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私と視線恐怖

私は多種の不安障害、恐怖症を抱えている。
その中でも『病名が増えるのが嫌だ』『どうにも治療出来ない』という理由で医師に把握して貰っているものの、特に病名として言っていないものがある。

そのひとつが、視線恐怖症だ。

これは何も思春期からでは無く、日本に来てからずっと。ずっと。今でもずっと。向けられている視線達のせいである。

好奇の視線』『奇異の視線』『侮辱の視線』『性的な視線

性的な視線に関してはこちらの記事を読んで貰えればわかるだろうと思う。

【ノンフィクション小説】優等生

残りの三つの視線は、26年前。つまり、日本に来た5歳の時から浴びている。

外国人だ』『黒人だ』とジロジロと見られる。

ピンと来ないかもしれないが、このように外来の人間を異端とする日本特有の鎖国文化は未だに根強く、日本人同士であっても異端と判断した人間に対しては何をしてもいいと思っている年齢層が居る。それをする事によって相手にどのような精神的な苦痛を与えるかを考えない。彼らにとったら考える必要も無いのだ。『異端』と判断したのだから。

1部状況を除き多くは中年~老人、特に男性に多い。私がまだ学生~25歳までの頃は学生の男女にさえ電車で『うわ、黒人』『真っ黒じゃんwww』『黒豆みたい』『コーヒー豆www』『怖~い殺されそう』と聞こえるように揶揄われる事も多かった。声に出して悪口を言ってくるのは度を越している。

うわ、黒人だ!は一人でいると未だによく言われる。私はこの肌が嫌いだ。大嫌いだ。 私自身従兄弟にレイプや従姉妹に性的いじめを小中に受けたり、街中で執拗く付き纏われて以来申し訳ないがアフリカ系褐色人種にトラウマがある。だから日本で見かけても"全く目を合わせない"…が、女性や見るからに穏やかそうな男性だった場合は目が合ったら会釈をするし、お互い笑いかけるし、"Hi,have a nice dy"と声を掛け合う。


相手が日本語を喋れないと思って好き勝手話すのは構わない、言葉が通じるとわかった瞬間そんなに萎縮するのなら端から差別をするな」 と説教じみた事をしていた時期もありました。本当に殺してやろうかと思う程、此方は惨めなのだから。

その視線は足先から、頭までをジロジロと睨め付け、値踏みするように見られる。特に顔や身体をじっと執拗にみられる。驚く事に電車内では3分~酷い時は15分程続く事もある。

視線というものは不思議なもので、こちらが見ていなくても『見られている』感覚というのは分かるものだ。自分で言うのも烏滸がましいかも知れないが…私はHSPの気質が強く、勘が冴える。チラリと視線を向けると目が合う、なんて事は儘ある。

外に出るとどんな目線を向けられるか分からない。

それが、どうしようもなく怖い。
自分はみっともないのでは無いか、醜いのでは無いか、外国人だから黒人だから、見られてる、悪口を言われている。そんなのが20年以上続いている。
日本人の義父に相談した事があった。
見られるのが怖い、と。返ってきた言葉は

「外人なんだからしょうがねぇだろ、我慢するしか」

 それから、私は耐えて、耐えて、耐え続け、出来うる限り耐え凌いだ。視線も差別の言葉も、全て耐えて、俯いて、内側に抱える様にした。

その結果、パニック障害は悪化、気にしすぎて人の声がより過敏に聞こえる様になり、人の多い電車移動は1人では出来ず、やむを得ず一人で行動する時はイヤホンをつけ、大音量で音楽を聴いている。勿論人の多い場所になんて行けない。常に俯いて背を丸めている。
繁華街なんて自殺行為だ。

人間関係にも影響は出た。
ネットで友好を築くと、リアルで会う事もある。
その際に、自虐的に自分の容姿を伝える様になった。人に見られるのが怖くて家から出られず、人を家に来させるという足労までかけるようになった。
隣を歩く友人達が好奇の目に晒され無いように、他人の外見まで気にするようになった。
共感性羞恥まで働くようになったからだ。

(この人、服装があれだな…髪がボサボサだな、余計人に見られる)
そんな事を考えてしまうようになり、そんな己が情けなく、恥ずかしく、より引き篭った。

自意識過剰だ、と揶揄された事もある。
私もそうかもしれない、誰も私なんて興味無いし見ていない。
なんとかそう思おうとしても、視線、視線、視線。
己自身どうしていいか分からなくなった。
見た目を変え、舐められないように刈り上げにした事を、優等生の記事でも書いたがやはり見られる、ヒソヒソされる、そんな思考に囚われていた。

自意識過剰なのか、事実なのか。
それを明確にしてくれたのが、パートナーの存在だ。

パートナーと視線恐怖の話

ここで語ってくれているが、他人に見てわかるほど、普段からやはり視線に晒されていたのだ。

物珍しい、客寄せパンダを見るような不躾な眼差し。

この記事を書こうと思ったのも、それが昨日(2022-4-19)にそれが原因で酷いパニック発作を起こして泣いてしまい、結果仕事にならず早退する迄に至ったからである。帰りの電車ではぐったりしていたそうだ。

この日、昼頃の虎ノ門、サラリーマンの視線、視線、視線。通り過ぎる度に顔をジロジロみて、胸を見て。やはり中年男性が多い。
老人の場合は何か罵声を飛ばしてくる事もある。

しかも、私は『褐色の肌をもつ外国人である限り』一生耐え続け無ければならないのだ。


それは、しょうがない事なのか。

私は『しょうがない存在』なのだろうか。

かっこいいからだよ!と励まされる事があるが、それと不躾に見られる事を許容、容認する事は別である。
私は『不快』で『恐怖』を感じているのだから。
そのせいで、自身の容姿の全てを疎んでいるのだから。

これは、年数を掛けて複数人から"視姦"され"蔑視"され精神を犯された結果なのである。

だからこそ、日本人であるパートナーが何見てるんだと声を上げてくれる事は、私にとって救済以外の何物でもない。

私が声をあげれば『やっぱり黒人は』と言われてしまうから。

これが、私の視線恐怖症の話。




支えてくれようとして頂ける事に深い感謝を。