔を洗って日焼け止めとvaselineワセリンを塗り、髪を梳く。化粧はしない。完成された絵画に加筆の必要はあるだろうか?

 台所に行く。泉水と榛名が身を寄せて眠っていた。泉水が蹴飛ばしたであろう掛け布団が床に転がり、榛名が団栗をかじる栗鼠りすのように歯を震わせている。

 榛名に布団をかけ、自分の鞄から財布を取ろうとしたら泉水が起きた。商店に行く旨を伝えると、彼女は単車に燃料を入れたいらしく一緒に行くことになった。

 榛名の保護帽ヘルメットを被り、人生で初めて二輪車に乗った。補助輪付きの自転車に乗ったことはあるが、母が補助を外すのを躊躇ったため、仮初めの友人の家に遊びに行く際も、間抜けな音を立てながら行くしかなかったのだ。それを話すと泉水は笑った。

「私を信じて体重移動すれば大丈夫。怖かったら言って? インカム繋がってるから」
 私は厚かましくも商店ではなく、もう少し遠方の店を指定した。泉水の腰に手を回し、へっぴり腰で揺られること数分、駐車場が店舗の五万倍は広い店に到着した。

「八年ぶりに来た」
「普段は別の店に行くの?」
「うん、商店は優しい場所だから、いつもはそこに。ここは赤い粒子の宝庫」
「あ~ね、大丈夫なの?」
「わからない」

 泉水の背中を不審者の如く凝視しながら入店し、目線を店内に向けると、赫奕と輝く粒子が地に壁に付着していた。それに目を合わせた瞬間、他人の負の記憶が想起された――――彼女に心配させないよう平静を装う。病人食と皆で食べられそうな商品を選び、頭から火を噴く店員に手渡し、cardで決済する。外に出ると五分間潜水をしたのかというくらいの疲労を感じた。

「ぜんぜん大丈夫そうじゃないね」
 泉水が心配そうに私の顔を覗く。女性に背を曲げられるのは珍しい体験だ。

「どうやらダメみたい。今朝、例の輝夜の出てくる夢を視て、それで今なら行けるのではないかと思ったのだけど」
「難儀だなぁ。それは、なんで赤いやつだけ自動再生されるの?」
 私は違和感を覚える。確かにそうだ。何故私はそれを疑問に思わなかったのだろう。

「おそらくは、過去のトラウマに起因する恐怖が粒子と呼応しているのだと思う」
「ということは、恐怖を乗り越えたら克服できるかもしれないの?」
「一応、そういうことになる」

 私たちはgas stationガソリンスタンドに行き、それから服屋に寄った。日本人女性のなかでは大柄な私の服も、泉水の体躯には合わないため、無理に着ようとすれば弾け飛んでしまう。昨日は箪笥タンスを漁ると偶々巨大な寝間着が一組見つかったが、今夜は着るものがない。

 洋服店は穏やかだった。赤い粒子はほとんどなく、視ても大して問題にはならない。泉水は迷いなく男性物の売り場に足を向け、服を手早く選んだ――と思いきや真剣に悩み始めた。私は意味もなく服を広げ、それを逆再生するように畳む遊びに興じた。

 泉水の携帯が鳴った。彼女は小声で話し、電話を切るとこう言った。

「榛名のお姉さんが服持ってきてくれるらしい。あと晴嵐さんにも事情を聞いてきてくれるって。メッセージ飛ばしたんだけど、あの人返事遅いんだよね」
「あの人形のような人?」
「そうそう、瑠璃も会ったことあるんだっけ?」
「私の名前を聞くだけ聞いて、自分は名乗らずに帰っていった」
「イメージ通りだなぁ、晴嵐さん天然だから」

 家に帰っても、美春と榛名は眠っていた。泉水が榛名を叩き起こすのをしり目に美春のご飯を作る。玄米を鍋で炊いて、祖母に貰った梅干を入れる。美春は猫舌だから、今から作って冷ましておいた方が食べやすいはず。

 今朝の夢を思い出す。

 あれは単なる夢や妄想ではなく、実際に起こった出来事だ。夢はあんなに鮮明ではないから。

 輝夜とは一体何者なのか?

 一つ分かるのは、彼女は私の人生の行く末を変えたということだ。輝夜がいなければ今ここに私はいないし、美春たちとも出会えなかった。七年半後に会おうということは、あの時点で会える確信があったに相違ない。過去が視えるのなら、未来が視えてもおかしくはないだろう。

 お粥を味見する。病人に出しても問題のない味だ。塩を入れなくて正解だった。祖母の作る梅干は塩味が濃いから、塩を入れると辛くなってしまうのだ。

 お粥を木の容器に移し替え、cupに水を入れ、市販の解熱剤とspoonを取り出し、まとめてお盆に乗せる。その上にwrapを乗せて寝室に持ってゆく。

「……るり?」
「ごめんなさい、起こしてしまったかな」
「ううん、ちょっとまえに起きてた」
「食欲はある?」
「うん、吐き気はなくなったから」
 美春は身体を起こし、
「あたまは痛いけどね」
 額を撫でる。
「そっか。お粥を作ったから食べて。薬だけ飲むと胃が荒れてしまうから」
「わかった」
 透明包ラップを取り、先に水を飲ませてあげる。

 まだ熱いお粥をspoonで掬い、息を吹きかけ、一寸ちょっと食べて温度を確かめる。これなら大丈夫だろう。

 美春の口元に匙を運ぶ。

「はい、口を開けて」
「じぶんで食べれるけど」
「照れているの?」
「ぜんぜん」

 美春がcutleryスプーンを咥えて咀嚼する。

「熱くない?」
「うん、美味しい」
 と弱々しく微笑した。

 お粥を食べさせた後、水を汲みなおして部屋に戻る。泉水と榛名が付いてきて、美春に見られないよう壁の後ろに隠れた。薬を包装から取り出し、飲ませてあげる。

「なんかおかあさんみたい」
「そうかな」
「むかし、おなじようにしてもらった気がする」
「そっか」
 私にも心当たりがあった。
 薬を飲んだ美春をもう一度寝かせる。

「病院は行く?」
「やだなぁ。病院すきじゃないし」
「私も」
「だとおもった」
「美春が寝たらスマホの修理に行ってくる」
「いい」
「どうして?」
「そばにいてほしい。こわいじゃん?」

 離れ離れになるのが、と美春は付け足した。

「そこに二人もいるけれど」
「え?」

 私は身体を横に反らす。二人が覗いているのを見た美春の顔に、薔薇が咲き乱れた。

「はっ、なんで? ってそういえばそうだっけ」
 どうやら記憶が混濁しているようだ。二人が部屋に入ってくる。

「みはるんかっわい。瑠璃ママにメロメロじゃん」
「くぅ、べつにそういうんじゃないから」
「体調はどうなの?」
 泉水が言う。
「まあ、ぼちぼちかな。まだ熱っぽいけど」
「もう少し寝た方がいい」
「うん……」

 美春が寝辛そうにしているのを見た二人は、洗い物をすると言って退散した。

 布団のなかの手を握ってあげると、彼女の表情は弛緩した。しばらくすると、やすらかな寝息を奏で始める。

 寝顔を観察する。千夏さんと本当によく似ているけれど、美春のほうが幼けなく、儚い雰囲気をしている。潤い溢れる髪を梳くと、砂時計のようにさらさらと指の間を抜けてゆく。彼女の感情が動く度、この髪の辺りから記憶の粒子が次々に発生するのだ。それも全てが青く、一つ々々が美しい。

 記憶は個人的なものだから、成丈視ないよう努めているが、偶に魔がさして視てしまうこともある。彼女の目を通して見る世界は私のそれよりも美しく、彩りに溢れている。

 心が美しいからこそ、きたないものも見えてしまうのだろう。

 手を放し(中々放してくれなかった)手拭で汗を拭き、掛け布団を肩までかける。

 美春の手帳を持って寝室の隣の和室に入る。千夏さんの絵は消えていた。時間をかけて描いたものだからいささか落ち込むが、私たちの記憶が多く守られたと思うと納得できた。

 襖を閉め、記憶を精査する。所々に抜けがあるものの、大半は残っていた。美春との出会いの瞬間、居酒屋で美春が語った噂話とその考察、壁画の左側、神社での会話の一部、天地開闢の三神の詳細等についての記憶が不鮮明だ。この程度なら何の問題もない。日記の内容と前後関係から類推可能だから。むしろ、彼らが消失させようとした記憶が重要ということになるから、有難いまである。

 しかしやる気が出ない。疲労が肩に押し掛かっている。目を閉じて佇立していると、居間から榛名たちの声が響いてきた。独りではカビくさい家も、花が三輪も咲けば明るくなることを知った。

 開いていた手帳を閉じ、本棚を眺める。荘厳な表紙の本が並んでいるが、最近はただのお飾りと化している。正直、革や紙の質感が好きだから置いてあるだけだ。元々読書は好きだったが、ほとんど小学校の卒業と共に卒業した。輝夜の影響もあるのかもしれないが、あの時は自分自身、本を読む意義を見出せない状況にあった。理由としては、ここ数十年の間に出版された本は、私からすると高い水準に達しているとは思えなかったから。

 高い水準とは即ち深みである。千九百年代前半の本には思考の深海に達するものがあった。例えば、文学界で文豪と呼称される人間の大半はこの時代に集約されるだろう。大学生が狂ったように読み耽り、周囲に得意げに講釈を垂れ、生暖かい目で見守られ、十年経って羞恥のあまり枕を濡らす自己啓発の分野には、心理学の三巨頭と謳われる、胡散くさくはあるが多少なりとも頭を回した形跡の見られる思想を持する者がいた。今現在の界隈に彼らの著書のような、百年後にも読まれる書物はあるだろうか。私が知らないだけで秀抜な書物もあるのかもしれないが、本は一見したところには何も語らないがために探しようがない。歴史の美化作用が働くのを待つくらいなら、自分の頭で考えたほうが有意義だと思う。

 分けても悲惨なのは哲学の分野だ。哲学書を読めば分かることだが、ああいった書物は謎の造語や難読漢字が大量発生していて実に読み辛い。言葉は伝達の手段であるにも関わらず、大衆一般に伝わらない言葉を使用するのは、思想の貧弱を難解な語彙によって補っている、と思われても仕方がないのではないか。丁度、変哲のない木をornamentで飾り立て、祭りの象徴とするようなものだろう。そんな簡単な事にも気付かない人間に、一体何が分かると云うのか。

 書物同様に、哲学科も又惨憺さんたんたる状況にある。私は本職の哲学的思考とやらを学ぶために哲学科に入ったのだが、大学で教えられるのは、古の中年男性の論考の解釈やその仕方であって、哲学の考え方や哲学そのものではなかった。

 考えてもみれば当たり前の話である(当時の私は愚かだった)。哲学をする、などといっても、そもそも日本には哲学者らしい哲学者は一人もいない。日本最初の哲学者と呼ばれる(というより私が勝手にそう思っている)人物も、仏教の世界観を西洋風の恰好良さげな言葉に変換し、弁証法的手法を小突いただけに見えるし、彼とその弟子を発端とする有力な学派も個人的には同じように思える。

 日本で哲学が育たない理由は、国内の絵画と西洋の絵画を見比べれば一目瞭然だ。浮世絵や絵巻物は平面的な線で描かれているが、西洋の画家の絵は立体的な面で描かれる。つまり日本の知識階層は二次元的に物事を捉え、西洋の知識階層は三次元的に物事を捉える癖があるということだ。

 私たちの住む世界は三次元の多面の世界であるから、日本の平面状の、二次元的な思考では多角的な世界の構造を捉えることができず、できないが故に、他人の、それも外国の書物の解釈をする他はないのである。もしも彼らが哲学史研究者を名乗っているのなら、私は何も思わなかっただろう。難解な外国語の書物を翻訳し、日本社会に流布する行為は有意義だからだ。しかし現状、彼らは自らが哲学者であると疑いもせずに教鞭を執っている(無論、これは一般論であって全般論ではない)。それは何故だろう? 哲学者は疑うことが仕事であるのに? 畢竟ひっきょう、彼らは知そのものを愛するのではなく、知識を愛でているに過ぎないのだ。

 そんな訳で、最近の私は大学に通う意義を見出せず、不登校を極めているのだった(理由はそれ以外にもあるが、然るべき時に語ろうと思う)。

 大学に行かない代わりと言ってはなんだが、この頃は個人事業主になり、水族館で貝を叩く動物程度の、微細な労力を社会に提供している。現代社会では未だに学歴と記憶力は絶大な力を持っているようで、仕事に困ることはない(恐ろしい傾向だ)。世間一般では人工知能による歴史的特異点とやらが起こり、劣化版人工知能の高学歴者が真っ先に淘汰される、などといった陰謀論が流行っているようだが、私には単なる願望としか思えない。あらゆるきっかけは後付け的に付与される、という歴史の作用を知っていれば、自分たちが既に特異線状に立っていることが分かるはずだし、歴史を作るのが誰かを考えれば、民衆の願望が簡単には叶わないことも分かるだろう。何かが現状を変えてくれることを待っていても仕様がない。私たちはそれを知っているはずなのに……。

 寝室に戻り、美春の寝顔を小一時間見つめ、それから手帳を開く。高校生時の字は可成乱れているが、最近書かれたものは丁寧で、やわらかな字体をしている。

 朔夜たちはどこにいるのか。今朝の夢で輝夜が、物質世界と概念世界、私たちの世界と言い分けた理由とは?

 …………。

 少しつまらない話をしよう。


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