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令和の今だからこそ染み入る南部杜氏が造る日本酒の価値

1.「杜氏」とは?

「杜氏」と書いて「とうじ」または「とじ」とも読みます。由来には諸説あります。

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ザックリお伝えしますと、現代に至るまでの杜氏の概念は、領主と農民の関係が安定的になった江戸時代以降の1700年代、米の豊作によって米価の下落に悩み、米の消費拡大を図ってそれまで規制産業であった酒造業が「勝手造り令」by田沼意次1754年によって規制緩和されたので、寒造り(冬季)の酒造業労働者が求められた時代背景と、当時として革新的であった脱穀機である千把扱(せんばごき)の導入で脱穀作業が年内に終了する為、農閑期に余剰労働力が生まれた農民側とで、合理的に形成されていったものです。全国各地の農村から当時の酒造業先進地であった大阪伊丹や兵庫灘へ農民が冬季の間は出稼ぎに行きました。
※出稼ぎ、、、自分の小さい頃の小学校1980年代ではクラス内の出稼ぎ家庭数を調べてました。少なくとも青森県の田舎ではきっと今でも出稼ぎ制度はあると思います。


そして農繁期に入ると地元へ戻る、酒造を経験した農民達は地元でも酒造を奨励する領主の下で、酒造りを行なったり、技能集団の形成に乗り出します。これが岩手の南部杜氏、新潟の越後杜氏などと呼ばれる各地の杜氏集団です。。。

近年、Sakeメディアでは40代、若ければ30代、中には20代の蔵元さんも、酒造りの事を語っているのを目にするようになりました。昔はオーナーの役目に徹していた蔵元が、杜氏を雇わずに自ら現場で酒造りを行なうようになってきたのです。流通の各所でもよく見る銘柄は、大半がいわゆる蔵元杜氏と呼ばれる方々が(主導的に)造るSakeになりました。
きっと、一般の皆様におかれましてはSakeは白髪の職人が造っている、というイメージは今でも強いでしょう。そぉそれが杜氏です。ただその杜氏、季節労働の職人杜氏は以前に比べて劇的に減っているのが現実です。
そこで今現在、そのような時代における酒造りの現場の変化を自分がどのように感じて、何をお伝えしたいか。

それは職人杜氏、社員杜氏、蔵元杜氏の酒質・味とはそれぞれにどんなもので、どう違うのか、です。御本人達から聞いた事と、自分が解釈した事を記録して、御興味のある方々へお伝えしたいと思います。


2.伝統的杜氏集団

「和醸良酒」良い酒を醸すのに和をもってなす、そんな意味合いです。酒造りは余程の小仕込みでない限り一人では出来ません。和、つまりチームワークが非常に重要です。

職人杜氏は自身が技術屋でもあり酒造りチームのリーダーでもあり、またチームが継続的に形成される為に地元で後輩を育成する指導者でもありました。なので職人杜氏のチームは杜氏集団と呼ばれて、頭(かしら)、麹屋(こうじや)、釜屋(かまや)などの分業制であり、下積みを数十年経たのちに漸く杜氏に昇り詰めるのです。そんな忍従の年月を長く過ごせるのは「杜氏になると家が建つ」と称されるほど農村部の青年達にとっては高給取りで憧れの職業だったからであり、そうやって長期間、酒造りを黙々と経験する事によって酒造工程の全てを習得する事にも繋がるのでした。また、職人杜氏は技術を一子相伝のように後輩に伝えていきます。

あの「菊姫」農口尚彦能登杜氏が去った時、蔵にはそれまでの酒造データは一切残していなかった、と当時の蔵人さんに聞いた事があります。それは自らが酒造りの技術で身を起こしているという自負であり、または技術が流布するとアイデンティティを失ってしまうという怖れでも。それだけに、後輩はひたすらにリーダーである杜氏の仕事を目で盗みながら技術を習得するしかありません。そうやって職人杜氏の技術は頭脳よりも身体を動かしながら現場で経験するものでした。その点では昇り詰めた職人杜氏の技術やカリスマ性には安定感があり、それに対して蔵元も敬意と共に高給を支払いました。

「一ノ蔵」は2004年に御父上も名杜氏と誉れ高かった照井丸實南部杜氏を自社へ招聘出来た際、最大級の敬意を称してブランド「金龍」を照井杜氏の為に新たに刷新した程でして、御本人曰く、相撲を三場所見たら帰郷する、との事で、初冬から翌春まで出稼ぎをされていて、それも岩手南部から御自身で集団を形成して宮城一迫まで令和時代の今でもお越しになられています。

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また、各地に杜氏集団が形成されたのは上述の通り江戸時代の領主達の思惑に加え、集団を成す為の物理的距離感の近さが必要だったと考えられ、「南部流だからすっきり」「能登流だからどっしり」という酒造りにおける技術が優先された訳ではないようです。ただ求める味はやはり杜氏集団が慣れ親しんだものであったでしょうから、各地によってその味を造る為の技術が研鑽されたと思われます。


3.酒造りの技術の可視化-社員杜氏と蔵元杜氏

しかしながら、そのような杜氏集団を招聘出来るのは大手蔵元、または産業自体の景気が良い時の話であって、中小規模の蔵元では酒造りのプロが欲しくても十数人に及ぶ杜氏集団を自社へ呼ぶのは資金面で厳しい所がありました。

そこで、そのような蔵元は自社内で酒造りの専門家を育てようとしました。社員杜氏です。製造部長とも呼ばれます。江戸時代では神秘の連続であった酒造りも、明治、大正、昭和、平成と時代が下るにつれて国家戦略の一つとして酒造技術の研究と共有化が進み、なにも杜氏集団に長らく身を置いて一から十まで経験しなくても酒造りを全う出来る技術を体得可能となりました。

職人杜氏と違って社員杜氏の最大の利点は酒造りのみならず、出荷管理まで担当出来る事です。酒造工程は、原料米の収穫から上槽まで早ければ約50~60日ほどですが、酒質において酒造工程同様に大切なのは管理です。例えば1月に仕込んだものが3月に上槽され、そして貯蔵管理を経て、秋酒である冷卸として出荷されるのは9月です。上槽から約180日も経っている訳です。職人杜氏は時期が来ると地元へ帰郷してしまいますから、実は一般の方々が口にするものの味わいを生産者としては知りません。出荷直前に加熱殺菌するのか、加水するのか、濾過するのか、職人杜氏の仕事からは手が離れているのです。そのように、酒造りの繁忙期ではない時にもプロが居る体制というのは安定感に加え社内へのデータ蓄積の点からも安心感もあります。急に杜氏集団にそっぽ向かれて立ち向かなくなった蔵元も昔はあったと聞きますから。

しかしながら、規制産業であった酒造業は各地にローカルでのアルコール需要をただただ満たす為の、技術向上による酒質を追わない小規模家族経営的蔵元というのは沢山あって、また兵庫灘などの銘醸地(ここでは大量生産地の意)の衛星地域ではひたすら量を造り、所謂大手蔵元への桶売で生計を立てる蔵元もSakeの大量消費時代には沢山ありました。そのような環境も、流通網が整備されるにつれてSakeよりも安価なアルコール飲料が各地に広まり、また景気が悪くなると桶売も叶わず、よって上述のような蔵元達は自ら拠って立つしかなくなりました。

蔵元杜氏の登場です。戦後、アルコール消費の世界に市場原理が導入されると、分かりやすい価値観である安い商品が支持を受け、製造コストが掛かる酒造業は1970年代以降徐々に衰退していきます。劣悪な酒質のものを多かった事が拍車を掛けてしまったのは周知の事実です。そうした中ではオーナーである蔵元自ら強いリーダーシップの下、正直に言えば売れる商品を創らねば数年後には自分の代で自社の歴史は終わってしまうという危機感が募ります。

そんな中で登場した蔵元杜氏の代表格が1992年入蔵の「十四代」高木顕統社長兼杜氏や、1995年入蔵の「飛露喜」廣木健司社長兼杜氏です。

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日本ワインと日本酒へのソムリエ的視点

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宮城県仙台市『和酒バル 二喬/NIKYO』のソムリエ店主が、普段の仕事からちょっと視点を変えて、めくりめく日々の日本ワインと日本酒のマーケットについて感じた事を綴っていきたいとおもいます。