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【Forget-it-not】第三十四話「神は実在はしないが存在する」

 哲学には認識論と存在論というものがある。これらは古代から連綿と受け継がれてきた哲学の二大巨頭とも言うべき問題なのだが、近頃は今一つ盛り上がっていない。

(理由は色々あるが、そもそもそれらを論文にしたためて発表することに意味はないというのが大きい。学問がどこから生まれたのかを考えれば、大衆に還元されない学問――芸術や娯楽もそうだろう――が空中楼閣でしかないのは簡単に分かることだ。たとえば美春が体長百米の怪獣になって日本を破壊したらどうしようと考えて一所懸命に文書に起こしても、そんなことは物理的に不可能であるから、考えるのは無意味である。宇宙人が地球に攻めてきたらどうしようと考えるのは、不可能とは断定できないから多少の意味はあるかもしれないが、それよりももっと身近な人類同士の争いに目を向けた方が有意義だろう。認識や存在や美を学問的に問うことはそれに類する行為である。又、存在や認識は具体的な対象を取れないがために、言語によって論理的に厳格に記述することは原理的に不可能なのだ、といったことをどこかの哲学者が主張したというのもあるのだろう。
 しかし、それはあくまでも学術的な世界での話である。知そのものを愛する行為はたとえ世間的には無意義であっても、私個人にとっては有意義なものだ。人生が個人のものであるとは決して言わないが、現に白雪瑠璃の人生は私個人のものでもある。明確な意味を求めるだけが人生ではない。絞首台で首を括られた折に『はて、この縄の素材はなんだろう?』そう思う物見高い心こそが、人生を彩る絵具なのである)

 それはともかく、まずは認識論を簡潔に語ろう。

 認識論は知るとは何かを探求する学問で、人間が知ることができる範囲とできない範囲を明確にするだとか、知識が正しいか否か、あるいはそれらの起源を論ずるものだ。

 私の知る範囲での認識論は人間主体のもので、文章の主語は常に「人は」「我々は」となっている。しかし、それではどこまで行っても人間の認識を語ったに過ぎず、認識全般、認識そのものを語ったとは言えない。何故なら人間以外の全ての存在者が認識を有しているからだ。現に餌場を知らない猫は成長としつけを経て餌場を知るし、犬は飼い主に芸を仕込まれる。これは彼らが認識を持つ存在であるから可能なのだ。

 そしてそれは、人間や動物以外の全存在にも適応される。何故なら認識が無ければ世界には何も起こらないからだ。

 例えばAとBを掛け合わせるとCになるとしよう。Aに可燃物、Bに摩擦を入れると燃焼という反応が起こり、AとBは火や煙になる。

 では反応は何故起こるのだろう? 答えは両者が相互認識を持っているからだ。可燃物に水を掛けても燃焼しないのは、可燃物と水の間に燃えるという相互認識がないからである。私と男性の間にlovestoryが起こらないのも、両者にlovestoryが起こるという相互認識がないからだ。

 では認識とは何だろう?

 私が思うに、人間(実在)は認識を時間軸によって使い分け、認識という名詞の次に来る形によって意味合いを変化させている。

 認識+していた(過去形)は忘却、認識+している(進行形)は認識、認識+する(現在形)は認知、認識+した(完了形)は認識と認知両方として人は捉えている。日常語で言えば、知っていた、知っている、知る、知ったの相違だ。

 これは全ての存在者が持っている性質だ。雲は自らを雲とは名付けないが、自分たちがある塊であることを認識している。そしてその認識を忘却し、自己をまた別の塊として認知すると雨粒となり、植物の葉に落ちて吸収されると自身を栄養と認知し、次の忘却が訪れるまでそれであることを認識し続ける。

 この忘却、認知、認識の過程がなければ世界には何も起こらず、世界はある種の無となり、停止する。これが私の考える認識だ。

 次に存在論を説明しよう。

 存在論とは読んで字の如く、在るとは何かを問う学派である。さして難しい概念ではない。人間なら誰しもが私とはなんだろう? どうして私はここにいるのだろうと問うたことがあるはずだ。これもまた存在論の一つであり、自分はどう在るべきかを考えるのは人生の主目的の一つである。存在を問わない人生など石ころに等しい。

 私は存在を二つに分けて考えている。その一つが実在だ。

 実在とは物質世界に属する現象を言う。実在は人間の知覚によって認識される。例えば浅倉美春という現象は私に見られる対象であり、彼女の声や動作音は聞くことができ、こうして頬に触れ、匂いを嗅ぎ、やろうと思えば彼女を味わえる。火も水も雷も土も木も、この世に実在するモノは全て同じだ(味わう前に死ぬものもあるけれど)。

 輝夜の言うように、人間は実在する自分に意味を見出せる。それは世界に意味が存在しているからだ。しかし意味は見ることもできなければ触ることもできないため、物質世界に実在しているとは言えない。同じように認識も夢も愛も、すべては実在的な存在者ではないと言えるだろう。

 ではこれらは一体何なのだろう?

 私はこのもう一つの存在を虚在きょざいと呼称している(謎の造語の誕生だ)。
 虚在とは概念世界に属する現象で、人間の感覚によって捉えられる存在だ。よく神は存在しないと云われるが、神は実在はしないが虚在する。存在しないモノは認識できず、認識できるモノは存在するのなら、人間が神を認識可能な限り、神は存在していると言えるはずだ。無神論者は神は存在しないと云い、宗教家は神は存在すると云うが、彼らは存在と実在をequalイコールで結びつけている。故に折り合わない。しかし私からすると、どちらも的外れな意見でしかない。

 人間が神を認識しているということは即ち、人間と神との間には相互認識が存在しているに等しい。何故なら相互認識がなければ思考は起こりえないからだ。例えば私が掃除をしたいと思い立ち、掃除機を握ろうとしたとする。当然掃除機を握れるだろう。それは私を構成する原子と掃除機を構成する原子が相互認識を持ち、反応を起こしているからである。もしも触覚的な認識が一方通行だった場合、私が掃除機を握ろうとしても、hologramに触れられないように、掃除機は私の手をすり抜けてしまう。つまり神を認識しているということは、神もまた人間を認識しているのである。

 ある哲学者はこう言った。〝深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている〟本来の意味とは異なっているが、これはある種、的を射ている。人間が深淵を認識しているとき、深淵もまた人間を認識しているのだ。

 又、存在しないモノを認識できず、認識できないモノは存在しないのであれば、当然、存在する者は認識可能で、認識可能な者は存在すると言い変えられる。であれば、存在者を語ることは同時に認識者を語っているに等しい。つまり世に在る事物は全て存在認識者として統合され、存在論や認識論は、この存在認識者の一側面を論じているということになる。

 私が仏教のナイナイ主義を辞むのは、人間だけではなく、世界の全ての事物が存在し、認識し、分別すると考えているからだ。確かに無分別に事実そのものを視ようと試みなければならない場面もあるが、世界はそれだけでは説明できない。人間と同じく世界も一刻々々解釈し、物事を選り分けているからである。

 さて、私がこのような与太話をしたのは、この謎の世界解釈が今回の件と関連している気がしてならないからだ。日本神話がある種の世界解釈であるなら、世界の根本まで思考を巡らせれば、同じ場所に辿り着けるはずである。

 ただ、世の中には現状の私の解釈では説明できないものがある――――ぴーんぽーん――――呼び鈴が鳴った。


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