見出し画像

【Forget-it-not】第二十七話「条件付きの愛は愛ではない」

 木曜日、わたしたちは瑠璃の祖父母の家に行った。昨日はまったく捗らなかったので、休憩がてら、瑠璃の育った環境を見たいとわたしが提案したのだ。

 家は山間の盆地のちいさな集落にあり、そこは地元のとなり町によく似ているけれど、こちらのほうが平地の面積が広く、伸びやかな印象を受け、また肌ざむい。そのなかの平凡な平屋が瑠璃の育った家のようだ。

 玄関口で祖父母が出むかえてくれた。ふたりともに柔和な雰囲気をただよわせていて、祖父は畑仕事をわざわざ切りあげてまできてくれたらしい。

「瑠璃ちゃんに友達だって、生きてるうちに見れるとは思わんかったさ」
 と祖母が涙をにじませる。

「なっからかわいい子だがねぇ」
 と祖父が言う。おそらく褒められているので礼を言った。
 瑠璃は終始気まずそうな顔をしている。
「美春、入ろう?」
「うん、おじゃましまぁす」

 祖父はゆっくりしていってね、と言ってお仕事にもどり、祖母はお茶を入れるのに居間に入った。わたしたちは玄関から真っすぐに伸びた廊下の奥、左方の部屋に入った。ここが瑠璃の部屋らしい。

 趣のある六畳の和室の窓は、たくさんの指紋のついたようなすり硝子になっており、木々の葉の緑をおぼろに透かしている。土壁のくすんだ緑は目にやさしく、畳の爽やかな伊草のにおいが芳しい。物はやはりほとんどなく、本棚にわずかばかりの本が並んでいるだけだった。その本棚の前に立てられた座卓を瑠璃がうごかし、それから押し入れを開け、中から座布団を二枚取りだし、畳の上へ置いた。その押し入れの下段にmail boxと書かれた箱が見える。

「あれは千夏さんからの手紙を入れていたのだと思う」
 とわたしの視線に気づいた瑠璃が言う。
「手紙はないんだね」
「うん」
 瑠璃は箱のなかを見せてくれたけれど、そこにはなにも入っておらず、枯れた湖のように乾いていた。瑠璃は苦笑し、押し入れの反対側の襖を開けてアルバムを手にとり、後ろのほうの頁を開いて見せてくれた。

 そこには瑠璃のさまざまなすがたが写っていた。白いワンピース、浴衣、かき氷を片手に微笑をたたえる様子、白やかな歯を見せて笑うさまなど、わたしの見たことのない瑠璃の表情がたくさん収められていた。そのほとんどの写真からは余白、というよりは、空白が感じられる。姉の不在の存在がはっきりと写っているのだ。

「現像された写真を改変できるなんてねぇ」
 とわたしはため息交じりに言う。
「科学というよりは魔法みたい」
「たしかに。でも、消せるんだったら戻せるはずだよね」
 わたしが笑いかけると、瑠璃は口角をあげてうなずいた。

 頁をめくる。

「ここらへんは前も見たやつだよね」
「うん、アルバムの写真を撮っていったから」
「ふぅん」
 アルバムを右にめくってみると、幼子時代の瑠璃の写真があり、母親と見られる人物がいっしょに写っていた。

「これがお母さん?」
「そうだね。撮っているのはお父さん」

 写真に写る女性は瑠璃の母親なだけあって大変美しい。涼やかな目元は衰えの兆しがなく、その艶やかな黒髪と、目下の涙黒子も相まり、ある種の官能的な美を感じさせる。温度のない三日月の微笑みと、生気のない青白い肌が、怪談話の雪女を思いおこさせ、背筋に悪寒を走らせるけれど、娘に劣等感の解消をたくすような悪い人には見えない。なにか見栄を張っているような雰囲気をしているが、それは自尊心や驕りから生じているというよりかは、自分のよわさ、あるいは本心を表に出さないよう努めているといった雰囲気だ。そんな感想をいだくのは、自分自身を重ねているからだろうか。

 祖母がお茶とお菓子を持ってきてくれた。ゆっくりしていってね、といったニュアンスのことを言うと、あめんぼみたいにすり足で去っていった。

 瑠璃は居間の扉の閉まる音を聞くと、両親との思い出と少女時代の悩みを打ちあけてくれた。

「二人は、私の小さい頃はよく旅行に連れて行ってくれた。お父さんが車の運転をして、私とお母さんが後ろに座って、私が幼稚園や学校で起こったことを話すのを、二人は楽しそうに聞いてくれた。目的地に着くと、お父さんは写真に写るのが苦手だったから、専ら撮影係で、遠くから私とお母さんの写真をずっと撮っていたの。私はお父さんとも写りたかったし、何より遊びたかったのだけれど、苦手なことを無理強いするのは良くないと思って言い出せなかった。お母さんはたくさん遊んでくれたけど、それを心から楽しんでくれていたのか、犬にリードを付けるようなものだったのかはよくわからない。

 二人は、私が学校のテストで高得点を取ったり、何かの賞を受賞すると、お小遣いをくれたり欲しいものを買ってくれた。それ自体は嬉しかったし、感謝もしているけれど、でも、もしも高得点を取れなくなったら、賞を取れなくなったらどうなるのだろう、と不安にもなった。そしてこれは両親だけでなく、周りの人全般が、瑠璃ちゃんは可愛いね、だとか、将来は美人さんになるだろうね、と言ってきた。贅沢な悩みかもしれないけれど、私はそれが不満だった。私に向けられる言葉は全て、条件付きの言葉だったから。もしも私が明晰でなくなってしまったら、可愛くなくなってしまったら、皆は私にどんな目を向けるのだろうと思っていた。

 小学校も中学年になると、お父さんの仕事が忙しくなって、旅行にもあまり行けなくなったし、私の誕生会なんかにも出てくれなくなった。私は危惧していたことが現実に起こったのではないかと不安になった。お母さんに相談しようと思ったのだけど、その時にはもう、弱みを見せられなくなっていた。失望されるのが怖かったから。

 そういう不安や不満が爆発したのが中学受験の時だったんだろうね。私は皆にありのままの、条件の付いていない、一人の人間としての私を見て欲しかったのだと思う。弱みを含めた白雪瑠璃を……」

 わたしは瑠璃の言葉に共感を覚えた。そうだ、わたしも浅倉美春という人間として自分を見てもらいたかったのだ。明るく元気で思いやりに溢れるわたしだけではなく、臆病で泣き虫なわたしも見てほしかった。

 わたしは人を本気で好きになれなかった。そのわけのひとつは自分から歩みよれないというものだったけれど、理由はもうひとつあったのだ。

 わたしを好きだと言う人は、揃って浅倉の優しいところが好きだとか、だれにでも分けへだてなく接するところが良いと述べる。けれどそれは、わたしのとある一面を見ているに過ぎない。もしもこの人が、わたしの苦悩やよわさを知った場合、どう感じるのだろうと思うと、気持ちを受けとる気分にはなれなかったのだろう。

 条件つきの愛は愛ではない。きっと本当の愛は、その人の存在そのものを肯定してあげるということなのだ。そのうえで、良いことをしたら褒めてあげて、わるいことをしたら叱ってあげる。おそらくそれが本当の愛。

 わたしは白雪瑠璃のすべてを愛したい。そして浅倉美春のすべてを愛してほしい。

 やはりわたしは瑠璃のことが好きなのだ。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?