大人の異口同音と子供の意思決定

時間が解決してくれるということ、それはもしかすると何らかの死によるものかもしれないという恐怖がある。
それは肉体かもしれない。精神かもしれない。
解決、というのは必ずしもその状態が良い方向に傾くとは限らない。少なくとも最善ではない。
その中で、そうなったことを腑に落とすのは自分であるし、そうだとしてもそれは後付けにしかすぎず、そう思うまでの悲しみや苦しみは誰も拭ってやくれない。
自らが腑に落とすことができた、ということが解決なのか?
そうなる場合、悩みや問題の根本的解決を望むならば、不具合がある場所をブッ叩くしかないのだ。何かが出来なきゃ学ぶ、直す、治す。
Aをやるために必要なBを行い、それを行うためのCを考える。おそらくそういうプロセスが、意識せずとも頭にあるんだ。
大概、Cを考えるだけでストップすることもある。Bができずに足踏みをすることもあるかもしれない。ただ、Aを最終目標として、別のものとしてA‘を同様なプロセスで行う場合、単純に「行った」という事実だけ点置きしていくと、案外、後に線として繋がる場合がある、という一縷の希望もある。だから、一度挫折したとて、別の場所に脚を踏み入れることで、気付けば同じ道に戻ってきていることがある。
それが私の現在。

他人に言われたことを100%聞く必要はない。
そして事が起こるまでジッと待たなくてもいい。それに気付けるまで二十と数年かかった。
もちろんそんなことは誰も教えてくれないし、教えてもらったとしても自らの中で消化できないのであれば知らないのと同義だ。
...大人がよく言う、何事も経験しろって、そういうの全て引っくるめた言葉だったのかな。

私が後続に声をかける立場になったら、できるだけ同じ言葉は使いたくない。だけれど、あれほど聞き感触のある言葉は滅多にない。悔しいが。
しかし、聞き感触のいい言葉は、大概その言葉が持つ本来のパワーが落ちる傾向にある。
なので、あえて別の、なるべく新聞の見出し程度の長さで、もっと言えば13文字以内で。
自分なりの教本を、あくまで自分用に持っておけるようにしたい。自分すら見失わないように

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