今さら誰も文学なんて読まないよ

文学がこの世でもっとも高邁な趣味だと信じてゐる人へ

 私はいままで何人か、小説をもっとも崇高な趣味だと思ってゐる人を見たことがある。
 ひとりはあるブログでひそかに小説愛を熱辯してゐた。かれは自身の内奥からほとばしる絶え間ない衝動に突き動かされて、多くの小説家とその小説を礼讃してゐた。あふれでる熱意は周囲に共感者を生み出し、あるいはその気のなかった者を読書に踏み出すきっかけをなし、まことに結構なものであったが、ただひとつの巨大な欠点は、かれが小説に関心を持たない者を罵倒し、自分とその賛同者のみがただただ崇高な精神をまっとうしてゐると思ってゐることだった。どうやらかれはもともと宗教的に倒錯してゐた時期があり、ある日それがまやかしだと気づいたのはよかったが、その反動から今度は小説教といふ巨大な宗教に囚はれてしまったのである。
 もうひとりは私のことである。中学生の頃に小説にハマりだして以来がむしゃらに読書して、当時の国語教科書の文章に退屈しきってゐた。高校生になってやうやくおもしろさうな、しかし実際にはつまらぬ小説を扱った授業で得意になってゐたが、そのとき同級生がかう話すのを聞いた。
「太宰治と芥川龍之介って区別つかないよね。」
 私は内心、おいおいと信じられない気持がしたものである。あまりに知識がないでしょと思った。つゆほどもちがふではないか、と。
 でもいまは、まあそんなもんかと思ってゐる。諦念したわけではない。やっぱりさうだよな、と思ったのである。
 はっきり言って、文学がいちばんこの世でおもしろいものだとは、いまはまったく思ってゐない。映画やゲームなど、ほかの趣味にもおもしろいものはたんとあるし、文学は文学以外のそれぞれに相互に影響を与へあって、取って代っていくにすぎないのである。大岡昇平も『現代小説作法』で

 映画の発達は二十世紀の大事件ですから、小説家がこの新しい芸術に無関心でいられなかったのは当然です。カメラの描写力、というより映像がわれわれに訴える力は、言葉よりはるかに強いので、意識的な小説家はみなこの新しい競争者と対決する必要にせまられた。

 映画はいうまでもなく時間的芸術です。違った場所で起った二つの事件が進行しているとして、それをあまり間をおいて、別々に表わすのは、不自然な感じを与えます。〔…〕
 同時性を示すのは、ミュンヘン会談の経過を告げるラジオ放送だけです。こういう拠りどころがなくても、現代では、この方法に読者があまり疲れないようになっています。読者がそれだけ馴致されているし、一方せっかちにもなっているのです。そこに別にスリルを感じるわけですが、いくら刺激を強めても、どうせ映画やテレビにかないっこはないのです。

大岡昇平『現代小説作法』ちくま学術文庫

と正直に書いてゐる。これを認めない文学者がゐるとしたら、それはあまりにも旧弊だが、私もいままではいっぱしの頑固者だったわけで、浮いてゐたのである。

 さて正直にいふと、文学は今後ますます凋落していって、最終的に文藝誌などといふものはすべて廃刊するであらう。いまも残ってゐるのが不思議なくらゐで、中公の編集者だった安原顯は『本など読むな、バカになる』で

それでは「文芸誌」には何が載っているのか。一応、「純文学」と呼ばれるクソつまらぬ小説・批評などが毎月平均約三百ページ〔…〕掲載されており、驚くことに〔…〕六誌には、すべて「新人賞」があり、年に一度か二度、「新人賞」を乱発。一年持つか持たぬ「クズ作家」の量産をし続けている。なぜ「新人賞」があるのか。最終的には文藝春秋主催の新人賞=「芥川賞」を取らせて、何とか商売にしたいからだ。

安原顯『本など読むな、バカになる』図書新聞

などと暴言を吐いてゐるが、実際ほとんどつまらないのでおほむね正しい。ある日、ネットでふだんラノベを読んでゐるとおぼしき人が芥川賞を読んでみたと称して、高橋弘希の「送り火」をよんだ感想を書いてゐた。見たらすごくつまらなかったと書いてゐて、ひいては純文学といふのがいかにつまらないかとかんちがひしてゐるやうだったので、つまらない作品から読んでしまったのはかはいさうだと思ったりした。
 講談社の文藝誌「群像」を見よ。半分以上が細切れの連載で、新参読者が入りこむ余地がない。「文學界」の特集とやらも又吉直樹に味をしめたのか、芸人に小説を書かせて錯誤感がはなはだしい。「新潮」は二十年以上も編集長をつとめる独裁的編集者・矢野優の趣味か、ミステリやSFも純文学に含めるらしく、さらに演劇人や映画人にも書かせてゐるがこれといったものがない。「すばる」? なにそれ。まあおもしろいのは「本の雑誌」ぐらゐか。
 要するにこんなんは文壇関係者御用達の産物にすぎず、文壇村と世間とのあひだには一生超えることのできぬ大きな壁が立ちはだかってゐるのだ。村上春樹はこの点、文壇とは決別してゐるのでえらく、栗原裕一郎『村上春樹論の終焉:付録・村上春樹論ベスト5&ワースト5』を読んで初めて知ったのだが、村上は短篇「とんがり焼の盛衰」で文壇批判をしたといふ。

『とんがり焼の盛衰』は、一見してわかるように、小説家としてデビューしたときに、文壇(literary world)に対して抱いた印象をそのまま寓話化したものである。

村上春樹『めくらやなぎと眠る女』新潮社

 将来的にはすべてインターネット連載になるのかもしれないが、移行してもなろうやカクヨムなどのネット小説のほうが人気なのは明白である。
 また、イスラーム研究者の池内恵も

とつぶやいてをり、アルジャジーラもイズムイコ先生(=小泉悠)もあまり読んでをらんが、前者は完全に同意するものである。
 栗原裕一郎も

と正論をつぶやいてゐて(小説家の島田雅彦は法政大学で教授をしながら、安倍銃撃事件を称揚するありさま。評論家の渡部直己は早稲田でセクハラして訴へられた)、私もかぶりをガンガンにふって首肯するものだが、それでも文藝誌を読む文学青年の気が知れないのである。藤谷治が小説「新刊小説の滅亡」に書いたみたいに、この自明な事実をとらへた文学者はほかにゐないものか。大江健三郎はその点わかってたなと思ふ(「電子ブックに好意的な大江健三郎」を参照)。

 まあおもしろい文学もあるにはあるので、読んでほしいところではあるが、文学が特権的にえらさうにする時代はもう存在しないのである。

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