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茶道を通じて感じるものは「非日常」ではなく、「本来の日常」ではないだろうか。

お茶(茶道)を学び始めて1年半ほど。
まだまだ知識も所作も拙いばかりで、学びの日々です。

時にはお茶会のお手伝いをさせて頂いたりもします。その際は参加者の方の喜びのご感想などが何より励みになります。

特に、普段茶道に触れてない方から
「この非日常な空間に癒されました」
といったご感想を伺うと、僕自身がお茶に触れ始めた時を思い出し、とても嬉しくなります。

が、最近この『非日常』というワードに、何か自分の中で違和感を覚えるようになりました。
(以前は自分もそう言っていたにも関わらず)

確かに、茶室の空間やそこでお菓子やお茶を頂くという体験は、現代日本では(残念ながら)普段の生活にあるものではありません。

ですが、僕がお茶を通じて触れているものは
「至極日常に通ずるもの」
という実感があり、そこに充実したものを感じています。
お茶会で「癒された」「心が穏やかになった」というご感想をお持ちの方も、実際はお茶の非日常的な部分ではなく、そこの背後にある「本来の日常」のエッセンスに触れてのものという部分が大きいのではないかと近頃思うようになりました。

それは一体どういうことか、拙いながらもまとめてみました。

●穏やかで素こそが日常、
   そこから離れる時間が「非」日常


お茶の場では華美が過ぎるもの、騒々しいもの、などは置かれません。
そして、基本的に静かです。とはいえ無音ではなく、
 釜の湯が沸く音
 茶筅のシャカシャカという音
 柄杓からお湯を注ぐ音
 畳を足袋で擦る足音
 着物の衣擦れの音
などがあります。
が、これらはリズミカルであったり、自然と流れていくものであり、無理な注意を強いられるものがありません。
とても心が穏やかでいられます。

これは茶室など特別な場/特別な道具がある時だけでなく、自分の部屋で手持ちの質素な道具でお茶を点てる時でも同じです。
※バナー画像は我が家での朝のお茶風景

「穏やかで素」という状態がとても心地よく、
例えるなら
シンプルで小さな円や球のような心持ち。

それに比べ、普段のSNSや各種ニュースなどに触れて注意を引こうと押し寄せる大量の情報に反応している状態は、穏やかだった球面が波打ち盛り上がり、形も崩れて出っ張ったり欠けたりといた心境。
まるで戦場に立っているかのように落ち着きがありません。

本来はそう言った心持ちの方が「非日常」であるはず。
戦時(非日常)←→平時(日常)なのですから。

ところが今や普段の生活が非日常であり、お茶席のような特別のように見える場が本来の日常の心持ちという逆転現象。
それが起こっている気がしました。

●茶道を始めて得た2つのこと


元々は僕自身も「エンジニアとしてのトレンド把握や情報収集」と称して暇さえあればスマホやPCでネット情報を漁る日々。
そしてお茶の場に行くと『非日常のこの空間に来ると落ち着くな〜」と感じていました。

もちろん仕事柄、今でも日々ネットに触れてはいますが、ふと気づくと「ただの情報収集」の頻度は明らかに落ちています。

我ながら茶道を始めてから変わったなと思うのは2点。

1.身近なものを「よく観る」ようになった
2.隣り合う人を意識するようになった


1.身近なものを「よく観る」ようになった 

エンジニアとして感じるのは、お茶の作法は非常に善く練り上げられたシステムということ。機能美と様式美が合一された素晴らしさがあります。
知るほどに、美しいプログラミングコードを見ているようで惚れ惚れとします。

が、それを自分がこなすとなると、なかなかスムーズにいきません。
手順を覚えてその通りに動作することもそうですが、限られたスペース内での物の配置や座る位置、手の動かし方などに注意を払います。
(僕は昔からよく手足をあちこちぶつけたりする方なので尚更「意識」するのに苦労します)

ですが、そうしていると、今まで自分がいかに「きちんと見ていなかった」かに気づきます。
自分が使う道具もそうですが、自分の身体や心の動き。
そこに意識が向くようになると、今まで見えていなかったものが見え、持っているものは何も変わらないのに、持っているものの豊かさが見えてきました。


2.隣り合う人を意識するようになった

お茶の場では何かにつけ、次の方に「お先に」を言ってお辞儀をします。
皆で呼吸を合わせるような場面もあります。

僕は元々マイペースに物事を進めるところがあり、「お先に」を意図的に口にすることは強烈な他者への意識づけとなりました。
結果的に、普段の生活や仕事でも「周りの人」に敬意と感謝を持って接する度合いが高まりました。

そのうち自然と普段身近にある世界を以前より豊かに感じられるようになってきた気がしています。


この2つのことの結果として、「自分が持っていない(気がする)ものを無闇に得ようとして気忙しく焦り、目についた情報に振り回される」という事が徐々に減ってた実感があります。


●今の時代にこそ「本来の日常」が必要

利休の茶の湯が大成し、武将がこぞって茶の湯をたしなんだのも、人心が穏やかならぬ戦国時代〜安定へ向かえども先行きが見えづらい安土桃山時代にかけて。

SNSに溢れるネガティブ感情やコロナ禍による社会不安など、形態は違えど今の世の中も「人心が穏やかならぬ」時代。

であればこそ、今の時代の日常に茶の湯を取り込む意義を強く感じている今日この頃です。

さて、本日もお茶を一服。



好き勝手なことを気ままに書いてるだけですが、頂いたサポートは何かしら世に対するアウトプットに変えて、「恩送り」の精神で社会に還流させて頂こうと思っています。