見出し画像

言語の向こうに何がある

僕は一体何をそう躍起になって新しい言語を次から次へと勉強しているのだろうか。たまに我に返る。

英語、ドイツ語、韓国語、イタリア語、フランス語、その他思いつくままにやっている。

大して話せもしないのにその国の人に話しかけたりするから僕はコミュ障ではないと思う。

でも核心をつくようなパーソナルな部分を言葉にするのが苦手だ。いや、ウソ。怖い。本当は怖い。否定されるのが、そういう素振りを見るのが、怖い。まぁ人は皆そんなもんかもしれない。

うまくコミュニケーション出来ない、仲良くなれない、愛さないくせに愛されたい。そんな思いをずっと募らせてきた数十年。

ところが、だ。

外国語で話をするとまず先に「通じた!」という喜びが起こる。僕はその喜びを「通じ合えた」という喜びと混同しているのではないか。また次も通じ合いたい、分かり合いたい、なんて思いが僕を多言語学習へ向かわせているのか?

いや、分かり合いたいと書いたが、それはちょっと嘘だ。分かりたいのは多分、自分のことだけだ。外国語を話す時にだけ現れる別の自分。別の角度から見た自分。自分で自分を見て、相手を通して自分を見て、色んな言語を通して自分を見ているだけだ。その視線は凝り固まっていて他者には向かない。

愛さないけど愛されたい。僕が僕を愛するように愛されたい。でも、君のことは愛さない。

僕は他者との関係性を真面目に捉えるが故に、だからこそ愛していないことが気になる。誠実に接していないことに罪悪感を覚える。…罪悪感を覚えるだけで別に何か対処するわけではないのだけど。

あぁ〜申し訳ないなと思いながら何もしないことはよくある。日本語でも英語でもある。

外国語を話すと人は論理的になるそうだ。

外国の言葉は思い出と結びつかないから、しがらみがなく客観的に話せる(のでは?)という記事を読んだことがある。確かに日本語はどんな単語を使ってもどこかの記憶とリンクしてしまう。相手には関係ないことでも、苦い思い出やコンプレックスに繋がる言葉を避けて話してしまう。

バイリンガルやトリリンガルで育った人はどうか知らないが、飽くまで外国語として言葉を話す時の脳の動きはとても面白い。常にバックグラウンドで言葉を探している。空欄の文法だけが頭に浮かんでそこへ単語を入れてゆく。

僕の語学力がもしネイティブ並みだったらそれも変わってくるのだろうか。日本語では文の構成にまで目を向けて話すことは基本的にはない。あるとしたら、とっておきのすべらない話を披露するときかな。

外国語で話す時にそこまで完全にリラックスすることは一生ないだろう。僕はこれからも日本に住むだろうからそこまで使う機会がない。

でも外国語を話してその国の人に成り切っている時、それは単なるモノマネだが、僕にとっては解放でもある。語学力に制約が出来る代わりにそれ以外が自由になる。日本語の世界で「こうでなくてはならない」と自分で決めてしまった型を外して良いのだ。いやもちろん日本語を話す時にも外して良いのだけど言うは易し、憎や恋しや塩谷の岬で実際には難しい。それに別に日本語の世界に於いては僕はもうこのキャラクターで構わない。

あ。

音楽をやっていたことも、外国語を学ぶことも、僕は感情を表現したかったんだな。魂を解放させたかったんだな。

閉じ込められている身で他人のことまで見る余裕ないよな。

いい子いい子と育てられた弊害か、悪い子を出せない。悪い子を出してはいけないと思っている。もちろん相手との関係性にもよるがいい子でいようとする。

いや待て僕はそんな言うほど悪い子じゃない。

そこは訂正したい。

社会では余裕の大人を演じ、家族の前ではいい子を演じているから逃げ場が欲しかったんだろうな。

しかし語学は逃げ場にするには労力が見合ってないにも程がある…

語学はゴールがない。

100点なんて存在しない。

でも一生終わらない素敵な趣味を見つけて僕は幸せだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?