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#1 能 -ここにアニメがあった-

これは何?

これはいつか築地で寿司に舌鼓を打った後、銀座の歌舞伎座を通りかかった時の話だった。
「経験したことのない趣味とか体験、経験してみたくない?」
この連載は、我々が知らない世界を体験し、それを既存の知識と結びつけることによって、新たな価値観や観点を見つけ出そうという取り組みのアウトプットである。
その記念すべき第一回は、Culture traditionnelle japonaise である能を観劇ことから初めてみることとした。

読者諸君は能を見たことがあるだろうか。あったとしても、学校行事で観劇した程度だろう。
我々ももちろん存在は知っていたが、それ自体を実際に目にしたことはなかった。
普段生活していて「お、能やってんじゃーん。見に行くべ」となることはほぼなく、機会があったとしても前述のような強制的に見る機会だけと言っていいだろう。
しかし、能は500年の歴史がある日本の伝統芸能。
そこには体験しないと得られない新たな世界があるのかもしれない。

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歌舞伎座近くのBEER BARに入った我々は[e+様]にて能の講演チケットを探してみることにした。
すると、東京タワーの真横にある増上寺で蝋燭能と呼ばれる能が開催されるということで、早速そのチケットを予約した。
演目は狂言「柿山伏」と能「土蜘蛛」である。
どちらも御伽話やオタクコンテンツの影響で何となく知ってはいるものの、根源としての物語を知っているわけではなかった。
能に興味を持たなければ、能についての理解を深めることはできない。
我々も興味の無い側だったわけであり、もちろん能への理解は浅い。
しかし、やはり新しいコンテンツ、体験したことのない物語に触れるに際して重要なことは予習であろう。
旅行に行くの旅行先に関連する資料・歴史書を読むことは聡明な読者の諸君なら普段から実施されていることだと思う。
特に伝統芸能においては、話していることが理解できない可能性があるため、予習は必須である。
今回、能について何も知らない我々が、予習用の書籍として選んだのは以下の本である。

「教養として学んでおきたい能・狂言」

能舞台や役者の説明を丁寧に解説してくれる入門には最適な本であった。
また、有識者より能を観劇する際の心がけを伺った。

  • 前日はよく寝ること

  • 可能であれば昼寝をすること

  • 昼ごはんはお腹いっぱいになるまで食べないこと

  • カフェインを取っておくこと

  • 寝ても後悔しないように気持ちを高めること

これらの基礎知識や心がけを頭に入れたはいいが、やはり実際の能舞台の空間や情景は体験することでしか得られないと感じ、観劇の日を待つこととした。

観劇当日

東京メトロ大門駅の階段を上り、その駅名にもある通り大門をくぐると目の前に現れたのは、伝統的で厳かな空間である増上寺庭園……ではなく、ルイ・ヴィトンのクソデカいLVだった。

ルイ・ヴィトンのオブジェ

ルイ・ヴィトンの伝統に囁かなリスペクトを贈りつつ、謎のクソデカオブジェクトを背中に階段を登ると眼前に大本山増上寺の本殿が姿を表す。この厳かな建物が能を観劇することとなる会場というわけだ。
当たり前だが増上寺は能舞台の会場として作られたわけではない。
つまり、今回の増上寺の蝋燭能はいわゆる能舞台で行われるわけではなく、本殿の空間の一部を使って行われる。
もともと増上寺では屋外で行われる「薪能」が江戸時代より行われており、現代では東京タワーを背景に行われる屋外能として人気を博していた。
しかし、現在は三解脱門の大規模修復にかかる調査工事が行われており、今後10年余にわたり境内の使用が制限されるため、薪能は中止となっている。
その代替公演として、屋内で実施される「蝋燭能」が実施されることになったとのことだ。
蝋燭能は室町時代から行われてきた夜間・屋内で行われる能であり、蝋燭の灯りを舞台照明とした能ステージングの一つである。
今回、増上寺ではそれを本殿で擬似的に再現し、おおよそ能舞台とは違う世界観の舞台で演じられる能を見られる貴重な機会というわけだ。

さて、話を戻そう。
まだ開演時間までは時間がある。暇だ。
というわけで、増上寺併設のカフェで最後の予習をすることにした。

予習の様子

予め印刷しておいた今回の演目である「土蜘蛛」の謡本(台本)を眺め、ストーリーをなぞってみる。
どうやら藤原頼光が土蜘蛛という化け物を退治する話のようだ。しかし、如何せん古文調なので読みづらい。
まずは登場人物やあらすじを把握し、誰がどの立ち位置なのかを頭に入れ、謡本の読み合わせを行った。
熱心に読み込みを進めていると開演時間が迫ってきたため、我々は増上寺本殿に歩みを進めた(能のくせにチケットは電子だった)。

増上寺突入

増上寺本堂

一般的にイメージされる能舞台といえば屋根付きの舞台に大きな松の絵、左側には橋が架かっている舞台が思いつくだろう。
しかし、今回の会場は増上寺 蝋燭能。
ご覧の通り本堂の中に蝋燭で能舞台が縁取られている。奥に仏像が見える状態で能を見られるのは、きっとレアな体験だろう。
能はイメージにより形作られる芸術ではあるが、能舞台そのものをイメージさせるところまで来ているとはさすがの我々も想像し得なかった。
いよいよ開演時間となり、会場の照明は落とされ……いや、言うほど落とされない。
普通にまだ手元がはっきり見えるほど明るいままだ。
参考書にも書いてあったが、能は少し明るいまま演じられるもののようだ。
寝る時に小さい明かりを付けているタイプの人は安心して夢の中に入ることができることだろう。

能舞台イメージ

狂言「柿山伏」

最初の演目は狂言の「柿山伏」、先程から能についてばかり言及していたが、能と狂言はセットで演じられるものである。千鳥のようなものだ。
狂言はかなり理解しやすい演目で、現代のコントに近い、いわゆる旧仮名遣いで行われる「お笑い」である。
柿山伏自体も国語の授業や絵本で触れたことのある題材のため、聞き取れなくてもある程度のあらすじは頭に入っているだろう。
狂言は能ほどの入念な予習は不要で、その演目を純粋に楽しむことができるので、これを目当てに観劇に行くのもオススメできる。
実際に狂言が始まると、思っていた通り狂言はとても受け取りやすいもので、あたかもM-1グランプリやキングオブコントを見ているようなキャッチーな舞台だった。
登場人物は山伏と柿の持ち主の2人で、まさにボケとツッコミだ。
劇の内容は山伏が柿を食べようと木に登っているところを見られてしまい、誤魔化すために犬や猿のモノマネをするという古典的なお話だ。

注目すべきはその舞台装置の少なさだろう。
舞台の上にあるのは木に登っていることを表現するための台くらいで、書割や木を模した大道具もない。
木登りも食べる柿も役者による演技で作り出される。
それでも、いや、だからこそ、その滑稽さが如実に現れるのである。
山伏と柿の木の持ち主とのやりとりは伝統芸能らしからぬ心地よいテンポで進んでいき、思わず笑い声が漏れてしまう場面も多い。
狂言は親しみやすく笑える喜劇であり、きっとそれは伝統に裏付けされた演技の賜物なのだろう。

能「土蜘蛛」

初めての狂言体験の感激を残したまま、幕引きもなくそのままの延長で、次の演目である能「土蜘蛛」が始まる。
一般的な劇のように開幕の瞬間がわかるわけでもなく、舞台が始まったような雰囲気の後に、舞台に続々と人が上がってくる。

ここから予習が生きてくる。
鮮やかな着物着ているのは役を演じる人たち、鼓や笛を持っているのは囃子(楽器隊)ということが理解できてくる。
右手にいるのは地謡(コーラス隊)、そして舞台の奥には黒子のように小道具を渡したり、何か問題が発生した時に代わりに舞台に立ったりする後見と呼ばれる役割の人が上がってくる。
あらかじめ予習をしいたおかげである程度舞台上の各々の役割を理解することができた。
そして、なんだか準備ができたような雰囲気になった後に、謡の声が張り詰めた会場に響き始める。

肝心の能の内容についてだが、セリフは全て独特の調子で謳い上げられており、ところどころに入る囃子の演奏によってリズミカルに不思議な調和が生まれる。鼓を打つ音がまた独特で、強くポンッとなるところがあれば、ちょっと控えめなポンッもあり味わい深い。目を閉じて音を聞くだけでもいろいろな発見があり楽しめることだろう。
しかし、演者のセリフを聞き取ることはほぼ不可能だ。
独特な抑揚と低い声色でセリフは呪文のような意味不明な羅列と化す。とはいえ、我々は謡の文章もあらかじめ予習をしていたので、かろうじて部分的な単語だけが認識することができた。あらすじを頭の中で必死に参照しつつ、なんとか話を追いかけていくうちに、武者が土蜘蛛の退治に向かう場面が終わる。
予習どおりなら、ここで武者と土蜘蛛の大立ち回りが始まるわけだ。
これから始まるクライマックスに胸を踊らせていると、長い杖を持った男が舞台に現れる。この人物はアイと呼ばれる劇前半のあらすじなどを説明する役割を担っている。

ここではアイは全く動かずにひたすらに謡い続ける——。
それはもう永遠とさえ思うほどに——


語りを聞くうちに、まぶたは次第に重くなる。動きも少なく、先述のように聞き取りにくいので、もはや情報量は0である。
そんな異様な空間に誘われ、目の前の光景が夢かうつつか分からなくなり始めた頃、ようやく男は舞台から下がり、物語は最後の局面を迎える。能とは幽玄を表現するという話の本当の意味を知った瞬間だ。

今度こそ最終場面が始まり、塚を模した台座が舞台上に用意される。
しばらくするとその塚から土蜘蛛が糸を破って姿を現し、ついに武者と土蜘蛛の戦いが始まる。
今までの展開とは打って変わってダイナミックな表現が舞台で繰り広げられる。
武者は刀を振るい、対する土蜘蛛は手から蜘蛛の糸を投げかけて大立ち回りする。
土蜘蛛が飛ばす糸はクラッカーのように何本も、そして何度も空中を舞う。
いたるところに蜘蛛の糸が飛び散るド派手な動きに激しい鼓の音が合わさり、しばらくに渡る決戦がつづき、ついに2人の決着を迎え、物語は終焉を迎えた。

能とはなんだったのか

では改めて能を考えてみよう。
能と言われると重々しい所作や緩急のある構成など心動かされる場面が思い浮かぶだろうが、そういった表面的な部分ではなく、より深く能を理解すべく改めて「土蜘蛛」の内容を反芻してみた。
その末に我々が辿り着いた結論は、「能とはアニメ」だったのだ。
読者も困惑してるだろうが、ひとつずつ、能という伝統芸能を紐解いていこう。

能という形式

まず能を見る上では、最低限以下の3つの役割を覚えておくとよい。

  • シテ

    • いわゆる主役

    • 亡霊や異形などこの世ならざる者が多い

    • お面を付けて現れるのはこの役

    • 「土蜘蛛」の場合は法師/土蜘蛛

  • ワキ

    • シテに対する役

    • 現実に生きている存在

    • 「土蜘蛛」の場合は頼光と胡蝶

  • ツレ

    • シテやワキに連れられて登場する人物

    • 「土蜘蛛」の場合は独武者

今回観た演目以外でも基本的に上記のルールで役割分担が行われているようだ。
この役割のうち重要なのが「シテ」だ。
能における面の役割は、面をつけた存在がこの世にない表情をする者、つまりこの世ならざる者であることを示すアイコンである。
シテは死者や神といった魂であり、それらが現世に影響を与えている状況、それが能のスタンダードな舞台なのであり、それを鎮めること、鎮魂することが能の目的の一つでもある。

これを踏まえて、土蜘蛛の物語を振り返ろう。
シテの土蜘蛛はツレの独武者によって切られて倒れ伏してしまう。
一見して土蜘蛛が無惨にも滅ぼされ、頼光側を賛美する勧善懲悪のような物語のように聞こえるだろう。
しかし、実際に舞台で糸を散らし戦うその姿を見ると、つい土蜘蛛を応援したくなってしまうだろう。
この「土蜘蛛」という演目は、頼光を苦しめる化け物を切り倒す英雄譚であると共に、その退治された土蜘蛛にこそフォーカスがあたるべき作品と捉えることもできる。
いや、むしろこの側面の方が大きいのかもしれない。

そもそも土蜘蛛とはなにか。
今では妖怪の名の印象が強く、顔が付いた大きな蜘蛛の化け物を想像しがちだろう。
しかし、土蜘蛛という言葉はもともと朝廷に反抗する人たちの蔑称だったとも言われる。
この演目の主題はここにあるのではないか。
そもそも先述したように能には鎮魂の物語が多く、この演目も鎮魂を目的としていることを念頭に考えると、土蜘蛛は歴史の影に葬り去られた反体制派たちの魂を鎮める話というわけだ。
それを踏まえると土蜘蛛にシテ(主役)の役割が当てられていることに納得もいく。
この土蜘蛛という演目は単なる妖怪退治話ではなく、
権力に歯向かい散っていった人たちの生きた証を残すために作られた物語なのである。
この話が作られたであろう500年ほど前の当時に、反体制、所謂朝敵のよう存在のための物語を書くことは、いくら日本でも難しいことであっただろう。
そういった人々の無念を演劇、舞台を通じて勇ましく書き記す。
それが能が持つ力なのであろう。

能の登場人物たちの関係性

能の鑑賞を経て、我々はこの鎮魂する者と鎮魂される者という関係性こそ能の特徴ではあることに気がついた。また、この関係性は他のさまざまな作品にも当てはまるということに聡明な読者諸君は気がついているであろう。
そして、ある一つの答えに辿り着いた。
それは「あらゆるアニメは能」というシンプルなものだ。



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INTERRRVAL
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おさらい
新しい体験をしようと能を観劇することにした私達。
事前予習を怠らずに増上寺で狂言と能を見るが、その奥深さと難解さに打ちひしがれる。
それでも舞台を振り返り、紐解いていくうちに少しずつだが能の真髄を理解りつつあった。
そして、最終的にあるシンプルな説が頭をよぎった。

「アニメは能」


アニメは能だった
またまた何を言っているんだというのかもしれない。
落ち着いて聞いていってほしい。

能とアニメの表現技法

能で表される世界は、特に日本的な枚数の少ない省略された表現、いわゆるリミテッド・アニメーションに近しい。
まず、能という表現技法について見てみよう。
先述の通り、能は基本的にゆったりとした動作で進行し、ラストのクライマックスになるにつれて動きにスピード感やキレが増すようになる。
一つ一つの所作を取っても、極限まで無駄が削ぎ落とされており、必要最低限の動きで表現が構成されている。
例えば、悲しみを表現する際には顔を下に向けて手で顔を覆うような動きをしているが、これは涙を流したりこらえたりする演技を省略したものだ。
他にも喜怒哀楽を表現する型は決まっており、いずれの型もわずかな動きのみで観客に感情を読み取らせる。
いわゆる、引き算の美学というものの力を存分に体感できる。

また、能において音楽に合わせ独特な声で歌われる謡(うたい)はそれ自体に文学的価値が見いだされるような厚みのあるコンテキストを持っている。
今回鑑賞した土蜘蛛でいえば、和歌を引用して感情を説明するという場面がある。
素晴らしいことに日本では古来よりありとあらゆる感情が和歌として紡がれ、それらは編纂された和歌集として残されている。
つまり、数多の複雑な感情や情趣に関する莫大な資産があるというわけだ。
能は和歌を引用することで複雑な感情も一首の和歌を引用することで、紡がれてきた歴史をストーリーに乗せることができる。
そういう意味では和歌の引用も省略表現だ。

では、現代日本におけるアニメ表現はどうなっているだろうか。
これらでも動画として描かれる世界は、省かれた最小限の表現で描かれている。
実写作品であれば、舞台セットや環境をいかに用意したとしても、そこに登場するキャラクターは生身の人間であり、脚本や絵コンテで描かれた世界に役者という大きな要素が追加される。
それこそが実写作品の肝ではあるのだが、ことアニメーションでは逆にそれを排除することで、作品の製作者の意思や感情をダイレクトに表現することができる。
必要な要素が人の動きなのであれば、背景をなくしそれだけを描いても良い。
現実には存在しえないようなものに形を与えることもアニメーションでこそ描けるものだろう。
アニメーションでは、その世界に存在するものはその製作者がそこに表現したいと思ったもののみである。
だからこそ、メッセージ性や芸術力が直接視聴者に伝わりやすい。
こういった作家が作り上げる世界での動きや演技をダイレクトに表現する手法として、能とアニメには「製作者の表現する世界を最大効率で描写する」という共通点があることがわかる。
まさに能の型というものは、アニメにおけるデフォルメ顔やバンクシステムのような定型的な見せ方に近いのかもしれない。
ガイナ立ちや勇者パース、シャフ度等は、そのシーンを使うだけで視聴者にその意味を伝えてくれる。

ここまでの説明でも能という古典芸能が現代のアニメにも息づいていることを感づいている聡明な読者もおられると思うが、更に真髄となる部分を紹介しよう。

それは能の主題である「鎮魂」というテーマだ。
この鎮魂という題材は今の時代でも媒体関わらず描かれ続けている根強いテーマである。
最近では大ヒット作品である鬼滅の刃すずめの戸締まりも能の片鱗が見える。
鬼滅の刃に至ってはそのまま能だ。
あまりに能過ぎて本当に能になったほどである。
鬼滅の刃の能では今回観劇した土蜘蛛から着想を得たような蜘蛛の糸の演出も見受けられる
鬼滅の刃は敵の鬼のバックグラウンドを丁寧に描写し、その無念を晴らしていくストーリーが多い。
能と同じで鬼がシテとなり、炭治郎はワキとして鬼を討伐する。
単に勧善懲悪として見ることもできるが、土蜘蛛と同じように敵にフォーカスを当てて鎮魂する作品としての一面もある。
このように炭治郎が鬼に耳を傾け成仏を見届けるというスタンスは能とぴったりと一致する。

すずめの戸締まりは震災を扱った作品で、失われた土地の過去の被災者を悼むというフォーマットが続くロードムービーとなっている。
これもまさに被災者への鎮魂であり、神をシテとする神事と捉えることもできる。劇中で出ている「後ろ戸」というワードも造語ではなく、古典能楽における概念を拾っているとのことだ。

このように鎮魂というテーマは古く堅苦しいものではなく、むしろ今こそ熱いテーマなのだろう。
このように、アニメと能はかなり多くの共通点があり、鑑賞する上でもアニメ鑑賞と同じ筋肉を使って楽しむことができるはずだ。
みなさんももし能を鑑賞することがあれば、シテが顔を覆って下を向く場面で「ジト目お口八ツ橋」を見た時と同じような興奮を得ることができるかもしれない。

お口八ツ橋と能の型

最近では3DCG技術やSFX技術の向上により、実写作品でもそういった試みがなされている物が多いが、これは前述したアニメーションで表現される製作者の脳内を直接描写するような形となっているという点で、これもまた能的な表現方法であろう。


実は能だったアニメたち

新世紀エヴァンゲリオン
アニメ作品に置いて能のフォーマットはやはり一般的に広まっている。
「新世紀エヴァンゲリオン」を思い浮かべてみよう。
能の世界にエヴァを当てはめると、エヴァンゲリオンや使徒といった人間世界の理から外れた存在を人間達が方法は種々あれど、その起こりを鎮める物語であるよいうように読み解くことができる。
つまりエヴァンゲリオンは「シテ」であり、それを取り巻く世界がアニメーションで表現されている能なのである。
作品全体で見ると前シテがエヴァンゲリオン、後シテがユイ、ということになるだろう。
では、それに対峙する存在として描かれるツレはゲンドウ、その従者となるのはシンジだ。
NERV、彼らの目的である人類補完計画もまた一種の鎮魂といえるような計画となっており、作品世界における設定の中にも能を取り入れていることがわかる。

シン・エヴァンゲリオンでは、マイナス宇宙を舞台にゲンドウと初号機の戦いが繰り広げられる。
生と死を超越した場所であるマイナス宇宙は、現世と常世をつなぐ能舞台と同じものだと言える。
シテである初号機とトモであるゲンドウが刃を交えるシーンは、土蜘蛛における土蜘蛛と武者の大立ち回りと同じ空気を感じられるだろう。
結果としてユイの目的を達し、ゲンドウ自身もシテとしての役割に取り込まれた後にその魂は昇華される。
シテとトモの二項対立ではなく、どちらの立場もとり得るという部分がエヴァンゲリオンの面白い部分だろう。
世界は決して善と悪だけではない、この世界はグラデーションであり、見る方向によってそのものの性質すら違ってみる、そういった視点を能を通してエヴァンゲリオンを見ることによって会得できるのである。
このように、今まで理解が難しかった表現も「」というフレームワークを使うと理解が深まるかもしれない。


アキバ冥土戦争
2022年アニメから「アキバ冥土戦争」を考えよう。
これはヤクザアニメではあったことに異論はないと思うが、そのあり方は様座な意見を呼んだ。
我々はこれを能アニメであると主張したい。
ストーリーの中心となるのは主人公が属する「とんとことん」ではあるのだが、この物語が描くものは彼らの目を通して描かれたアキバという独自の世界における魂の循環の構図であった。
グループ間抗争によって散っていったメイド達のあり方にも意味があった、彼女達が生きていた世界こそが今のアキバにつながっている。そういった強いメッセージを持った作品であったように思う。
これこそ能が目指す魂の鎮魂そのものである。
冥土」に行った魂にアキバという世界が貴方の信じた世界になっているか、そういった願いが込められた作品であると解釈できるだろう。
こうった例を考えても能の汎用性を理解いただけるだろう。
また、能のフレームワーク全体を適用できずとも、シテの概念に注目して作品を見ると楽しみが広がる。


少女革命ウテナ
幾原邦彦の伝説的な作品である少女革命ウテナ、これは完全に能といえる作品だが、シテの役割が特徴的だろう。
シテ、つまりこの世ならざる超常の存在として描かれるのは前シテは姫宮アンシー、後シテが鳳暁生という二人の兄妹だろう。
(根室教授もシテかもしれないがややこしいのでおいておこう)。
アンシーは決闘のトロフィーとして常に浮世から離れた存在として描かれる。彼女が物語を進行させることはないが、その存在がなければこの物語が成立し得ない。
鳳暁夫、彼の存在はこの作品の根幹、最終章のラスボスであり、ヒーローである。ディオスという存在はまさにシテの役割であり、それと対を成す彼もまたシテなのだ。
彼らの魂が作品における世界の根本であり、それらを鎮めることが作品の目的の一つとなっていることは疑いようがない。
現実を徹底して描くようで、抽象表現を多様するウテナの世界は、まさに能舞台である。
生徒会というワキツレや、狂言回しの七実や影絵少女、囃子方の地謡は杉並児童合唱団が務めているといっていいだろう。
つまり、能の成分がすべて凝縮されている作品なのである。


ぼっち・ざ・ろっく!
ぼっち・ざ・ろっく!では主人公がシテとなる珍しい作品だ。
後藤ひとりは明らかにこの世のものではない。
自身の表情がダイナミックに動くだけではなく、液状化や粒子化、あまつさえ次元移動すら成し遂げる。
彼女はぼざろ世界における特異点、荒ぶる神に近い存在として描かれる彼女は明らかにシテ方であり、自身が地謡を奏でる珍しい作品である。虹夏と喜多がワキであり、狂言回しの山田と、こちらも能の要素が散りばめられている。
そんな燃えたぎる情熱と飽くなき野心を持つぼっちの魂の安寧を求めるストーリーは、まさに「能」であろう。


ラブライブ!シリーズ
ラブライブ!シリーズ、これは所謂群像劇である。無印やサンシャインでは強烈な個性をもつ主人公が全体を引っ張り上げる構図となっている。特に無印劇場版では主人公自身がシテとなり、未来の自分というこの世ならざる存在との邂逅を通して、自身の未来の魂を鎮めるために「今」を生きるという作品であった。
虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会では大本であるスクフェスに登場しない人間が主人公、つまりこれもあの世界におけるシテとして描かれる。
群像劇と能というのは一見相反するようにみえるが、シテの役割を拡張して考えることで、そのシリーズが、作品が示す方向性を容易に認識できるのだ。

世界は能でできている

現代の日本のアニメにはジャンルを問わず根幹に能があることは理解いただけただろうか。
ここからは、更に世界を広げて能を考えてみよう。

テンポにうるさいおじさん

物語のテンポの速さという点で能とアニメを比較してみるとどうだろうか。
能は非常にゆったりとしたテンポで進むイメージがあると思うが、
実は室町時代の世阿弥の頃の能は現在よりも早いテンポだったという。
それから時代が進むにつれて重厚な演技が好まれるようになり、江戸時代にはゆったりとした演技が生まれた。
これが評価され、今の能のテンポに至るようだ。
現代のアニメではテンポが重視されることが多い。
しかし、現代において名作と語られる作品を思い浮かべると存外テンポが遅い作品が多いことに気づく。
その代表作が「リズと青い鳥」だ。詳細な解説はここでは省くが、是非本編を見てほしい。
二人の掛け合い、セリフを用いない「芝居」と「音楽」で作品のテンポを作り出す。
足音や息遣い、目線や仕草、楽器を吹く瞬間の一時まで全てを使って演出される物語は正に観る文学である。
これは正に能の真髄である。
上映時間は90分かもしれない。しかし、それはフルートの光が無限を照らすように、体感する人間の時間までも拡張する芸術なのである。


先に挙げた鎮魂という視点で考えてみると、アニメのみならずハリウッド映画にもこの法則を見出すことができる。
真っ先に思いついたのはクエンティン・タランティーノ監督作品である「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド(以下ワンハリ)」だ。
この作品は過去に起きたハリウッド女優のシャロン・テート殺害事件を扱っている。実際の事件を扱っているだけあってセンシティブな題材ではあるが、作品自体は非常に痛快な出来となっている。
作中の彼女も本来殺害される歴史のはずだが、主役の2人によって運命は変えられる。歴史を書き換える行為に賛否はあるかもしれないが、そこには確かに彼女への鎮魂の想いが込められている。
なにより、彼女の当時の活躍を含めた映画界への愛がふんだんに込められており、タランティーノから映画というフィクションへのラブレターでもある。
当時シャロン・テートという素晴らしい女優がいて、晴らせぬ無念がそこにあったということを世に知らしめる素晴らしい作品だ。
同時にワンハリはフィクションの力でその無念を晴らすという能の形式に近いこともわかる。
また、タランティーノ作品特有の引用(オマージュ)はワンハリでも炸裂する。別の監督作品でも西部劇から日本の時代劇にわたって様々な作品をオマージュしている。
有名なのものでいえば、キル・ビルのあのコスチュームだろう。
あのコスチュームひとつで死亡遊戯を引用し、死んだはずの主人公が実は生きていて復讐のため戻ってきたという共通の文脈を重ねており、これにより主人公の復讐心を強調する効果がある。
こういった引用を多用するという点でもタランティーノ作品は能というプラットフォームに近い形を取っているといえる。
タランティーノ作品の前半のゆったりとした、人によっては眠たくなるような展開から後半のクライマックスで怒涛の展開に至るプロットもまさに序破急、やはりタランティーノは能である。


逆にワンハリをオマージュした作品といえば、藤本タツキの漫画ルックバックがある。
ルックバックはワンハリほどではないが実際の事件を下敷きにしたらしき描写があり、日本人にとってはワンハリよりも身近な事件を題材にしている。しかし、ワンハリと異なりフィクションで起きた事件を書き換えるという結末にはならなかった。
それでも残された者たちはひたむきにフィクションを描き続けるという意思表明を感じさせる終わり方となっている。
これもクリエイターへの鎮魂であり、フィクションへの祈りと言えるだろう。


先に挙げたエヴァンゲリオンでのニアサードインパクト、ワンハリにおけるマンソン・ファミリー、そしてすずめの戸締まりにおけるミミズはすべて現代に起きた災害や事件による魂の鎮魂を目指したものとも取ることができる。
これらの作品が500年前に存在していれば能として上映され、豊臣秀吉が喜んで観劇していただろうことは想像に容易い。
以上のように、能と現代の時間芸術というのは密接な関わりがある。
ストーリーテーリングにおける根幹の部分は500年の時を経ても揺るがない、万人の心に触れるものは時を超えて受け継がれていくのだろう。
現代に生きる人間だからこそ、現代の芸術、殊更映像作品を楽しむ人間こそ、能というものを今体感してみるべきであると声高く主張したい。
そこには、貴方が忘れてしまった物語の原体験があるに違いない。


おわりに

最後に、能とは何だったのかという話を追記しておこう。
鎮魂というものはいわば過去に起きたことの清算である。つまり、過去と今をつなぐ行為といえるだろう。
今を生きる我々が過去を知るための最短経路は「思い出す」こと。
そう、つまり聖剣使いの禁呪詠唱こそが、能の根幹なのである。
能というフォーマットによって理解する世界は、基本的に過去から今への橋渡し、我々の先祖が紡いできた歴史の紐解きなのである。
それを未来に活かす、今の事象に投影していくこと、つまり、物語を、言葉を綴っていくことが、能による世界の構築、ワルブレにおける詠唱なのである。
能を通して見る世界はワルブレを通して見る世界と同じである。
まずは以下のリンクから聖剣使いの禁呪詠唱を見てみよう。
話はそれからだ。

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