自分の人生を振り返る(3)

 前掲のnoteでは感情が先走って、客観的ではない情報をたくさん書いてしまったので、今回は努めて冷静に自分の人生を振り返ろうと思う。
しかし、わたしは人間が嫌いなので、嫌悪感が言葉尻に入ってしまうのは仕方ないのだろう。この嫌悪は言い換えてしまえば、自分に対する嫌悪の裏返しだから、自分を好きになることが無い限り、私は人間を愛することはないのだと思う。

人生って何だろう――小学生時代②

 人と集団で遊ぶことがきらいだった。決まり事を守れない周りの人間がきらいだった。でも、空想の中で生きるのは好きだった。自分が存在しない世界を夢想するのが、趣味だった。だから、物語を読むことを日課にしていた。そういう小学生時代。
 周囲の人には本が友達なんだねと言われたが、そうじゃなかった。言葉で説明するなら、虚無を自分の中に産み出すための行動。この文明以外の全く違う世界への憧れ。思考が私以外のもので染まる、文字という世界こそが私の求めていた物だった。説明しても多くの人間は分からないと思うけど。

 空想を愛していた私は、自分の中に新たな概念を作り出した。
この世界の創造から、終結までの空想。私はその始まりと終わりを見つめる生き物なのだと。『hime』と私は呼んでいた。いわゆる厨二病だろうか。そうしないと、私には人生が耐えられなかったのかもしれない。

 今から語るのは、(2)で語った友人以外には語ったことのない思想。妄想。
 この世界は無から生まれていて、無が無であると自覚した瞬間に存在を形成してしまった。それが例えば、宇宙であり、世界。無限が自らを有限だと認識してしまったためにうまれた誤り。齟齬。最も小さく、最も大きな世界を『父』と私は呼んでいた。
 一人に飽きてしまった世界は、分裂して、複数の自我を形成した。すべては父の人格の写し絵であり、別の世界を形成している。薄い膜のうえに世界は球体のように重なり、次元を形成して同じことを繰り返す。
 そのたった一つの個である存在からはじめに生まれた、『hime』の分裂した人格の一つが私。いつ消えるかも分からない、流動し続ける思考の一つ。ありとあらゆる思考はあっても、実行する権利は与えられていない。私が担当する思考は本人格である『hime』の肖像画だった。
 複数の自我を演じ、場合によって変えるのは精神的に楽だった。私の責任は『hime』の中で、責任を負う人格に課せば良かったから。
 私の中には明確に悪魔が居て、天使がいた。自分の都合の良いように周りを動かす私と、それに罪の意識を覚える私が。

 ――簡単に言うなら、私は人生で『自分』という仮面をかぶっていたのだ。

 それを心の中で生み出し始めたのが、小学3年か4年くらいではなかったか。担任の教師の相性が悪すぎて、ストレスが異常なほど溜まっていた。

 今でも忘れないが、3年の時の教師は、私の頭にシラミがあるのではないかとわざわざ保健室に行かせたのだ。他の誰にもそんなことをさせたことはなかったのに、私だけに。それが教室で噂にでもなっていれば、私はどんな目に遭っていただろうか。ただでさえ浮いていた私に、そんなことをすればいじめの標的になっていてもおかしくなかった。
 意味の分からない強要をしたあの教師は、日本語が通じないと思っていた。
 4年の教師も、自分に対する評価を自分でチェックして、評価が悪ければ書き直させることもしていた。教師との相性が異常に悪かった。……少々、熱くなってしまったが、教師に人格は期待しないことだ。小学校はとくに。
 2年の頃の教師には、ランドセルの中身を荒らされたりしたなぁ。5,6年もいろいろあった。全部覚えているところが粘着質だ。
 
 このときの私の大人に対する評価はこうだ。
 大人は信頼してはいけない。相対評価も正しいとは限らない。子どもに脅迫することも平気で行うような輩。
 このあたりの私は自分を人外だと考えていたので、この総評も納得だが、世界が狭すぎて恥ずかしい。正直全部消したい黒歴史。
 時々、幻聴が聞こえていたのも影響していただろうが(誰も聞こえていない「うるさい」とかぼそぼそ言う声とか、ラジオの音)。

 ストレスが溜まりすぎて、髪をむしったり、突然怒鳴ったり、叫び出すこともあった。常時、ため息を吐いていた。
 変人の通常行動だと思われていただろうが、ストレスの影響である。家では父親が「金がない金がない」と言い(20年続いている。それでいて、機械を買うのを止めないところが父だ)、病気の母に文句を言い続け、泣かせる。(※父は愚痴は多いけど、手を出したり感情的になったりしないので、好きだ。口は悪いが優しいし、火事に遭ったり、家族を交通事故や自殺などで何度か亡くしている。母よりも何倍も波瀾万丈な人生を生きていて、知識も豊富だ。農業が仕事なので、機械がなければ仕事にならないのも仕方ないし、日が昇っているときはずっと働いてる。
 正直言って、母は意味不明すぎる。働いてもいないし、ほとんど掃除もしない、私たちも手伝っている上で、家事がつらいらしい。祖父母も生きてるし、いろいろ助けてもらっている。それでいて、私は愛されてこなかったアピールがひどい。時々、殺意を覚える。「お祖父さんが生きていたときは、私は家に居れば良いと言ってくれていた」とのこと。良いところもあるのだが、苦手だ。私は母に似ているのかもしれない)。
 それに我慢し続けた結果がこれ。筆記用具を買うのも我慢していた。
 ――自慢ではないが、家は金がない。正確に言えば、両親に金を稼ぐ能力が無い。母は働けば体調を悪くし、父は農業一筋で、売り道を知らない。
祖父がやり手の人だったので、土地や機械は要らないぐらいあったが、その固定資産税に苦しんでいる。
 だが、この時期はまだある程度金があったはずなのだが。父親の口癖を気にしすぎていた可能性があった。おかげで私は異常なほど倹約家になった(水を飲むのさえ気にするし、夜はほとんど電気をつけない)。全部、我慢すればいいと思っている。いつか、餓死するかも。

 ストレスをためすぎると、人は幻聴を聞くようになる。妄想の世界でないと生きられなくなる。小学後半はそんな感じだった。

 思い返すと、小学校の思い出は負の側面が大きかった。思ったよりもおぼろげで、人の顔はほとんど思い出さないし、うそばっかり付いているし。
 長い登下校で、幼なじみと罵り合ったこと。石を投げ合ったこと。水をかけあったこと。
 暑すぎて、燃え上がりそうな校庭での全校朝会。暇な昼休み。一人で学校の中を走り回ったこと。友人をからかって大笑いしたこと。きらいな人間にやり返したこと。
 楽しいこともあったはずなのだけど、楽しさよりも苦しさの方が大きかった。
 でも、一人が好きだったこと、空想が私を支えてくれていたことは事実。私の味方は、私の中に居たのだから。
 
 だれもあなたをたすけてはくれない。そして、あなたはたすけをもとめることもない。そんなときは、あなたのこころのなかにすくいをつくってもいい。こころのなかだけはだれもひていできない。じぶんのせいいきだから。

 そんなことを言い聞かせていた日々だった。たくさん、たくさん、私は幸せになれると言い聞かせてきた。実際に幸せになれるとは限らないが、それを信じている間はなんとか生きていける。
 次は中学生時代を書いていこう。中学も憂鬱なのには変わりないが、少しはマシになる。

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