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書き続けるために、今日もまた書き続ける

右の手にペンを持って
僕らは何を選んだ?

紙クズの束になって
それなら誰のせいだ
ASIAN KUNG-FU GENERATION / 1980

朝、耳に流れてきたアジカンの曲。私は中学生の頃からアジカンが好きだ。

好きなものには賞味期限があって、好きでいられる期間は限られている。子どもの頃好きだったアンパンマンが今はそうじゃないように。小学生の頃好きだったプリキュアが今はそうじゃないように。

だけど、アジカンは今でもずっと好きだ。そしてきっと、これからもずっと好きだと思えるもののひとつだ。

私はアジカンが好きだ。


昨日の朝、シャッフルで流れてきたのが「1980」という曲。

自分がこうして「書く」ようになったから、サビの冒頭「右手にペンを持って、僕らは何を選んだ?」という歌詞がくっきりとした輪郭で耳に残った。

毎日、毎日、noteを書いているはずなのに、毎日書き切れていないことがたくさんある。

昨日は、勇気の話。一昨日は、Twitterの話。今日は、アジカンの話。この世に無数にある話の中から、毎日たったひとつを選んでつらつらと書く。

そして、その背景にある、選ばなかったたくさんの話たちのことを思う。ときどき、自分はそれらを取りこぼしてしまっている、という感覚になるときがある。

だけど同時に、それらを掬い上げるには結局書き続けるしか道はない、ということに気づく。

「紙クズの束になって、それなら誰のせいだ」

書く話を選んだ責任も、書かない話を捨てた責任も、どちらも私は背負っている。もっとひとつの話を過不足なく書けるようになりたい。書けば書くほどその想いが重なっていく。

でもまた、その想いに応えるためには結局書き続けるしかないというジレンマで、今日も私は、ワクワクしてるのだ。

”終わりよければすべてよし” になれましたか?もし、そうだったら嬉しいなあ。あなたの1日を彩れたサポートは、私の1日を鮮やかにできるよう、大好きな本に使わせていただければと思います。