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草むしりはそこそこ、いや、かなり楽しい。

 ここ半年ほどハマっていることがある。それは「草むしり」だ。地面に生えた、いわゆる雑草と呼ばれるものを抜いていくアレである。普段の活動の中で定期的に草むしりをする機会があり、やっていくうちにすっかり楽しくなってきてしまった。
 その機会の1つは茶室の庭(露地:ろじ)の手入れである。茶の湯をご指導頂いている先生のお宅で、稽古や茶会に伺うたびに掃除の一環で草むしりをしている。もう1つは畑仕事だ。有志で集まって郊外の畑に季節ごとの作物を植え、週末に時間のある人が様子を見に行くというゆる~い感じで農作業をしている。一番の楽しみはもちろん収穫だが、それ以外の時は畑の手入れ=草むしりがメインとなる。
 同じ草むしりとはいえ、露地と畑では基本的な目的が異なる。前者は景観の整備や維持であり、後者は作物の生育環境の保全である。だが、どちらにも共通している点もあり、個人的にはその部分こそが草むしりの楽しさではないかと感じている。ポイントは大きく3つほどあると思う。

1.瞑想的な心地よさ

 草むしりは言わば片付けの一環ではある。しかし、例えば部屋の片づけであれば、
 ・何をどこに移動してどう収納するか
 ・重さや大きさに応じ、どういう手順でどう動かすか
 ・そのモノが必要かどうか、捨てても良いか
など、色々と考える必要がある。ある意味3Dパズル的な面もあり、結構な知的頭脳労働だ。思い切って捨てるかどうしようか葛藤が生じるのも、心的な負担とも言える。片づけ終わると非常にスッキリした気分と達成感は得られるが、一苦労ある行為には違いない。
 
 しかし、草むしりはその点シンプルである。「草を取る」ということだけを考え、ひたすらに同じ内容を繰り返せばよい。もちろん、庭の観賞用の植木だったり畑の作物だったりを取ってはいけないが、基本的にそれらと取るべき草は簡単に見分けがつく。よってあまり考える必要がない。
 むしろあまり一点に集中して考えたりし過ぎずにボヤッと全体を眺める感じの方が、目につく草=取り除くべき草がわかりやすくなる。草を抜くときも、目で見るより手から伝わる感触に頼った方が、根っこからキレイに抜くことができる。普段はスマホやパソコンを使ったりして眼に集中しがちな意識を、身体の方に再分配する感じだ。視覚の解像度を下げ、身体の解像度を上げているとも言える。
 これは瞑想や座禅をしている時の感覚に非常に近いものがある。頭を空っぽにしつつ、ある行為に没頭するのは心地よいものだ。また、普段使っていない感覚の慣らし運転というか、過度に使っている部分を休めて身体の感覚バランスを整える効果もあると感じている。
 

2.「変身」することで得る刺激と発見

 草むしりをする時のポーズを想像してみてほしい。まず、しゃがむ。そして手を伸ばして草を取る。片手にはチリトリやゴミ袋を持ったりもするが、基本的に片手は地面付近で草を取り続ける。時には片手を地面についてバランスを取りながら、もう一方の手を伸ばして少し遠めの草を取ったりもする。つまり、しゃがんだ状態のまま手で地面をまさぐるような格好になる。 すると、自然と視線が低くなり、かつ四足歩行に近い状態になる。大の大人が屋外で堂々とこのようなポーズを取ることは、普段の生活ではほぼ無いのではないだろうか。実はこれは立ち歩きできない幼児の視点であり、地面に触れていることも合わせると動物や虫達の視点でもある。
 普段の立っている眼の高さから見下ろせば、ただの足元にいるだけの生きもの達と同じ目線になると、彼らの生活がありありと見えてくる。悠々と歩きながら時にはその長い手足を伸ばして(彼にとっては)見上げるような大きな石を乗り越えるカエル、自分の体高の何十倍もの高さを飛び跳ねるバッタ、同じ高さの地面からひょいひょいと身をひるがえして、あっという間に見上げるような高さの塀の上に登ってしまう猫。「いやスゴイなあ。ぜひパイセン(先輩)と呼ばせてください。」と思うほどに素直に感心する。独特なポーズをとって彼らと同じ世界の一員になる感覚は、ある意味ヒトではない生きものへの「変身」である。普段と違う身に成り代わることで、世界は姿を変え刺激的で発見に満ちたものになるのだ。


3.「自然」について思索する楽しさ

 茶室に訪れる人が庭を眺めて「あー、都会の中にこういった緑や自然があるのはいいですね」と言ってくださると、手入れの一部をしている身としては嬉しい。が、しかし、少なくとも自分の手が入っている時点で「自然そのもの」ではないのも確かである。畑も同じだ。そもそも土づくりが大変で、栄養分を含んだ柔らかい土にするために多くの人の手が入っている。畑とは、言わば自然という荒野の中に建てられた養育/教育施設のようなもので、育ちやすい環境を作ってあるからこそ、撒いた種がスクスクと美味しく育つのである。
 庭の草木が野放図に伸びて歩く道も草に埋もれているような庭、固くやせた土の荒野、これらは文字通りの「自然」ではあるかもしれないが、それは多くの人が欲する「自然」ではないだろう。しかし、庭や畑の草むしりをして整えることは、確実に人が「自然」の一端に触れるための活動でもあると思う。自分がしている「草むしり」という行為は、人を自然から遠ざけるものであると同時に人が自然に触れるためのものでもある、というアンビバレンス(対立する感情の併存)にモヤモヤしつつ、アレコレと思索にふけるのがまた楽しかったりもする。
 「あるがままの姿の自然」は、人には厳し過ぎる面もある。しかし、人はそれに触れたがる。燃えさかる炎に直接触れれば火傷をするのがわかっているのに、暖かさを得ようと近づかずにはいられないようなものだろうか。草むしりによって人が作り出した「自然」は本来の自然の姿ではないが、本来の自然の姿が地に落とした影のような仮象としての自然性は存在する。そして、影ならば人はリスク無しに触れることができる。そういった、自然の本質を写し込んだ仮象/影を作り出す行為の一端が草むしりであり、広い意味では作庭なのではないか。最近はそんな気がしてきている。
 そんな時、20世紀に活躍した作庭家の重森三玲が著書『枯山水』の中で、「室町時代末期以降、石組や砂で作られる庭を枯山水と称したのは一部の専門家だけであり、一般的には"仮山水"という言葉が用いられていた」という旨を書いていることを知った(※)。京都在住の頃にいくつかの枯山水(=仮山水)の庭を訪れた際に、山も水も無い場所に本来の山水の持つ広がりや本質を感じられた気がしたのを思い出した。そして、東京都下で草むしりを通じて得た実感によって、改めてそれがストンと腹落ちしたのである。

※参考※
[NHK放送文化研究所 『放送研究と調査』2020年1月号掲載]
VR=バーチャルリアリティーは,"仮想"現実か~"virtual"の訳語からVRの本質を考える~

おわりに

というわけで、草むしりという行為には
 ・精神的心地よさをもたらし、
 ・身体感覚のバランスを整え、
 ・普段に無い刺激や発見があり、
 ・思索にふける楽しさもある。
と、何重にも良いことや楽しさがある。これから季節は巡って草むしりから落ち葉取りになるが本質は変わらない。次に庭や畑に行くのがまた楽しみだ(^^)♪

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