助けあうことの難しさ
彼からのメッセージは突然きた。
自分はあるクラスのクラスメイトで、課題のWordファイルが開けないので送ってくれないか、と。おそらくクラスのWhatsApp(欧米ではポピュラーなLINEのようなアプリ)から辿ってきたのだろうと思われた。
課題のWord以外にも色々と文献などがその講義では同じポータルサイトを通して配られていた。親切心から、他のファイルが開けるかと訊くと、他のファイルがあるなんて知らなかったと返ってきた。立て続けに、実は講義は一度も聴いたことがないんだ、と。
助けてほしいと言われて、何度か困ったり戸惑ったりしたことはそれまでも
多かった。
同じグループに所属しているという理由で、全く名乗りもせずに助けて!と言われたことは何度もあったし、なかにはコードを送ってくれと言う人もいた。
コードを少しずつ書けるようになってきてわかってきたことだけど、コードには書く人のクセが出やすく、おそらく先生には誰が書いたかを見分けることは容易い。
バレるかどうかということ以前に、誰かが何時間もかけて書いたものをコピペしようとすること自体が腑に落ちなかったし、何より今後の人生でプログラミングを生業にする可能性があるならば、自分でコードを書けなければなんの意味もない。
助けの求め方というのもあるような気がしていた。単純に言葉選びが腑におちず、同居している友人に英語能力の問題だろうかと相談したことも何度かあった。私の学校、そしてカナダと言う土地柄、留学生が多く、そのほとんどが英語のネイティブスピーカーではないので、文化的な差異もありそうな気がしていた。おそらくこのことはこれから記事にすると思うけれど、英語が流暢に話せるということと、英語で適切なコミュニケーションが取れるということは、似ているようで少し違うと思っている。
助けを求めると言っても、この課題がわからないという漠然としたものと、この課題のこの問題の問題文の意味がわからないという具体的なものがあって、後者は助けやすいけれど、前者はなにを助ければいいのかこちらも困ってしまう。
そんなこんなで、クラスメイトを助けること(あるいは助けを求めること)について少し考えていたところに冒頭の彼のメッセージはきたのだった。
私の時間は限られている。その時点ですでに4回あった講義に一度も参加していない人に一から十まで説明している時間が私にはないことは明白だった。
ごめんなさい、私には助けられない。
そう彼に返信し、私はそっと画面をオフにした。
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