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小説・「塔とパイン」 #18

僕の住んでいるアパートは、7階建て。外壁の配色は薄いグリーン。周りのアパートの外壁も、ピンクやブルー、ホワイトと色とりどりだから、僕の住むアパートは目立たない感じもある。


東欧に見られるような画一的なアパートの並びと違って、西欧の国々のカラーリングだけじゃなく、装飾や意匠も様々だ。細かくみて見ると細部にこだわっているのがよくわかる。


こういうところが、中世から続く造形物の繊細さが形作られてきたんじゃないかって思う。


エントランスの鍵を開けて中に入ると、階段が続く。残念ながら古いアパートなのでエレベータはない。段数の少ない階段を3つ駆け上がって自分の部屋に赴く。


自分の部屋に入るのも頑丈な鍵がつけられている。鍵を2回、右に回すと鍵が開く。鍵を開けて中に入ると、外界との関わりに一旦区切りが着くように感じられた。毎日、その瞬間を感じることで気分がリセットされるんだ。


玄関はないので、靴でそのまま上がり込んでもいいのだけれど、日本に何十年も住んでいた僕としては、靴を脱がないのはなんだか気分が良くない。だから、引っ越してきた当日に床をきれいに掃除して、ピカピカにした後、あるルールを決めた。


「このラインが、玄関で、このラインからこっちが、部屋ね。」


床にビニールテープを貼って、境界線を敷いた。もともと何も無かった空のところに境界を定義した。僕のマイルールだ。物理的には段差もないし、ゴミや埃が部屋に入らないわけじゃない。だけど「境界線」を付けることで、そこに意味が生まれる。


一度、部屋に人を呼んだとき、この国の友人達は「これ、何?テープ、なんの意味があるの?」って聞いてきたから「ここから先は靴を脱いでくれっていうのを表すマークにしてるんだ」って答えた。


「そ、そう?」彼らが怪訝そうな顔を浮かべていたのは言うまでもない。


線を引く。

紙に幾度となく引いてきた線。それを日常生活の中に取り入れて、線を引いてみる。線を引くということはそこに意味を持たせることになる。ただ線を書いただけなのに、そこに何かの「意図」を感じる。


生きている。


「線を引くことで、生きていることを実感するんだ」家の中に引いた境界線を見て特に意味もないことで、何か壮大なことに近づけたような気がした。


このアパートは自分で探したわけじゃない。勤めている菓子店の斡旋でここに入ることになった。自分で探しても良かったんだろうけど、難しさ、煩わしさを考えたら、ここで十分だ。


大家さんもいい人だったし。不満はない。


何より気に入っているのは、バルコニーからの景色。額縁のような深緑色の窓枠から覗く木々と緑が、向こうには中世の衣装が施された噴水が見える。


このセットが、仕事から帰ってきて疲れた心に、休日リラックスして過ごしたい身体になんとも言えない潤いを与えてくれる。もう日が暮れて、全ては見えないけれど、スポットライトが当たった噴水の女神像だけは見える。


「あぁ」


色々な思いが交錯する。夕餉の時間だ。

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