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初心の記録 怒り ― ”女性をおだてあげる使命”

それなりのエールならいらねえよ

高校生のころ、ビジネス雑誌が毎週家に届いていた。

当時の私には、新聞に書かれている経済ニュースは難しくてなかなか興味を持てなかった。でもビジネス雑誌は気に入っていた。なぜなら面白くて理解しやすく書かれた内容ばかりだったからだ。

巻頭にある著名人の教訓めいた寄稿や、最先端の商品やサービスの特集や企業紹介、成功者ではなく失敗者へのインタビュー連載などが好きで、よくページをめくっていた。

私は経済学部出身で大学4年生になっても専門基礎科目の授業を取っていたから、「高校生のころビジネス雑誌は気に入っていた」なんて大真面目に書いたら、学部の友達には笑われちゃいそうだ。でもほんとうである。

私が高校生だった2013年~2015年には、「女性活躍」に焦点を当てた特集をいくつか目にした。IT企業の20代女性社員がメキメキの成果を上げているというインタビュー記事で、大手日系企業の人事担当がどのような働き方改革や評価制度に取り組んでいるかというインタビュー記事を読んだ。「あなたの会社の女性管理職はなぜ増えないのか」といった特集もよく覚えている。

社会で実力を発揮する女性に関する記事や特集は好きだったこともあって、「日本政府や企業は、”女性の活躍”を推進していて、メディアもそれを積極的に取り上げている。自分が社会に出るころにはもっと女性が活躍する時代が来るのだろう」と、これから”進出”するであろう社会に希望を持っていた。

雑誌を開くといつも読む連載のひとつに、巻末のコラムがあった。小田嶋隆氏のコラムである。彼はコラムニストで当時は50代後半の人物だった。おもに時事ネタについて独自の見解を述べているような内容で、特に複雑な知識がなくても読みやすかったので、なんとなく読んでいた。

小田嶋氏のある日のコラムが「女性の活躍を応援するメディア像」を打ち砕いた。

それは、私が高校3年生になる前の冬、2015年1月5日付けのコラムだった。

当該コラムの書き出しは、新年1発目の原稿というものは、筆者は師走で青息吐息なのに、読者は正月気分であるというギャップが苦しいというものだった。

2014年は、女性の活躍が目立つ年だった…と、おそらく腕の良い新聞コラムの書き手なら、こう書き出してしまってから、幾人かの素敵滅法な女性の名前を挙げつつ、それなりに世の女性へのエールを感じさせるテキストをまとめあげることができるはずだ。

小田嶋氏は、「新春向けの原稿の多くはそのように制作されている」と続けたうえで、その年に輝く女性を発見したからその彼女たちについて書く、という順序で企画されているわけではないと明言する。

「巻末に女性向けの記事をひとつ配置するから探しておけ」だったり、「審査員にオンナをまぜておかないとあとで面倒だぞ」だったり、「おいヤマナカ、新春特別企画向けに、グラビアに堪える女性文化人をひとり都合してこい」といった、編集部の事情から発案されたページが、あらかじめ女性をおだてあげる使命を帯びて、企画・執筆・制作・掲載されるのだ。

前半でこのように前置きをしてから、後半では2014年にSTAP細胞で世間を騒がせた小保方晴子氏についての一連のメディア展開を「女性コンテンツ」と呼び、「新春コラムのような出来レースだった」という見解を書き連ねている。

17歳の私にとって衝撃だったのはコラムの前半だった。

失望した。

そっか、メディアの企画ってそういう風にできているんだ。

私が見てきた「女性活躍」に関するメディアの企画は、女性の活躍を本当に応援してくれているわけじゃなかったのか。

「女性をおだてあげる」という表現を文中で堂々と用いていることから、同じ人間として女性へのリスペクトを感じられないコラムだった。

例えば50代後半の女性コラムニストがいたとして、同じように女性を取り上げる企画の裏側や2014年の小保方氏の一件のメディア展開の裏側について書くとしても、おそらくこんな表現は使わないのではないか。

それは、2014年頃いわゆる「活躍する女性」としてメディアに取り上げられた女性たちは、男性中心の価値観のなかマイノリティであると感じたり、女性のロールモデル像が少ないなかであったり、出産・育児に対してまだ社内の制度が整っていないなかでも、自力でキャリアを切り開き実力を発揮した方々だったのではないかと考える。

たとえ周りの環境がすでに整っていたとしても、何の困難もなく「活躍」などということは基本的にはあり得ないと私は思う。

新春らしくない原稿になってしまった。合掌。

小田嶋氏はこのコラムをこのように締めているが、おっしゃる通りだ。

皮肉なことに某コラムの名前は "小田嶋隆の「pie in the sky」~絵に描いた餅ベーション” ときている。

女性が人間らしく生き自己実現することは、「絵に描いた餅」のような祈りで終わらせていいわけがない。

それなりの ”女性へのエール” ならいらねえよ。

コラムの題材、オチに至るまで、いったい誰に何を伝えたいコラムなのか理解できなかった。せめていうなら、新年から17歳の女子高校生にメディアコンテンツ制作の裏側の男性目線的な部分を開示し、存在しているジェンダーギャップを突き付けたという点では意味があっただろう。

もちろん、女性に関するメディア企画のなかには、女性の自己実現の推進を理念に制作されているものだってあるはずだ。そもそも、メディアが本来発揮するパワーはそういうものだと私は信じている。

読んでの通り、17歳のときこのコラムを読んで覚えたのは失望と怒りの感情だった。そして「こんなメディアを変えてやりたい」と思った。

コラムのページの切り抜きは本投稿のサムネイルにもあるように、食卓で付けたシミとともに今でも保存してある。

それ、男友達にも同じこと言う?

実はもともとの私の構想であれば、10代の初心の記録という趣旨に沿って17歳のとき小田嶋氏のコラムについて感じた失望と怒りを記し「メディアを変えたい」という当時の荒い決意でこの投稿を結ぶはずだった。

しかし大学生になり20代に突入すると、男性目線のコミュニケーションに悲しみや怒りを覚えることが実体験で発生し、記録しておくべきではないかと考え直した。

それは20歳になりお酒を飲めるようになってからの体験についてだった。

冬の夜、男性の先輩と伏見駅周辺で飲み終わったあと。居酒屋を出た途端、「このあとどこ行く?」「ちょっと休憩しようよ」と手をつかまれた。どこかへ連れていかれそうになった。

伏見駅周辺は居酒屋が集まっている場所こそ明るいものの、1本裏の道へ入ると暗いことが多い。

怖い、と思った。

手をほどき断ったときだった。

「俺、おごったのに?」

と言われたのだった。

あきれて声を出して笑ってしまった。そのときの飲食代は払ってもらっていた。でもそうすれば、この女は自分に従うと思った?その期待には応えたくない。

一緒に飲んだのはそんな思考回路だったのかな。居酒屋を出たあとの目的地は特に決まっていなかったが、私のつま先は真っ先に駅に向いた。

高2のときの小田嶋氏のコラムもあって、このときすでに”人間らしく対等につながること” と ”女性であることを理由に受ける扱い” のギャップについて、疑問の種は蒔かれていたのだと思う。「おごったのに」は、その種が芽を出した瞬間だった。

その芽はいつのまにか成長し、NOと言う行動に変えられるようになった。

まだ数ヵ月前のことだ。男友達と飲んだ帰り、地下鉄栄駅のホーム。電車を待っているときに「また飲もうよ」って話をしてるときだった。

その話の流れでいきなり、

「めぐ、今度は起きたら知らないホテルにいるかもね」

「グラスに知らないうちに睡眠薬いれてるかも」

と言われたのだった。

え、これ冗談? いや冗談で片付けていいのか?

全然よくない。

今回についてはいくつかの事例が頭のなかにあった。2019年6月、実の娘に性暴力を加えた父親の無罪判決をきっかけに、フラワーデモが全国各地で起こった。自身に起きた性暴力被害を、駅前でマイクを持ち静かに告白する1人1人の女性。

2019年夏は性暴力に関する報道をよく目にした。同僚や先輩や、ましてや夫からもレイプドラッグの苦しみを受けた女性の数々の屈辱的な事例が頭のなかにあった。

レイプドラッグとは、飲食物に混入し相手が意識を失っている間に性的暴行を加える手口に使用される睡眠薬などの薬物のこと。意識を失うため暴行の記憶が断片的になるか全く残らず、薬が体外に排出された場合には証拠が残らないため立証が難しいケースもある。

全然よくない。

「おごったのに」と言われたときは、あきれて笑い、疑問を感じたが踵を返しただけだった。でも今回は言う。

男友達には、「冗談かもしれないけど、そのつもりならもう会うことはない」「実際にレイプドラッグで苦しんでいる女の子もいるのに絶対に言ってほしくない言葉」と伝えた。そもそも「そんなこと考えて言ってくるのが気持ち悪い」と思ったのでそう言った。

これらの言葉は、”私が「女性」だから”という理由で投げかけられ、私の意思に関係なく自分のモノとして扱ってもいいことに等しいものだったのではないか。男友達に同じこと言う? 絶対言わないでしょ。


これはあくまで私が考えていることだが、人々が誰にどんな言葉や行動で関わっていくかについては、マスメディアから身近な人々に至るまでのコミュニケーションやつながりを通して、生まれてからこの瞬間までインプットされているだろう。例えば普段の行動で、友達、家族、先輩に影響を受けていることはないか。ここぞというとき、映画や漫画の誰かの言葉を借りることはないか。それなんかラブソングでも聞いたな、とか。言いたいことはそんなことだ。メディアや他者から振る舞いを学ぶこと自体は全く悪いことではなく、むしろ良いことだ。問題は、マスメディアやコミュニケーションのうち男性目線のものが、女性が男性のモノであるかのような扱いやコミュニケーションを許した場合に、何も考えず疑問を持たない人間はそれらに影響を受けるだろう。影響を受けた人間は発言も行動もそのように作られていく。その結果、例えば「居酒屋の帰り」 「夜」「男女」といった条件がそろったときに似たような視点の発言がアウトプットされる。なんて私の考えすぎかな。警戒心は強く信頼していないような人とは飲んだりしない。私はただ男とか女とか抜きに楽しい時間を共有したいだけなのになあと思っている。

冗談では済まされない事件

女の子のグラスに睡眠薬入れるとか言っても大丈夫。その意識の延長線上に、女性を心身ともに傷つける数々の事件があるように思う。

ここでは飲酒やドラッグによって性暴力が行われた事例を2つ挙げる。

1つめ。2015年4月東京都内で、当時TBSのワシントン支局長だった山口敬之さんが、ジャーナリスト伊藤詩織さんに対して、伊藤さんが酩酊状態で意識がないのにも関わらずホテルで性行為を強要したとする事件。伊藤さんが山口氏に就職に関する相談をするための食事のあとだったという。

約半年前の2019年12月には、伊藤さんが山口さんを相手に起こした民事訴訟で、伊藤さんが勝訴した。

山口さんは民事訴訟の判決後「私は法に触れる行為は一切していない」と主張している。

伊藤さんは事件から勝訴に至るまで「生きててよかった」と口にしている。この言葉から、この体験は彼女にとってどれほど恐ろしいことだったのだろうかと、想像しただけで震える。

そしてこの2020年5月において忘れたくないことがある。山口さんはTBSの政治記者であり、安倍首相に関する本を執筆するなど、首相に近いジャーナリストであるとされていた。事件後準強姦罪で山口さんの逮捕状が取られたが、当時の警視庁刑事部長の中村格氏の判断で、逮捕直前で彼の逮捕状は取り下げられた。

20年5月はかの検察庁法への抗議によって、安倍首相が自身の判断で黒川氏の定年を延長したこと、コロナ禍のなか検察庁法の強引な採決を予定していた事実があぶり出された。山口さんの逮捕中止と合わせて忘れてはならないことだ。伊藤さんの告発は、性暴力被害に完結するものではない。

2つめ。2018年11月~2019年春に疑惑が明らかになった事件。韓国の人気グループ「BIGBANG」のメンバー V.Iらが経営するクラブ内で、レイプドラッグを使い女性に対して性的暴行が行われていた。通称「スンリゲート」。クラブ内で女性の飲み物に薬を入れ、意識が朦朧とする女性を連れ出し、その後男性が性的暴行を加える部屋が別に用意されていたという。さらにその様子を盗撮し共有していた。まるで女性がおもちゃであるかのような扱いで、屈辱的だ。

私が通っていた大学はジェンダー平等を目指す国際的な「HeForShe」運動に参画していた。海外の留学生と一緒にスンリゲートのニュース映像を見て、議論したことがある。議論は白熱して、早口の英語についていくのは少し大変だったけど頑張った。スンリゲートの盗撮の件に関連して、日本では男社会の「部活」において部室などでの盗撮が起きている、ということについて聞かれ話したことを覚えている。

最後に、”メディア” と ”女性軽視”が関連するごく最近の事例を挙げる。

2020年4月、ナインティナインの岡村隆史さんがオールナイトニッポンの生放送で「コロナが終息したら絶対面白いことあるんですよ。美人さんがお嬢(風俗嬢)やります。短時間でお金を稼がないと苦しいですから」などと話した。

例えば「この発言に問題点があるとすればどこですか。150字以内で答えてください」という問いを、20代~60代の日本の男女10人に突然投げかけてみたら、それぞれどんな回答をするんだろうと思った。

若い希望を、失望に変えたくない

男性目線で女性を男性のモノとみなす視点とそれを許す風潮は、メディアから隣にいるような人にまで、ごく身近に存在している。

それに気が付いてしまったら、これまで人々が「よくある」と笑い見て見ぬふりをしているものが見過ごせなくなった。日常的なセクハラ、女性を軽視する発言、性暴力に近いシチュエーション。「よくある」=「女性は軽く扱われて当たり前」と認めていることだ。

数ヵ月前、怒りを伝えた男友達は「本当に良くないことを言ってた」と謝り、「いじめの加害者と被害者のすれ違いはこうやって起きるのかもしれないって思って、背筋が凍った」と理解したみたいだった。

男とか女である前に、わたしたちは同じ人間だ。

例えば「君の名は。」の瀧くんと三葉のように、男女の心身が入れ替わらなければ分かり合えないことなのだろうか。

大切なことは、このような性差別や偏見だけにとどまらないこのような究極的なことだと私は思う。

想像力を働かせて行動するかどうか、そのために学んでいるかどうか。

立場や考え方が違う人々と理解し合い、協力し合うことがさらに当たり前になる時代に必要な能力として、私たちはこの大切なことを試されているのではないか。

そして、2020年に生きる10代の女の子は、2015年の高校2年生の私かもしれない。私は、世界中すべての女性が人間らしく、いつでもどこでも安心して生きられる社会を作りたい。未来ある若い女の子が希望を持って生きられるような社会を作るために声を上げたい。そのためにまずこの文章を書いた。


✓ さらに深く知る

本文に出てきた人物や私の考え、事件について関連するリンクを集めました。

今回、高校生と大学生のときの個人的な体験に関連した件を取り上げましたが、調べ考えるほど女性の権利獲得に関する問題を考えるにはまだ一角であると痛感しています。

興味を持つものがあればぜひ見てみてください。そして問題を考えるきっかけにしてもらえたらとても嬉しいです。

■ 小田嶋隆氏のコラムについて

▼ 無料で読める方のコラム連載。私にメディアリテラシーを教えてくれた人

■ 2014年小保方晴子氏の一連のメディア展開について

▼「小保方晴子氏の一連のメディア展開」がピンと来なかった方のために。あえて論文捏造が発覚する前の小保方氏の記事を例として取り上げる


■ 「女性としてみられる」ことについて

▼ 男とか女とかじゃなくて「人間らしく」生きられる社会をつくりたい


■ おごり・おごられることについて

▼ 飲み代を男性におごられることが軽くトラウマになったが、これを読んで楽になった


■ レイプドラッグについて

▼レイプドラッグを被害者側の体験から知る


▼ レイプドラッグを加害者側の視点から知る

▼被害に遭わないために。一方で加害しないための啓発はなぜ少ないのか?


■ 伊藤詩織さんの性暴力被害における民事訴訟について

▼山口さん「法に触れることは一切していない」、伊藤さん「生きててよかった」の言葉を参照したのはこの記事。判決で被害者の心情理解が進んでいることがみられたことは嬉しかった

▼ 山口さんの逮捕中止について知る


■ 「スンリゲート」について

▼ 「スンリゲート」について詳細を知る


■ 世界で起きている性暴力について

▼ 韓国「n番部屋事件」。凄惨で知りたくないが知らざるを得ない事件

▼ 紛争地域では性暴力は武器となっている。19年4月29日の毎日新聞1面の記事では「動物扱い、尊厳を破壊」の見出しと内容に衝撃を受けた


■ ナイナイ岡村氏の発言について

▼岡村氏の発言について22歳女性の視点。日本やメディアに対して同じ危機感を持っていると感じる

▼岡村氏に関連して、メディアによる男女格差の助長について考える


本投稿の冒頭の内容は、一部以下の雑誌コラムから引用しました;小田嶋隆(2015), 『「リケジョの星」の1年後』, 『日経ビジネス』, 2015.01.05,  pp100.


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