2020.4 太鼓谷稲荷神社・徳佐八幡宮
紅葉シーズンも盛りを過ぎ、初雪すら観測された今の時期に、桜の話をしようとしている。
私は、桜の花を愛している。
冬から春へと季節が移ろい、空の青さが、空気の温かさとともにくっきりと次第に濃く青くなってきた頃、見上げると、淡くピンクがかった白い雲が手の届きそうなところに浮かんでいる。
いつも、心洗われるような感覚が胸いっぱいに広がっていくのを感じる。見ているだけで、自分の内側がその美しさで満たされていく心地だ。
日本では、どこかへわざわざ出かけていかなくても、普段の生活を送っているだけで身近に桜の花を堪能できるが、この年の春は、島根県津和野町の太鼓谷稲荷神社へと赴いた。
お稲荷さんの独特の雰囲気が、幼い頃から好きだった。境内に稲荷大明神のまつられたお寺の幼稚園に通っていたからだろうか。とは言え、大人になると、お祭りの時とお正月くらいにしかお参りすることもなくなり、こうして桜を口実に稲荷神社を訪れられたのは本当にうれしいことだった。
神社で動物に出会ったり、美しい自然現象に出会えたりすると、それは神様に歓迎していただけているしるしなのだと、読んだことがある。この日、私がお参りを終えた後、のんびりと鳥居の連なる坂道を歩いて帰ろうとしていたところ、さあっと気持ちの良い風が吹いてきて、地面に散らばった桜の花びらがくるくると渦巻き、低く足元を飛んでいった。ああ、よく来たねと言っていただけているのだなと、とても有難かった。
「花」と言えば日本では古来から桜であり、「桜」と言えば今我々が思い浮かべるのは、おなじみの染井吉野の姿だと思う。毎年、今か今かと花が咲くのを待ちかねて、少しずつ白い花が枝を飾り始め、ようやく満開に咲き乱れるその姿に出会えたかと思えば、あっという間に散ってしまう。語りつくされていることだが、やはり、その儚さまでもあってこそ、美しいと思う。
ところで、「花は桜木、人は武士」という言葉がある。私の好きな言葉の一つなのだが、これは室町時代の僧、一休宗純の言葉とされている。室町時代に、江戸時代に作られたとされる染井吉野はまだない。さらに言えば当然、和歌などで詠われる「花」や「桜」も、同様だ。
この日、次に訪れた徳佐八幡宮では、その、古からの「桜」を感じられる桜の花を、存分に堪能できた。
私は花の品種などには疎いので、これらが本当に古来から見られる桜の姿をしているのか、それとも、もっとずっと新しい桜の姿なのかは、分かっていない。けれども、こうして見ていると、形も違う、色も違う、様々な桜の花が、咲いている姿で、散りゆく姿で、春を喜ぶ心をたまらなく掻き立ててくれる。染井吉野ばかりに目を遣りがちだが、こうしてそれ以外の桜の美しさに改めて触れることができた。
一日中、動き回りながらも花見を堪能することで、日本の春が大好きだなと、毎年恒例ながら、しみじみと感じ入る、幸せなひと時であった。
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