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#3 糸あやつり人形観劇録 -時をあやつる糸-

糸あやつり人形を見に行こう

この企画の1回目である「#1 能 -ここにアニメがあった-」を執筆している時点で、我々は人形浄瑠璃を見てみたいという気持ちがあった。
日本の伝統芸能のうちでもことさら未知の領域だからだ。是非行ってみたいなぁと思いながら、公演を探していると、気になるタイトルが目に入った。
https://www.isshiza.com/gracchus
浄瑠璃ではなく「糸あやつり人形」である。
ただの糸あやつり人形ではない、カフカの短編「猟師グラフス」をやるのだ。
浄瑠璃も面白そうだが、この未知の舞台である「糸あやつり人形」も興味深い。
糸あやつり人形とは、その名の通り糸が取り付けられた人形で演じられる劇のことだそうだ。
いわゆる伝統芸能であり、今回見つけた猟師グラフスを公演する「一糸座」も江戸時代から続く糸あやつり人形を継承する劇団の一つである。
糸を使わないあやつり人形ならば、思い当たる作品は多いだろう。NHKの「ざわざわ森のがんこちゃん」や「セサミストリート」は馴染み深い。サブカル方面だと「Thunderbolt Fantasy」など、いくつか見聞きした作品があるだろう。
思い返すと、案外我々は人形劇という形態の芸術に触れ合ってきたのかもしれない。
しかし、””あやつり人形に限定するとなかなか見る経験がない。
唯一あやつり人形として広く知られているピノキオも作中では糸で操られているわけではない。
糸あやつり人形は映像作品ですら、触れられる機会はごく一部に限られている。偶然見つけたとはいえ「糸あやつり人形」という貴重な体験を見過ごすわけにはいきますまい!
そんなこんなで見に行くこととなった今回の演目「猟師グラフス」は先述の通りあの「変身」で有名なカフカ原作の短編小説だ。
こういった伝統芸能は日本の古典作品を題材にするイメージがあるので、カフカの小説を上演することにまず驚いた。
原作の「猟師グラフス」は生と死の間を漂う猟師の話で、カフカらしいなんとも不思議なストーリーだ。
あらすじとしては以下の通りだ。
なんの変哲もない街に小舟が到着し、男たちがそこから棺台を担ぎ上げる。
そのまま棺台はとある館の中に運び込まれる。
その後、街の市長が館に訪問し、棺台の上の猟師グラフスという男と会話をする。
グラフスは狩猟中に転げ落ちて死んでしまったが、三途の川を渡る船の中で船頭のミスによって渡り損ねてしまったらしく、今も死と生の間を何百年も漂い続けているというのだ。
グラフスは街に留まらずにこれからまたどこかに漂っていくだろうと話し、そのまま物語はあっけなく終わる。
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果たして糸あやつり人形でどのようにこの謎多き作品の行間を埋めるのか、非常に気になるところだ。

劇のあらまし

糸あやつり人形 猟師グラフスは、おおよその展開としては原作通りであったが、原作にない脚色や表現が多々あった。
まず、舞台の構造は真ん中に島のような台があり、二重舞台になっている。
舞台上手には劇伴の演奏者がいて、その場面にあったBGMや効果音を鳴らす。
開演後、さっそく糸あやつり人形が登場する。人形は床から膝までの範囲に十分おさまるサイズでとても小さい。最初は、少年がサイコロを振るという原作では一文でしか表現されていなかった場面をじっくりと見せられる。
当たり前だが、この人形を操る人形遣いも一緒に舞台に立つ。
人形遣いはみな顔を隠さず晒した状態で糸を巧みに操作し、人形に声を当てていた。その後も原作では1行程度の要素であろう場面を拾い、人形劇に仕立ている。時には「これ原作にあったっけ?」と疑心暗鬼になるほど細かい部分まで拾い上げていた(実際、原作にない場面もあった)。
特に記憶に残っているのは市長と船頭の周りを子供の人形たちが大量に現れてひたすらに騒ぎ続けるシーンだ。
矛盾しているかもしれないが、あまりに同じことが続いたので眠くなってしまった故に印象に残っている。
人形を使わず、役者がそのまま表現する場面もところどころ存在した。
人間の役者が抽象的な舞踏のようなものを延々と続ける場面もあった。ここもまた眠気を誘うシーンだった。
グラフスが登場した以降は、人間が演じる市長とグラフスが島舞台の上で会話劇を繰り広げる。グラフスの声は人形遣いが当てるのではなく別の舞台後方で別の役者が声を当てるようになっていた。それ以降は比較的原作に忠実に市長とグラフスの問答が続き、シカの狩猟などの回想シーンについては島舞台の外で再現シーンのように繰り広げられていた。おおよそ原作通りの展開で劇は終焉を迎え、役者は去り人形は片付けられていく。

要点としては以下の通りだ。

  • 原作の細かいところを拾ってじっくり表現していた

  • 原作にない場面もじっくり表現していた

  • グラフス以外の人形はめっちゃ小さかった

  • 人形遣いは顔を隠さずに人形を操っていた

  • 途中眠くなった

舞台配置の概要

糸あやつり人形である必要性

人形劇を観る上で、誰しも思う疑問がある。
なぜ人間を模した人形を使う必要があるか?という疑問だ。
この劇を見ると、その答えは自ずと理解できた。
結論から言うと、人形とは「舞台上で生きて、死ぬことのできる唯一の肉体」なのだ。
人形を使う意味を考える上で、今回の「猟師グラフス」の人形だったものとそうでないものについて整理しよう。
まず人形だったものは以下の通りだ。

  • 猟師グラフス

    • 生と死の狭間を漂う

  • サイコロを振る少年たち、掃除をする人たち、など

    • 町の人々を描く背景的存在達

  • シカ

    • グラフスが生前追っていたシカ

    • 針金でできたスケルトン人形

    • 市長へグラフスの到着を予言した

  • 群がって騒ぐ少年たち

    • ただ騒ぎ続ける存在

    • 我々を夢の世界に誘った張本人

そして、実際に人間が演じていたものは以下の通りだ。

  • シカを追う生前のグラフス

  • グラフスと会話をする市長

  • 舞踏などをする人たち

    • 黒服で抽象的な舞踏をする

    • 我々を夢の世界に誘った張本人

この劇で人形を使う必要性として真っ先に思い当たるのはやはりグラフスの表現だろう。
グラフスは生と死の狭間にいる存在であり、言わば「話す死者」と言える。まさに人形で演じるにぴったりの境遇だ。そこに人形を使うことは違和感がない。
問題はグラフス以外の人形たちと人間たちの使い分けだ。
他の人形たちもグラフスと同じように、人形=死者という式を当てはめるとどうだろう。
人形がすべて死者だとすると、活発に騒いでいた子供たちも死んでいることになる。そのくせ、死の直前にあったシカを追う猟師グラフスは人間が演じていた。
やはり他の登場人物の人形たちの使い分けには疑問が残る。
いま一度劇を振り返り、人形と人間を比べてみると一つの仮説が浮かび上がる。
それは、追憶の中にある人物は生身の人間であるということだ。
つまり、現在進行形で生きている人間も死という運命に紐づいていて、記憶の中にいる者のみが死から解放されていると捉え方だ。もっと正確に表現すると、人形に肉体性を、人間に精神性を分担させていたということだ。
しかし、この考え方にも不備がある。市長がなぜ人間かという点である。
これには様々な想像ができる。
市長は観客の好奇心を代表する存在だとか、グラフスの内面にある救済を求める感情の隠喩だとか、権力の象徴だとか、単純な対話役としてではない様々な見方ができる。
つまり、この舞台上の肉体はすべて人形で表現されており、人間はそれらに魂を与える存在であり、人間単体では概念的存在でしかないということだ。
もちろん正解のある疑問ではないが、人形と人間を両方舞台に上げることでこれほどに深みのある多義性が生まれるのであればこの演出は大成功と言えるだろう。
このように考えてみると劇における人間と人形の違いが浮き彫りになってくる。
つまり、人形はその肉体そのものが生きていない物体だが、人形遣いという魂を持った人間が操作することで、舞台上で生きて、そして死ぬことができる。無機物で永遠の命を持っている人形と限りある命を持つ人間が、舞台上ではイメージが逆転するというのはなかなか面白い。
人間の役者がいくら死者の化粧をして演技をしようと、結局観客にとって本当に「死んでいる」つまり魂のない状態になることはできない。それこそ本当に舞台の上で本物の内臓をブチまけて死なない限りは難しいだろう。
しかし、人形はその身体に人の手を介して魂を込められる。人の手が人形に触れることによって、たちまちそれは命を吹き込まれ、手が離れるとまるで嘘だったかのように死ぬ。
今回のグラフスに登場する人形は、決してエネルギッシュな動きではなく、まさに生きているか死んでいるのかの狭間の存在のように見えた。
そして、終演時に人形遣いの手から離れるグラフス人形には、死を連想せざるを得なかった。
これこそ生と死が人形遣いの手の上にある何よりの証拠だろう。
やはり人形遣いとは、舞台上で生と死を再現できる唯一の役者と言えよう。

見せる演出、見ない観劇

この舞台の主人公が人形である必要性がわかってきたところで、演出についても振り返ってみよう。
今回の劇における特筆すべき点は、人形遣いの顔がそのまま隠されず晒されていることだろう。
人形浄瑠璃の人形遣いの一部は顔を出したまま人形を操作するため、この劇でも同じ形式になることはある程度予想はしていた。
しかしこの劇では、誰一人として黒子のようなものを被っていない。
人形を操作する存在を一切隠そうとしていないのは予想以上だった。
そして、何より驚くべきことは数人程度だったはずの人形遣いたちの顔をほとんど覚えていないことだ。つまり、我々は人形遣いを目視し、認識していたにも関わらず、意識の中心は人形にあったということになる。
この劇に登場するグラフス以外の人形たちは膝下より低い位置で動くため、そこに集中すると人形遣いの存在は意識の外に行くのだろう。大きな舞台で演じながら、目線はそのごく一部に集中させるとは、なんて贅沢な使い方だろうか。
しかし、そのおかげで人形たちの動きを神の目線で眺めるような感覚に陥る。町の民衆を描く背景劇を行うならうってつけの見せ方なのかもしれない。
ただ、グラフスに関しては人形遣いの顔がチラチラと目に入ってしまった。グラフス人形は他の人形よりはるかに大きいサイズで、人形遣いはグラフスの背後霊のような位置に立って操演する。
そうなるとどうしても視界に2つの顔が並んでしまう。
さて、ここで考えてみたいのが人形遣いが「目に入る」か「目に入らないか」がどう観客に作用していたのかという点だ。
その2つについて一般的にどういう印象が生まれるか考えてみよう。

人形遣いの顔が目に入らない場合

  • 人形たちにフォーカスして見るため、その世界に没入できる

  • 人形と人形遣いの繋がりを感じにくい

人形遣いの顔が目に入る場合

  • 人形たちの世界に没入しにくい

  • 人形と人形遣いが一心同体のように感じやすい

こう書いてみると人形と人形遣いの顔が近いことは没入感を阻む大きなデメリットのように思える。黒衣をまとって顔を隠したて操った方が劇に集中できるのではないか?という考えは、誰しも考えることだろう。
しかし、今回の猟師グラフスを踏まえて考えてみると様々な気づきが得られる。
観客は劇に没入するために、人形たちの完成された劇に混ざる人形遣いの顔を頭の中で消す必要がある。
ただ舞台の上の存在をそのまま受け取ってしまうと、人形遣いの顔が邪魔に見えることもあるだろう。ジャンルに関わらず想像力を働かせ鑑賞することは必須だ。
舞台は、観客側も想像力を働かせなければ、見えたままの半分の世界しか楽しむことはできない。その想像力をいかにして刺激するかが演出の腕の見せ所と言える。人形遣いの顔を晒すというのも、観客に受動的ではなく能動的に想像力を働かせて「見えるもの」と「見えないもの」を制御せよ、とスタンスを指南している演出にも思える。
」あやつり人形であることのメリットもここで浮き上がってくる。
それは、糸を使うことで人形と人間の距離を調節できる、ということだ。これによって先述の人形遣いと人形の距離による感じ方の違いを精密にコントロールすることができる。
糸あやつり人形という形式はなんと合理的なのだろうか。
そういった「隠す/隠さない演出」が、猟師グラフスの人形を「生きているように会話できる生々しい死にぞこないの死体」という絶妙な塩梅に仕立て上げているのだろう。
思い返すと、人形遣い以外も舞台の上にあるものは、そのカラクリをすべてあらわにしていた。
劇伴を担当する奏者は隠されることはなく舞台上手に座り、グラフスの声を当てるキャストも舞台の後ろに立っていた。それだけに飽き足らず、なんと人形を置くハンガーのような物も舞台下手に置かれていた。開演前はそのハンガーに人形たちが掛かけられており、終演後には役目を終えた人形たちがそこに片付けられていた。その取り出す/片付けるの様子さえも隠されずそのまま見せつつけてきていた。
これも考えてみると、人形に魂が吹き込まれる前と後をあえて見せることで、相対的に人形劇の持つ生命力を際立たせていた効果があったのかもしれない。このように舞台全体にちりばめられた「隠さない演出」が、この糸あやつり人形の舞台において欠かせないエッセンスであることがわかる。

永遠と夢幻

時間芸術が空間芸術と最も異なる点は、観客の体感する絶対時間が存在することである。
特に舞台のように直接観客の前で演じられるものは、スローモーション等の時間方向の変化を加えることはできない。
しかし、体感時間をコントールすることはできる。
観客は、目の前で演じられる世界の動きそのものを体内時間で処理していく。
眼前に見える情報の量によって世界の速度は変化する。
今回、グラフスは永遠の時を小舟の上で彷徨っていくことへの諦観を語る。
人形という存在は素材の劣化こそあれど、それ自体は人間のような成長や老化があるものではない。
疑似的な永遠の時を持つ存在が、今までとその先について語る。
結局のところ、彼が生きる世界は本当に永遠なのだろうか。
今までの彼の経験を延長させた結果をもって、その状況が永遠に続くと仮定しているに過ぎない。
これが永遠に彷徨い続けるのか、それとも突然終わるのか。
それはこの世界の理を管理するものでなければ、判別できないだろう。
しかし、ここでこの劇で見られた2つの表現を見てみよう。
1つは波のシーン
いや、波のシーンなのかどうかすらわからない。
ステージに人が動き、地引網のようなしぐさをしながら時折倒れる、というものを繰り返していた。
それが体感時間としては非常に長く続く。
実際の時間がどれほどだったかはわからない。
しかし、あのシーンを見ていた我々の体感時間は優に1時間を超えるだろう。
いや、睡眠してしまえば一瞬で終わるシーンでもある。
小舟が波を揺蕩う時間は彼にとっては永遠のように感じられ、我々にとってはいつか終わる時間である、という明らかな対比がそこにはあった。
観客という観測者はその踊り、そのシーンがいつかは終わることを知っている。
しかし、主体であるグラフスはその揺蕩いがいつまで続くかを知らない。
その差こそがこのシーンの主題であり、さらにそこから、「この場面は本当にいつ終わるんだ?」と観客が思うまでの時間まで計算されていた。
永遠とも思われるような長い長い漂流のシーンによって観客の体感時間がグラフスと一体となったとき、グラフスはとある街の漂着する。
2つめは子供たちが市長と水夫の周りで遊ぶシーンだ。
こちらも非常に長い時間をかけてその遊びが展開される。
遊びをする子供たちは、人形を使って表現されていた。
子供という存在は永遠の存在ではない。
人間は成長し、老いていく。しかし、この舞台上ではそうではない。
地上における永遠の象徴としての子供たちは、人間の存在など意に返さず、時間の限り遊び続ける。
彼らはこの時間世界から切り離された存在として、その永遠ともいえる遊びを観客に見せつけてくれる。
前の章で述べた通り、人形は人形遣いの繊細な手さばきにより生や死を忠実に表現できる存在であるが、逆に空虚で乱雑な生命力を注ぐことで無機質さを際立たせ、時間を空転させることができる。
ただそこで回り続ける独楽に永遠を見出してしまうように、あの時の人形たちには限りなく広がる永遠を感じざるを得なかった。
この作品は徹底して世界の時間を延ばす。
それは退屈な時間でもあり、舞台世界と観客を融合させるために必要な時間でもある。
この体感時間の操作は、本企画の第1回で取り上げた「#1 能 -ここにアニメがあった-|砂漠の冬のスフィンクス」でも大いに活用している。
この時に見た能では中盤で明らかに眠くなるパート、いや眠らせてくるパートがある。それによって夢と現の境界が強制的にあいまいにさせられ、夢幻能の真髄に近づくことができた。今回の人形劇とは目的が違うかもしれないが、舞台において体感時間を拡大させることは単なる「退屈」以上のはるかに大きな効果があると言える。

様々な時間を操る映像作品


同じく時間芸術である映画を例に挙げよう。
今公開中のガールズアンドパンツァー第四章は明らかに時間を操作している。
ガールズ&パンツァー最終章 公式サイト
上映時間が55分の映画ではあるのだが、明らかに体感時間は2時間以上。
しかし、これは先述したような体感時間の引き延ばしではなく、内容の密度が高すぎるが故に脳の処理を全速力で回すため、時間が遅れたように感じる、つまり、アドレナリンなどによるスローモーションの世界を疑似的に体感できる危険アニメーションであった。
この劇場版ガルパンのように、密度を込めて時間を拡張する方法は伝える内容を詰め込んだ時間芸術に最適だ。
これは同じ体感時間の操作だとしても、今回の人形劇や能とまさに対局に位置している表現方法だろう。
ここに映画と舞台の違いがある。
映画には文字やVFX等、表現の幅が肉体を離れてそのイメージを直接観客に伝えることができる。しかし、舞台はセリフと身体のみでその時間を伝えなければならない。
さらに人形劇ともなると、さらにその幅は狭まる。
しかし、だからこそ、そこに人間的時間軸の見え方を考察する余地が生まれるのだ。
体感時間の引き伸ばしを意図的に行う映像作品もある。
最近では、ウェス・アンダーソン監督の「アステロイド・シティ」にそれを感じた。この映画の複雑な劇中劇構造と長いタメの時間は観客を夢の世界へ誘う。そして、眠気が覚めるころに「目覚めたければ眠れ」というセリフの連続で観客は文字通り覚醒する。
この映画における劇中劇という構造はまさに能における夢幻能と同じで、フィクションの世界を夢幻の如く表現する素晴らしい演出だ。
日本好きのウェス・アンダーソン監督はもしかしたら日本の伝統的舞台を参考にしていたのかもしれない(胡乱)

もちろん、アニメでも同じように体感時間の操作を意図的に行っている作品がある。
聖剣使いの禁呪詠唱<<ワールドブレイク>>というアニメをご存知だろうか。

このアニメの5話、We are the “夏”に、この舞台で見られた表現と同じ手法をとった場面がある。
キャラクターがセリフを話しているシーンでもキャラを映さずに、波だけを映し続けるシーンだ。
巷では作画崩壊がどう、というような話もみられるが、ここまでの論点から考えると、それは浅はかな考えだったということがわかるだろう。
ワルブレの世界では、学生として生きる傍ら、社会を守る救世主として常に自身を保たねばらない。
年端もいかない少年少女たちが世界の命運を握るというプレッシャーは我々には想像もできない。
しかし、彼らが欲するものは我々と変わらないだろう。
学生生活の夏休み、それは人生における春である。
さらに海に行くとすればなおさらだ。
だからこそ、その時間を永遠という額縁に閉じ込めたくなる。
この時間はかけがえのない時間であり、永遠に残したい一瞬であった。
だからこそ、波のシーンがある。
何度も何度もモチーフとして現れる波のシーンは、この舞台でもあったグラフスの漂流シーンと同じだ。
永遠という表現を文字であらわすのは容易い。
しかし、観客がそれを身体性を伴って理解するためには、実際にそれに近い時間を体感するほかない。
だからこそ、聖剣使いの禁呪詠唱はその表現を使ってみせたのだ。
永遠に続いてほしいという願望を表現するために永遠を見せる。
永遠に続いているような時間を表現するために永年を見せる。
これもまた、これが時間芸術表現の世界の奥深さだろう。
「糸あやつり人形」という芸術は舞台の上で人形だけでなく、生と死、時間までも操る。
公演回数は多いものではないが、見つけた際にはぜひ貴方も足を運んでみてはいかがだろうか?


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