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【Forget-it-not】第二十六話「仏教では人の心は救われない」

「仏教には色々な宗派があるから一概には言えないけれど、基本的な信条は同じ。要約すると、人生は苦である。苦は執着から生まれる。執着は覚りによって消え去る。覚りは人と法との関係によって育まれる、というもの。覚りは宗派によっては仏や無分別智と呼ばれるみたいだね。覚りとは何かと言うと、簡単に言えば、私という主観を排し、物事のありのままの事実を見て、良い悪いと裁断しないように生きようといったもの。仏教ではこれがそのままこの世の真理とされている(わたしは「へぇ」と言う)。

 個人的には、この思想は普遍性を持った考えだとは思えない。そもそも人間は人間である限り、覚りに至ることはできない。何故なら人間と覚りは、それぞれ実在と観念という別々の場に属するから。(わたしが顔に疑問符を浮かべると)身近な例を挙げると、美春は美と呼称される観念的な要素を持つ人間ではあるけれど、美そのものではない。美春は美しさ以外にも、可愛らしい、賢い、優しいという観念を持つし、肉体は物質が複雑に重なり合った結果生じている。観念的な要素は肉体を媒介にしているから、物質的な世界においては肉体が先で、そこから観念的な要素が付与される。

 だから、人間は覚りの要素を部分的に享受することはできても、覚りそのものに至ることはできない。どれだけ強がっても辛いものは辛いし、苦しいことは苦しい。世界が諸行無常であり、自己は末那識による錯覚や蒙昧だといくら主張しても、その事実は変わらず、痩せ我慢以上の価値は生まれない。覚りに至る唯一の方法は死ぬこと。人間は死ねば観念になるから。

 尤も、今現在の私たちの常識に当てはめれば、という条件付きではあるけれど。それに、私たちの経験から考えても、自分の主観を排し、解釈せずに生きることが無謀であることは明らか。例えば目の前に、殺気立った不審者が刃物を持って待ち構えているとして、普通の人間はこれはまずいと主観的に状況を解釈し、逃げるか戦うかの判断を行う。そうすれば生き残れる可能性が開けるから。けれど、菩薩にはそれができない。覚りを開いた彼は教義上、その状況を主観的に解釈することができないから、にこやかな笑みを浮かべて相手の行為を見届ける他はない。そうなれば当然の帰結として、彼は不審者に刺されて死ぬ。

 もしも仏教徒の人たちが私の意見を聞いたら、仏教はあくまで苦しみを取り除くための手段であって、そういった特殊な状況を想定しているのではないと云うと思う。あるいは覚りを開いた人間も、基本的な生理反応は普通の人間と変わりはないから、生きるか死ぬかの状況下では、自然の成り行きとして生きることを選ぶ。それを良い悪いと判断することが間違いだ、と云うと思う。もしくは『それはあなたが如来の見地に達していないからそう思われるのです』だとか『仏教の崇高なる智慧はそもそも言葉で語れるような代物ではない』といった自己弁護も考えられるかな。私はこういった逃げ道だらけの反証不可能な思想では、人が真に救われることはないと考える。

 最も皮肉なのは、仏教の経典そのものが真理とは対極の、解釈の場にあるということ。これが真理である、というのは真実ではなく、個人や特定の集団の解釈に過ぎないでしょう? その時点で人間主体の色眼鏡が入っているから、自らの思想を以って自らの思想を否定しているように見える。当然、徒弟たちもその矛盾に気付いて頭を悩ませた。そこで彼らは方便という言葉を編み出し、経典はあくまで真理に辿り着くための仮の手段であって目的ではないと言い始めた。けど、それも結局は逃げでしかない。彼らの思想は畢竟ひっきょう、人生の苦から逃れるための際物きわもの的産物に過ぎないのだと思う。それを神輿を担いで町内を駆け回るように、批判から二千年間逃げ回っているんだろうね」

 わたしは瑠璃に褒められたことに胸をときめかせた。

「なるほど(あまりよくわかってはいない)。じゃあ、瑠璃的には、人はどうすれば救われると思う?」
 と私は瑠璃に無茶をふる。瑠璃は間髪入れずこう言う。

「私は人間として生まれた以上は人間らしく生きるべきだと思う。人間らしさとは即ち、在るものを在ると肯定し、苦しみと戦い、足掻くこと。一説によると、釈尊の属していた釈迦族は、とある王族にほとんど皆殺しにされたらしい。座して世の理とやらを受け入れた結果、大切な家族を殺されることが幸福な生き方だとは、少なくとも私には思えない。人間という生き物は、三次元の場に属し、より高次元の心を持ち、それらを二次元以下の記号によって表現する多次元的な存在。だから観念ばかりを追っていてはダメだし、記号を触っているだけでもダメで、色々な次元の物事を複合的に扱うことが人間として生きるということなんじゃないかな」

 わたしは言葉をどうにかこうにか噛みくだく。

「つまるところ、相手を思いやって、抱きしめて、愛してるって言うのが人間ってこと、だよね?」
「そういうことだね」
 瑠璃は満足そうに微笑むと、一転して真面目な顔になって、
「ただ私は、誰かの為、何かの為を想って信仰したり、祈っている人は否定しないし、したくもないかな。それが本物の気持ちであるなら、だけれど」

 慈悲深い言葉を宣う。美しい。

「ともかく、竹取物語が地上に残った月の民の子孫の手によって描かれたものなら、昇った者と残った者とを分かつのは、考え方の相違だと思う。彼らは武器を持っていなかったから、争いを好まない集団だったんだろうね。だから争いを好む神武の軍勢から逃れ、地上の人間に愛想を尽かした人々は月に昇り、争いの種である物思いのない理想の世界を形造った。一方の地上に残った人々は、理想郷を辞み、地上の人間と和することを選んだとか……。ただ、それだけだと千夏さんが連れ去られた理由がわからないし、巫女が常世と関係を持っていそうな説明もつかない」

 わたしは瑠璃の考えに、必死に食らいつく。

「複雑な要因がからみあってるんだろうね。たとえばだけど、神武軍から逃げ切って記憶を消したとしても、その人たちが消えるわけではないから、もう一度常世まで攻めてくるかもしれないじゃん? 赤い宝石を使ってさ。それを防ぐための護衛とか、諜報員みたいな感じでいちぶの人を残したとか。

 それなら何十年とかに一回、地上の情報を得るために、選ばれし者を月に迎え入れるのもうなずけるし、輝夜たちが接触してこない理由も説明できると思う。つまり常世について詳しい巫女が掴まって、拷問とかをされたらさ、情報を吐かざるを得ないじゃん? それを吐かせないために外出の制限とか、口外禁止令みたいなのが出てるとか。だからわたしたちに会いたくても会えないし、話せない、みたいな。

 雪乃さんが輝夜たちを覚えてるのと、わたしたちが引きはなされたのも不思議に思ってたけど、雪乃さんはもう輝夜たちに会うのをあきらめてる感じだったじゃん? 会いたい気持ちはあっても行動するまではいかない、みたいな。でもわたしたちはたぶん、お姉ちゃんに会いたいっていう強い意志があったし、お世辞抜きで頭もまあ(半笑いで)、そこそこに切れるからさ、わたしたちがいっしょにいたらすぐお姉ちゃんの存在を見つけて会いに行っちゃう。月にいる人たちにとってはそれは都合がわるいんじゃないかな。だってわたしたちが月の民の子孫だとしても、ほとんどそうじゃない人の遺伝子を受け継いでるわけだし、それにわたしたちが月に来ると、物思いを持ち込まれることになる。そうならないように分断したとか」

「なるほど、ありえる話だね。となると千夏さんも天の羽衣を着せられて物思いが無くなっているかもしれない」
「そう、なるよね」
 わたしは目を伏せる。

「覚悟はしておいた方がいいだろうね」
 瑠璃は淡々と言った。

 起こった話をまとめると、姉は二年前の秋に志津の岩屋から常世に旅だち、わたしはそれを見おくった。その記憶自体は消えうせたものの、事実は夢として無意識の表面下にあらわれていた。姉は自分が常世に行くことを事前に知っていて、直接的な証拠はすべて消されることをも知り、輝夜たちに伝言をたのんでも無駄である旨も知っていた。それを教えたのはサクヤたちなのだろう。

 勿忘草を残したことから、姉は前向きに常世に行ったわけではなく、強引に連れていかれたと思われる。姉はサクヤたちと、あるいはわたしたちと示しあわせ、遠まわしな方法で手がかりを伝えられるよう工夫した。物思いのない人々には、花は花、石は石にしか見えず、言外の意を推しはかれないと考えたのだろう。

 わたしは瑠璃が絵に描いたように、姉の情報を手帳に書きしるし、彼女の存在を視覚化したのだった。


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