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小論文と出会って人生が変わった……と語る記事

みなさん、小論文という試験に出会ったことはありますか?

一般的に一番、若い年齢で出会うとすれば、国公立大学の二次試験や難関私立大学など大学入試かと思います。

その他、大学編入学試験、大学院入試や公務員試験、司法試験などの受験科目として小論文は登場します。

「小論文」という試験科目と出会い⇒人生変わった……

私は某都市部の国公立大学に入学後、卒業論文のテーマを練る等の理由から編入学を決意し、地方の国立大学に編入しました。

私の高校は、実は偏差値が40ちょっとくらいの大阪市立高校でした。

個人的には世界で最高の高校に進学できたと思っています。

今でも当時の校長先生の自宅に一年一回はお伺いして家族ぐるみの交流が続いています。友達にもたくさん恵まれました。青春をくれた学校です。

そんな大好きな高校の卒業を迎えた際の自分の悩みは、大学へ進学したいものの経済的な事情で国公立しか進路選択ができなかったことです。

そんなときに、「小論文」という科目と出会いました。

初めははっきりいって、チンプンカンプンでした。

そもそも私は高校まで不真面目で、不登校になって退学したり、学校にも行かない時期があり、最終的には高校を4年間かかって卒業しました。

受験を迎えるまでに読んだことがある本といえば、ミスターチルドレンのファンブックと尾崎豊の奥さんが書いた自伝くらいでした(笑)

しかし、小論文の対策を勉強していくことで、自分の世界のすべて・何もかもが変わっていったんです。。。

たぶん、これを読んでいる人には信じてもらえないと思います。。。

人生を振り返ったとき、小論文という問い(課題)との出会いが恐らく一番、大きな飛躍のターニングポイントでした。

小論文で、「教養」を高める


小論文の問題は、ある程度の分野の指定は予告されているものの、具体的にどんなテーマで出題されるか受験生にはわかりません。

たとえば合格したけど結局は行かなかった某国立大学の法学部編入学試験の場合、出題範囲としては「法学」、「憲法(学)」程度です。しかし法学といっても、法哲学、倫理学、法医学、環境法学、法社会学、日本文化学、日本近代史、ヨーロッパ近代史、法歴史学など、幅広い知識が求められます。 

法学部の受験のため、一番、最初に読んだ本は、渡辺洋三の『法とは何か』(岩波新書)です。この本との出会いが、私の小論文対策のすべての始まりでした。

つまり小論文で、まず実行する対策とは、書けるようになるために読む、ということでした。

私は偏差値が40しかなかったので、自分のことは相当、他の受験生よりも遅れていると思っていました。

そこでまず取り組んだことは、入試試験の出題をするであろう大学の先生の先生、の本を読むことです。

つまり、昭和一桁くらいに生まれた世代の知識人の本を、読むことにしました。

そうしようと思った理由は、当時(2002年頃)、BOOK-OFFが巷にどんどん店舗を増やしていて、そこの100円中古本コーナーでたくさんの古い本が安くて手に入ったからです。

自分は当時、「かしこい人」にステレオタイプがあって、「きっと賢い人って本を読む人のことだろう」と思っていたので、そこでたくさん本を買ったら、たまたま昭和一桁に生まれた世代の人の本が多かったんです。 

自分の部屋に本がだんだん増えていって、すぐにはそれを読まなかったのですが、本棚がいっぱいになるにつれて「あ、なんとなく僕、賢くなってきたんじゃないか」といった錯覚(笑)から、勉強する気持ちを高めていきました。

「あ、この調子で、自分の親(戦後世代)より戦争を経験してぎりぎり生きている世代の人ら(渡辺洋三先生は、2006年までご存命でした)の本を読んだら、とりあえず小論文の試験問題を作ってる先生よりも賢くなれるんじゃね? だって、先生の先生だから、それって超(スーパー)先生ってことだろ?」

といったレベルの発想です。笑

結果的に、今振り返ってみると小論文の題材に選ばれる人たちの本が安く一斉に売り出されていたのだと思います。私の場合は、渡辺洋三先生の論理展開が好きだったので、この人の本を次々買って、渡辺洋三ファンになりました。結果、「法学については、この人」という知的なガーディアンとしたのです。

その他、当時にたくさん読んだ本の著者たちは、

文化人類学者の山口昌男 『文化人類学への招待』

板坂元さんの考える技術・書く技術

哲学者の中村 雄二郎 の『術語集』

ノーベル文学者の大江健三郎、『壊れものとしての人間

から

外山 滋比古さんの『日本語の論理』

イギリス文学者から文化・社会批評家となった渡部昇一の『知的生活の方法

書誌学者の谷沢永一の『人間通』(自分の地元だった天王寺区の四天王寺にかつて住まれてた……)

などなどです。

そして、今でも覚えていることは「知的生活」というキーワードで、たくさんの本を読んだことです。特に渡部昇一さんの現代講談社新書シリーズや、ハマトンの翻訳などは、「ああ、賢い人ってこんなことを考えて、こんな生活を送っているんやなー(自分とはぜんぜん違うな)」と憧れを抱かせてくれました。

特に、『いかに大学で学ぶべきか』みたいな本をたくさん読みました。

1960年代は、高等教育への進学率がどっと増えて、大学での学び方がそもそもわからない学生が増えた時期だったためか、こういった主題の本が多くなったのかと思います。

今、分析してみると、勉強を開始する前にまず、どのように勉強すべきか、そもそも勉強とは何か、何を目的にどういった心構えと手段でそれを実行すべきか、という本に夢中になりました。

ハウツー本=勉強の仕方・知的生活の仕方(方法)にハマったわけです。これが、自分の合格成功のきっかけだった気がします。

今でも残っている当時の読書ノートによれば、256冊を年間で読み続けました。

そんな小論文対策を通じて、現在の社会問題のこと、自分自身のこと、自分自身が今まで悩んできたこと、自分が「これってこうじゃないかな」と思ってきたことがどんどんと紐解かれていったのです。

教養とは、人間形成の「培い」

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実は大学編入学や大学院試で小論文で問われていることの一つは、「教養」です。

「教養」というと浅い知識のことと思われるかもしれませんが、人間が有するもっとも深い知の営みだと僕は考えています。

中村正直(1832-1891)はスマイルズの著書、"Self-Help"の訳書である『西国立志編』(1871 (明治4)年 )で、cultivationを「ヲサメヤシナウ」というルビをつけ「修養」と訳しました。その後、この「修養」は公教育に入って「倫理」=ethicsの訳と混同されながら「修身」へ、次に旧制高等学校や旧帝国大学の学生の徳目となって、educationの訳語と混同されながら「教養」へと分化していきます。

この教養=培いという、原義の本質は「自分の意識の田畑を耕す」ということです。 

生きていくこの自分のために、実りのある収穫(知識)を得るための精神の田(土壌)を「培う」、主体的な学習が「教養」の原義です。

個別ばらばらの知識が、どのように連関して有機的に意味をもっているのかを、認識することができる素養が教養といってもいいと思います。

単なる雑学や暇つぶしの学問ではなく、かえって専門的な学問の学びを支えるものです。

戦後以降の最近の研究者や大学教員の知性が低下していると言われている理由は、この「教養」がないまま、学生の身分からいきなり先生となって狭い研究対象だけに詳しくなってしまい、タコつぼに入って出れないからかと思います。

そのような大学の研究者や専門家は、肩書と地位は高いですが、自己の専門性の限界を知らない意味ではかえって謙虚な市民よりも「無知」なのです。

さて、この「教養」の価値について、自分が思っていることをすごくかんたんに説明をしたいと思います。

私達が日常で何気なく過ごす日常、たとえば友達とコンビニの前で駄弁ったり、旅行に行ったりすることを想定してみてください。

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ある人は、「ああ今日は何食べようかな~コンビニの新しい抹茶シュークリームおいしいな」と思います。

しかし教養のある人は、アンテナが幅広いため、そのようなことも考えることもできますし、もっと違うことも考えることができます。たとえば、

「最近、店舗で働く外国人のスタッフが多くなってきたな、社会の労働力が不足しているな。この程度の日本語で来日していたら、緊急医療のときは困るんじゃないか。大地震の災害のときには避難の仕方を理解しているのか」など、など、色々なことを考えて、思考が回転していきます。

人間の最も重要な能力とは、何かを表現して発表して注目されたり、言葉巧みにアピールして物を高く売ったりする「差し出す」(give)ためのコミュニケーション能力ではなく、日常の事物から感動して学び「受け取る」(accept)力、他者の気持ちや痛みを理解して共感できる「直観」であると私は信じています。 教養は、この認識と直観を養ってくれるのです。

ある一つの観察した事物から、つぎつぎの蓄えられた知識が磁石のように呼び出されて、全体の俯瞰的な景色のなかで、その目の前の事物を位置付けてくれるのが教養だと思います。

別の言い方をしますと、たとえ高い営業力でお金を儲けて裕福に自宅の広いリビングの一室を用意して、高価なスピーカーと大きなプロジェクターで映画を見れても、そこで見ている映画の内容やシーン、制作者の意図やレトリックを理解して感動すること、涙を流すことができなければ、その人はむしろ貧しいわけです。

遭遇する事物や生きている価値を吟味して、味わうことができないのであれば生きる意味さえないのです。収入を得て余暇が増えても、教養が無ければその時間に生きているこの世界の価値を深く感じることができません。

海外旅行に行っても同じです。ある人は、買い物に夢中でショッピングセンターばかりに足を運びます。消費することで、幸せを感じる、ということもあるかと思います。

一方で、ある人はその場所でしか味わえない寺院や施設を巡ったり、楽しみ方は人それぞれです。その楽しさに質的な優劣がある、とはいいません。

しかし、教養をもって歴史や文化を楽しむ人はショッピングセンターで買い物を楽しむこともできます。しかし教養がなければ、歴史的な建築物や現地の芸術や博物館にある文物の意味を味わい鑑賞することはできません。

もうお分かりかもしれませんが、もし教養が無いまま、人生を過ごしてしまうと、「自分は生きている、楽しい、自分の人生を歩いている」と思っていても、実際にはそうではなく、欲望に盲目的に従っている動物と変わらない点で本当の意味で自由ではないのです。

そのような動物的な人間になってしまうと、生きていることとそこで出会う世界の意味が分からないまま、酔生夢死を迎えている、ということかと思います。動物ではなく、人間になるために、私達には教養が必要です。

そして、この「教養」の重要性を気づかせてくれたのが、私の場合、この「小論文」(特に編入学)だったのです。

編入学後も大学院入試、就職のための志望理由書、科研費などを取るための研究計画書、博士論文など、どんどんと論文を書いていくことができるようになったのは、この「小さい論文」である小論文に向き合ったおかげなのです。

小論文が、僕の人生のスプリングボードでした。

みなさんも、ぜひ本屋さんで受験参考書のコーナーに行った際は、小論文の参考書を手に取ってみてください。

私が小論文の対策を始めて、間もなくに出会った森鴎外の言葉をご紹介します。


自我が無くなるといふこと[死]に就いて、平気でいるかというに、さうではない。

その自我といふものが有る間に、それをどんな物だとはっきり考へても見ずに、知らずに、それを無くしてしまふのが口惜しい。残念である。

漢学者のいふ酔生夢死といふやうな生涯を送つてしまふのが残念である。

それを口惜しい、残念だと思ふと同時に、痛切に心の空虚を感ずる。

なんともかとも言はれない寂しさを覚える。

森鴎外 『妄想』


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