[歴史発想源]「武心の鏡鏡・鎌倉功臣篇 〜畠山重忠の章〜」(1)秩父党
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』、ご覧になっていますか? 脚本家・三谷幸喜氏による絶妙に面白いストーリーがとても話題です。
『鎌倉殿の13人』では題名通り、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の死後、2代将軍・源頼家に代わって合議制で政治を行う13人が登場するも、早くも次々に互いの謀略で潰し合いが始まっています。
そんな中、中川大志演じる畠山重忠(はたけやま しげただ)が北条時政を筆頭とする北条家との決裂に話が向かっていますが、その影響かAmazonのkindleストアで取扱中の電子書籍「歴史発想源/鎌倉功臣篇 〜畠山重忠の章〜」 が少しずつ売れ行きを伸ばしております。お買い上げくださった皆さん、ありがとうございます。
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【第一回】 坂東の源平の勢力図「秩父党」
■武蔵国に勢力を張っていった秩父一族
時は、平安時代後半。
長らく続いた貴族の支配の世から、次第に武士の支配の世に移り変わる頃です。
今回の舞台は、その頃の関東地方です。
今でこそ日本の首都は東京であり、関東地方は日本の中心だと思われていますが、平安時代の頃のいわゆる首都は現在の京都市であり、日本の中心は畿内、つまり関西地方でした。
その頃の関東地方というのは、日本の中心の機内から見て東のド田舎として見られていました。
当時の国際交流の相手は中国や朝鮮半島なので、京都から見て九州地方は外交の前線でしたが、その逆側の関東地方は「東の奥地」だったのです。
現代の関東地方などという時の「関東」という呼び名は、駿河国(=静岡県東)と相模国(=神奈川県)の国境にある足柄峠の関所よりも東の方、という意味で、この関所は東海道を整備した江戸時代の話です。
平安時代当時は「関東」という言葉は、不破関(岐阜県関ヶ原町)や鈴鹿関(三重県亀山市)などよりも東のことを指し、静岡県や長野県なども含む言葉でした。
その頃は足柄峠を足柄坂と呼んでいたので、その足柄坂から東、という意味で「坂東」(ばんどう)というのが関東地方を表す一般的な名称でした。
利根川のことを「坂東太郎」と呼ぶのは、「関東地方にある一番(長兄)の川」ということから来ています。ちなみに筑後川が九州にある次兄の川ということで「筑紫次郎」、吉野川が四国にある三男の川ということで「吉野三郎」と言われます。
「坂東」という言葉は、今でいう関東地方だ、と置き換えて考えていいでしょう。
当時ド田舎だったこの坂東地方には、以前から桓武天皇を祖とする桓武平氏が下向し、坂東平氏と呼ばれる一族が土着していきました。
「平将門の乱」を起こしたことで有名な人物、平将門(たいらのまさかど)もその一人です。
そんな坂東平氏の中から、房総半島には房総平氏、相模国には相模平氏など、関東地方の各地にいろいろと派生した平氏一族が土着していったのでした。
その頃、武蔵国の秩父郡(埼玉県西部)は、銅の産地として全国的に有名で、ここで産出された銅が朝廷に献上されたことで「和銅」という年号ができたほどです。
この秩父郡を拠点にした坂東平氏の人物がいます。
平将門の孫にあたる、平将恒(たいらのまさつね)という人物で、苗字もその地名から、秩父氏を名乗るようになりました。
その息子である秩父武基(ちちぶ たけもと)は、秩父一帯を治める秩父別当の役職や軍馬の育成し供給する秩父牧の役職などを兼任し、秩父氏は秩父一帯で最も権力を持つ一族になります。
その秩父武基の嫡男である秩父武綱(ちちぶ たけつな)が、後の秩父一族の運命に大きな影響を与えます。
秩父の奥地の一豪族に収まっていた秩父氏ですが、国家的なプロジェクトに参加する機会が出てきました。
それは、永承6年(1051年)の「前九年の役」です。
東北地方で安倍氏という豪族が騒乱を起こし、朝廷はその安倍氏の討伐のために、源氏の武士・源頼義(みなもとのよりよし)を東北へ向かわせます。
秩父武綱はその源頼義の征伐軍に加わることになり、陸奥国へと出征して、その武勇を思う存分発揮します。
その抜群の戦功により、秩父武綱は、源頼義から「奥先陣譜代勇士」、つまり「東北遠征で前線を戦った仲間の勇者」として認められ、源氏のシンボルである白旗を賜ったのです。
その後、「前九年の役」では源頼義側について戦い、安倍氏に代わって東北の支配者となっていた清原氏(きよはら氏)が続いて騒乱を起こすようになり、源頼義の嫡男、源義家(みなもとのよしいえ)が父と同じく朝廷から東北遠征を任されます。
永保3年(1083年)の、「後三年の役」です。
この「後三年の役」においても、秩父武綱の武勇は源氏に大いに必要とされ、源義家に従軍して再び東北へと出征しました。
現在、東京都渋谷区に「勢揃坂」(せいぞろいざか)という坂があるのですが、ここの地で源義家が東北遠征軍を勢揃いさせ、秩父武綱もここで源義家軍に加わったとされ、そのことが今でも坂の名前として残っています。
この時も、秩父武綱は清原氏討伐に大いに奮戦し、またもや源義家から白旗を賜る栄誉を得るのです。
この源頼義・源義家父子の武勲を支えたことで「坂東に秩父武綱あり」とその武勇は周辺にも轟き、秩父氏はさらに勢力を張っていくことになります。
秩父武綱の後を継いだ秩父重綱(しげつな)は、秩父郡だけではなく武蔵国一国を担当する「武蔵惣検校留守所」という役職に就くことになり、武蔵国の大名ともいうべき勢力を持ちます。
統治する領域が秩父郡という一地方から武蔵国一国という広範囲にジャンプアップしたので、秩父重綱は自分の子供たちに各地を治めさせます。
次男には河越郷(埼玉県川越市)を治めさせたので、その次男の一族は「河越氏」、
三男には高山郷(埼玉県飯能市)を治めさせたのでその三男の一族は「高山氏」、
四男には江戸郷(東京都23区)を治めさせたのでその四男の一族は「江戸氏」を名乗るようになり、関東各地に秩父氏の庶流が誕生することになりました。
そして長男の秩父重弘(しげひろ)には畠山郷(埼玉県深谷市)を治めさせたので秩父重弘の一族は「畠山氏」を名乗るようになります。
これら畠山氏、河越氏、高山氏、江戸氏などはどれも秩父平氏からの血流であるため、これらの勢力をまとめて「秩父党」と呼びます。
ただし、関東各地に次々に根を張っていく秩父党が一枚岩だったかというと、そうではありません。
秩父重綱は家督を、長男の秩父重弘ではなく河越氏を名乗ることになった次男の秩父重隆(しげたか)に譲ったため、この両者を祖とする畠山氏と河越氏はどちらが秩父党の真の頭領かで後々もめていくことになるのです。
■保元の乱、そして平治の乱が勃発
さて、秩父党が関東地方に勢力を広げている頃、一人の少年が京都から関東地方にやってきます。
源氏の頭領・源為義(みなもとのためよし)の長男、源義朝(よしとも)です。
源為義は安房国(千葉県房総半島)に所領があり、源義朝はそこに送られて成長することになりました。
この源義朝は、後三年の役で活躍した源義家の曾孫にあたる人物です。
関東地方の豪族たちにとっては、かつて東北遠征で活躍の場や栄誉を授けてくれた大恩ある恩人の子孫がやってきたわけですから、関東の豪族は続々と源義朝の味方となります。
こうして、源義朝は立派に成長した頃には、南関東地方の武士たちを従えるボスとなっていました。
しかし、頭領の自分を差し置いて独自に勢力を拡大していく長男の源義朝の台頭を危険視した父の源為義は、次男の源義賢(よしかた)を後継者と決め、この源義賢を北関東の上野国(群馬県)へと下向させます。
そのため、関東にて源氏の兄弟・源義朝と源義賢による南北の兄弟喧嘩が勃発するわけですが、そこに秩父氏の家督争いも絡み合ってきます。
源義朝は秩父重弘が祖である畠山氏、源義賢は秩父重隆が祖である河越氏と結びつき、源氏の兄弟と秩父氏の兄弟の後継者争いが一緒になって衝突を招くことになるのです。
源為義の意を汲んで下向してきた次男・源義賢は、武蔵国大蔵(埼玉県嵐山町)に「大蔵館」を建築し、河越氏始祖の秩父重隆の娘と結婚して、そこを拠点の居館と定めます。
久寿2年(1155年)、源義賢と秩父重隆が共に所在している時にその大蔵館が襲撃されてしまいます。
襲撃したのは、源義朝の15歳の子・源義平(よしひら)、そして秩父重隆に秩父氏の家督を奪われた秩父重弘の子・畠山重能(はたけやま しげよし)でした。
共に父の家督継承を助けるべく、源義平は叔父の源義賢を、畠山重能は叔父の秩父重隆を討ち取ったのです。
この大蔵館の襲撃事件を、「大蔵の戦い」と呼びます。
この時に討ち取られた源義賢には、わずか2歳の駒王丸(こまおうまる)という次男が残されており、源義平は畠山重能にこの駒王丸の殺害を命じます。
しかし、幼子の命を奪うことを躊躇した畠山重能は、駒王丸の乳母の故郷である信濃国木曽(長野県南西)へと駒王丸をこっそり逃がしました。
この木曽へ逃がした源氏の男の子・駒王丸が、やがて成長して、木曽義仲(きそ よしなか)となって、畠山氏と再び出会うことになるのですが……。
ともあれ、この「大蔵の戦い」によって源義朝の坂東での地盤は盤石に固められることになり、また秩父党の中でも畠山氏の地位は大きく向上することになりました。
その翌年の保元元年(1156年)、後白河天皇(ごしらかわ天皇)と崇徳上皇(すとく上皇)との間で皇位継承問題が勃発。
そこに、藤原摂関家の藤原忠通(ふじわらのただみち)と藤原頼長(よりなが)兄弟の内紛も絡んできて、畿内の武士はこの両者のどちらかに付くことになって、多くの一族を巻き込む大乱が起こります。
「保元の乱」です。
この時、源為義は源氏を率いて崇徳上皇・藤原頼長側に付くのですが、そこに立ち塞がったのが、息子の源義朝です。
源義朝は関東の軍勢を引き連れて上京し、同じく武士である一族・平氏を率いる平清盛(たいらのきよもり)と共に後白河天皇・藤原忠通側に付きます。
そしてその結果、後白河天皇側が勝利し、敗軍となった源為義は捕らえられ、源為義は息子の源義朝の手によって処刑され、源義朝が源氏の頭領を継ぐことになるのです。
さて、今度は後白河天皇の寵臣であった二人、藤原氏出身の僧・信西(しんぜい)と、公卿の藤原信頼(のぶより)が対立を始めます。
さらには信西側には平氏の頭領・平清盛が味方に付き、藤原信頼側には源氏の頭領・源義朝が味方についたことで、またもや武士同士の大きな戦いが幕を開けます。
平治元年(1160年)に勃発した、「平治の乱」です。
この平治の乱によって、源義朝は平清盛に敗北を喫してしまい、逃亡途中に暗殺されてしまいます。
これを機に、平清盛は天下の実権を掌握し、「平家にあらずんば人にあらず」と呼ばれるほどの栄華を極めていくことになります。
頭領の源義朝を失った源氏は、勢力が急失速。
「大蔵の戦い」で勝利を収めて秩父党の中でも実権を手に入れた畠山重能は、平治の乱によって天下が平家のものになると、畠山氏ももともとは平氏だったという理由から、平家方に帰属していくことになります。
■若武者、父の留守中に思わぬ初陣
平清盛を筆頭とする平家が天下を握ってから、畠山重能も平家方として忠実に仕えることで坂東での地位を固め、平家から大いに信頼を集めます。
そして平治の乱から4年後の長寛2年(1164年)、畠山重能に待望の嫡男が誕生しました。
氏王丸(うじおうまる)と名付けられたこの子こそ、坂東武士の鑑としての名声が高まることになる、後の畠山重忠(はたけやま しげただ)です。
さて、治承4年(1180年)、後の時代を作る第一歩となる大きな事件が、関東で勃発します。
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