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釈迦と沙門果経とアーユルヴェーダとジーヴァカ

仏教では、アーユルヴェーダ医師のジーヴァカはほとんど知られていないが
アーユルヴェーダをやると、釈迦の主治医の信者で釈迦教団と深い繋がりがあったのが出てきます。
ジーヴァカは、釈迦や弟子の治療をしたり、その頃は医師の治療は高い地位のかたしか受けられなかったのを、釈迦教団とともに大衆の治療も行い、大衆の信者が増える要因にもなりました。
釈迦が滅したあと、釈迦の弟子とジーヴァカの弟子がともにタイにいき、アーユルヴェーダや釈迦の弟子の運動のために考えた運動を広めました。
古式タイマッサージは、その運動です。

インドを知らないかたは、釈迦の教えや仏教は、古代にできた新しい教えだと思っているかたがたくさんだが
古代インド哲学をやっていくと、釈迦や仏教はインド哲学理論を説明しているなとわかってきます。
それを、仏教やバラモン教やアーユルヴェーダやヨーガが取り入れて、構築したり解釈したり新たな理論にしたりしていきました。
日本の仏教も、インド仏教とは変わっていきました。

少しずつ説明していきます。

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耆婆(ジーヴァカ)
【ぎば】
[釈尊] [人物]

釈しゃく尊そん在世ざいせの頃のマガダ国の医師で大臣。サンスクリット(梵ぼん語ご)、パーリ語ともにジーヴァカ。漢訳かんやくでは「耆婆ぎば」「医王いおう」「薬王やくおう」と記しるされる。

マガダ国の国王頻婆娑羅びんばしゃら(ビンビサーラ)と娼婦しょうふとの子であったとされている。生まれてすぐに捨てられるが、無畏むい(アバヤ)王子に拾われ育てられたとされ、阿闍世あじゃせ(アジャータシャトル)の異い母ぼ兄けいと伝えられる。無畏王子は耆婆を拾った際に、「まだ生きている」と言ったことから、「生きている者」を意味するジーヴァカが名前の由来とされている。厳しいカースト制度の中で娼婦との間に生まれた耆婆は、王位に就くことは難しく、タキシラ(パキスタン北東部の古代都市)で医い道どうを学んだ。

やがて、最先端の医術を学んだ耆婆はマガダ国に戻り、頻婆娑羅の主治医となった。頻婆娑羅が帰依きえしていた釈尊の主治医にもなり、耆婆自身も釈尊に帰依し在ざい家け信者しんじゃとなった。阿闍世のクーデター(仏教知識「提婆達多」、「阿闍世」参照)によって頻婆娑羅が亡くなった後も、阿闍世の臣しん下かとして仕つかえ、彼の主治医でもあった。阿闍世が母韋い提だい希け(ヴァイデーヒー)を殺そうとした時には、大臣月光がっこうとともにこれを止めさせた。その後、父殺しの後悔により病に罹かかった阿闍世に「慚愧ざんぎの心を懐いだけば罪が消える」という釈尊の教えを示して、釈尊と会うことを勧すすめる(耆婆の勧説かんせつ)。阿闍世は、耆婆の勧めに応じて釈尊と会い、説法せっぽうを聴き病は癒いえたという。

沙門果経
パーリ仏典経蔵長部に収録されている一経典

パーリ仏典 > 経蔵 (パーリ) > 長部 (パーリ) > 沙門果経

沙門果経(しゃもんかきょう、巴: Sāmaññaphalasutta, サーマンニャパラ・スッタ)とは、パーリ仏典経蔵長部の中に収録されている第2経。漢訳経典では、大蔵経阿含部の『長阿含経』(大正蔵1)巻17の27経目「沙門果経」、および『寂志果経』(大正蔵22)がほぼこれに相当し、『増一阿含経』(大正蔵125)巻39にも、その一部に当たる異本がある。

文字通り、仏教における沙門(出家修行者)の修行の果報を釈迦が説く内容となっている。戒律(具足戒・波羅提木叉)を守ることによる果報、止行による果報、観行による果報(六神通)が、順を追って説かれ、また、冒頭部ではいわゆる六師外道の思想と仏教との思想比較も盛り込まれるなど、初期仏教のあり方を総合的に説明するとても貴重かつ代表的な経典となっている。

六師外道の検討

パーリ経典に登場する沙門 (六師外道)
(沙門果経より)
沙門論(思想)
プーラナ・カッサパ 無道徳論、道徳否定論: 善行も悪行もなく、善悪いずれの報いも存在しない。
マッカリ・ゴーサーラ
(アージーヴィカ教) 運命決定論 (宿命論): 自己の意志による行いはなく、一切はあらかじめ決定されており、定められた期間流転する定めである。
アジタ・ケーサカンバリン
(順世派) 唯物論、感覚論、快楽主義: 人は四大からなり、死ぬと散じ何も残らない。善悪いずれの行いの報いもないとし、現世の快楽・享楽のみを説く。
パクダ・カッチャーヤナ
(常住論者) 要素集合説:人は地・水・火・風の四元素と、苦・楽および命(霊魂)の七つの要素の集合にで構成され、それらは不変不動で相互の影響はない。
マハーヴィーラ
(ジャイナ教) 相対主義、苦行主義、要素実在説: 霊魂は永遠不滅の実体であり、乞食・苦行生活で業の汚れを落とし涅槃を目指す。
サンジャヤ・ベーラッティプッタ
不可知論、懐疑論: 真理をあるがままに認識し説明することは不可能であるとする。判断の留保。

アジャータサットゥ王が、釈迦に、沙門(出家修行者)の果報を問うと、釈迦は以前その質問を、他の沙門・婆羅門にしたことがあるか問い返される。アジャータサットゥ王はあると答え、六師外道とのやり取りを説明する。

プーラナ・カッサパは、どんなに殺人を犯しても罪は無く、その報いも無い、すなわち「行為には結果を及ぼす作用が無い」と、質問とは噛み合わない見当違いな答えを述べたという。【道徳否定論】
マッカリ・ゴーサーラは、全ての生物には自らを変えられる能力は無く、運命と偶然性と生来の性質に左右され、苦楽を味い、一定期間の輪廻を経たら解脱すると述べたという。【運命決定論】
アジタ・ケーサカンバリンは、この世界や人間は地・水・火・風の四元素で成り立っており、死んだら灰になるだけだと断滅を述べたという。【唯物論】
パクダ・カッチャーヤナは、(プーラナ・カッサパと同じく)見当違いの答えをしたという。
ニガンタ・ナータプッタは、四種の禁戒による自己制御を述べたという。
サンジャヤ・ベーラッティプッタは、あるのでもなくないのでもないと、誤魔化しを述べたという。【懐疑論】
以上を述べた上で、アジャータサットゥ王は、改めて釈迦に沙門(出家修行者)の果報を問い、釈迦は話し始める。

仏教修行者の果報

釈迦はまず、下僕や農夫であろうと、

身体・言葉・心(身口意の三業)を制御し、最小限の衣食に満足し、閑居を楽しんで日を送れる
ことを述べる。

更なる果報を問われ、波羅提木叉(具足戒)による制御により、正しい行いや托鉢の場所を保持し、わずかな罪にさえ恐怖の念を抱き、自己を鍛錬し、正しい身体・言語活動を身に付け、清浄な生活を営み、感覚器官を外界から防御し、思慮深く、自覚的であることを身に付け、満足すると述べる。そして、比丘が守る具体的な戒について述べ始める。

殺生を捨て、武器を捨て、控えめで、慈悲心が厚く、全ての生物の利益をはかって哀れみを寄せる。
与えられないものを取ることを断ち、与えられたものだけを取り、盗み心を持たない。
純潔でない生活を捨て、愛欲を断ち、淫らな行いを断つ。
嘘を断ち、真実を語り、正直であり、世間を欺かない。
中傷を断ち、和合を推進し、協調を生み出す。
粗野な言葉を捨て、穏やかで、耳に快く、慈愛に満ち、心に訴え、優雅で、多くの人を喜ばせ、魅了するような言葉を語る。
戯言を捨て、ありのままのこと、意味のあること、真理の教え、戒律、心に明記されるべき言葉を、語るにふさわしい時に、比喩を混ぜながら、句切りをはっきりと、意味が分かるように語る。
種子・草木を傷つけることを断つ。
不要な貯蔵・享受を断つ。
娯楽を断つ。
賭博・遊びを断つ。
高大な寝台を断つ。
装飾・化粧を断つ。
低俗話を断つ。
言い争いを断つ。
使い走りに携わることを断つ。
ペテン・饒舌を断つ。
呪術を断つ。
以上のような戒律によって、自己制御することを述べた上で、更に、どのように「感覚器官を外界から防御し、思慮深く、自覚的であることを身に付け、満足する」のかについて解説していく。

眼でものを見る時、全体にも細部にも囚われない。耳、鼻、舌、身体、意思それぞれの感覚器においても同様。(=六根清浄; Indriyasaṃvaro)
あらゆる動作において、自覚的に行動する。(=念と正知; Satisampajaññaṃ)
どこであろうが、最低限の衣食だけで満足する。(=少欲知足)
そして最後に、住についての説明も加わる。

森・木の根元・山岳・峡谷・岩窟・墓地・藪地・露天・藁の積み重ねなど、人里離れた所に安息の場を求め、托鉢から帰ってきて食事が終わると、正しく足を組んで結跏趺坐し、身体を真っ直ぐにして、心を集中して座る。
こうして、戒律・生活水準での果報の説明が終わり、瞑想の果報についての話に移る。

瞑想については、まず、「五蓋」の煩悩を取り除くところから話が始まる。

五蓋が取り除かれていることを自己の中で確認すると、歓喜、喜悦、軽安、安楽が生じ、三昧を得る。

大王よ、比丘はこれら捨断されていない五蓋を、負債、病気、牢獄、奴隷、荒野をゆく旅路のようにみなすのです。

また大王よ、比丘はこれら五蓋を捨断したことを、無借金、無病、拘束からの解放、自由人、安らぎの場所とみなすのです。
そして、四禅の説明に入る。

欲界の愛欲・不正を離れ、その喜び・安楽、また観察・考究を伴った、「初禅」に入る。喜び・安楽で身体を充たす。
観察・考究をやめて、「二禅」に入る。内心における平穏(内等浄)、心の安定(三昧)から生じる喜び・安楽で身体を充たす。
喜びから離れ、「三禅」に入る。喜びから離れた安楽(離喜妙楽)で身体を充たす。
安楽も断ち、苦も断ち、「四禅」に入る。苦楽から離れた清浄な心で身体を充たす。
こうして次の洞察の話に移る。

「観行」の果報

「六神通」

上記の四禅に続き、比丘が知による洞察に心を傾ける観行に入り、以下の話が続く。

身体の観察(身念処)。この体は形を持ち、四元素から成り、父母から生まれ、食物の集積に過ぎず、恒常でなく、衰退・消耗・分解・崩壊するのがその本質であると知る。
思考から成り立つ身体を生み出す。物理的身体から、四肢感覚を備えた別の身体を生み出す。
(上記の身体を用いて)様々な超能力(神通)に心を傾ける。
一から多、多から一になる。
姿を表したり、隠したりする。
塀や城壁や山を通り抜ける。
大地に潜ったり、浮かび出たりする。
水の上を歩く。
空中を足を組んだまま飛び歩く。
月と太陽に触る。
梵天の世界に到達する。
神のような耳(天耳通)に心を傾ける。神々・人間・遠近問わず、どの音も聞くことができる。
他人の心を洞察する知(他心通)に心を傾ける。他人の心を洞察して知る。
情欲に満ちた心を、情欲に満ちた心として。情欲を離れた心を、情欲を離れた心として。
憎しみを抱いた心を、憎しみを抱いた心として。憎しみから離れた心を、憎しみから離れた心として。
迷いのある心を、迷いのある心として。迷いを離れた心を、迷いを離れた心として。
集中した心を、集中した心として。散漫な心を、散漫な心として。
寛大な心を、寛大な心として。狭い心を、狭い心として。
平凡な心を、平凡な心として。無上の心を、無上の心として。
安定した心を、安定した心として。安定していない心を、安定していない心として。
解脱した心を、解脱した心として。解脱していない心を、解脱していない心として。
過去の境涯を想起する知(宿住通)に心を傾ける。1、2、3、4、10、100、1000、10000の生涯を想起する。幾多の宇宙の生滅を通して想起する。
生命あるものの死と生に関する知(死生通)に心を傾ける。神の眼によって、因果・輪廻の様を知る。
煩悩の滅尽に関する知(漏尽通)に心を傾ける。
「苦しみ」「苦しみの原因」「苦しみの消滅」「苦しみの消滅の道」(四諦)を知る。
「解脱」を知る。
「再生の遮断」を知る。
「修行の完遂」を知る。
こうして釈迦が、仏教における沙門を果報を語り終わると、アジャータサットゥ王は感嘆し、在家信者になることを誓い、帰っていく。

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