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【メモ的レポート】哲学カフェに参加して教えてもらった、シッパイってなんなのだろう。

失敗ってなんなのだろう?

それが、最近の私の時間があると考えてしまうことだった。


就活をしていたとき、「若いうちにたくさん失敗するといい」「失敗を恐れない人を求めてます」「失敗してください」と言う大人たちにたくさん会った。まるで、それが若手の心をオープンさせる鍵だと思っているかのようだった。

社会に出てからも、「新人のうちにたくさん失敗してね」「失敗こそ財産」「失敗から学ぶことがたくさんある」という言葉をたくさん聞いた。そう言ったあと、エッヘンって言葉が透けて見えることすらあった。

あはは、参考にします。私は返した。


だけど、ほんとうは「なんだかなあ」と思っていた。釈然としない。私の心はオープンしないし、むしろちょっとだけ曇りになる。


失敗ってなんなのだろう。


先日、哲学カフェというのに参加してきた。参加のきっかけとなったのは、国分寺にある胡桃堂喫茶店の店主、影山知明さんの著書「ゆっくり、いそげ」を読んだことだった。

影山さんはマッキンゼー&カンパニー、ベンチャーキャピタルと勤め、2008年から西国分寺に「クルミドコーヒー」というカフェを、そして2017年には国分寺に「胡桃堂喫茶店」をオープンさせた。

「ゆっくり、いそげ」の中に、「胡桃堂の朝モヤ」という活動が登場するのだけど、この「胡桃堂の朝モヤ」が、いわゆる哲学カフェなのだ。

たぶん、私がそうだったように哲学カフェという言葉を始めて聞いた人もいると思う。哲学カフェといっても、全然難しいものではない。哲学カフェの発祥はフランス、パリ。ひとつのカフェに人が集まり、2時間ほど哲学的な議論をする。ただ、それだけ。

その哲学カフェに端緒をなしているのが「胡桃堂の朝モヤ」だ。


朝9時、国分寺の胡桃堂喫茶店に15人~20人ほどが集まり、哲学カフェこと「胡桃堂の朝モヤ」がスタートした。

寒い冬、午前中の光が窓から入りウォルナットのテーブルを照らしていた。テーブルの艶が、よく見えた。

「最初の1時間は、まずみなさんで “ 問い ” を出し合いましょう」

進行役を務めていたのは、「ゆっくり、いそげ」の著者であり、胡桃堂喫茶店の店長影山さんだった。低すぎるわけでもなく、だけども耳にコトリと落ちてくるような声だな、と思った。

“ 問い ”? 

「最近気になったこと、モヤモヤしたことをみなさんで話せればと思いますが、話すのは後半の1時間です。前半は、どんなことを話すのかをみなさんで出し合います。後半で話す話題を前半で話す、ということですね。

後半の話し合いを活発にするために、前半の話し合いはクエスチョンをつける ” 問い ” の形で話題を出すことを意識してください」

では始めましょう、影山さんは言う。


……。

小さな静寂が、20人の間をゆらりと流れる。

時間にして数秒だったと思う。

そのとき、スッと手が挙がった。影山さんがその方を指名する。

「友達ってなんでしょうか?」

おお。なるほど。

「というのも、私の娘は誰とでも仲良くなれるタイプで、親ながらすごいなあと思っているんです。娘に聞くと『みんな友達!』なんですよね(笑)。大人の僕は友達って純粋に言える人って少ないなと思っていて、だけど自分が子供のころは娘と同じようだったと思うと、友達って一体どういう存在なんですかね」

静かに、だけども小さく「確かに」「おお……」という声が空間に満ちた。

その後も、何人かの方の手が挙がり、「年齢を気にしますか?」「価値観ってなんでしょうか?」「後悔はどういうものか?」「世の中に絶対的なものはあるか?」「壊れた友人関係の修復方法は?」「心配ってなんだろう?」と、1時間でたくさんの “ 問い ” が出た。

途中、私も1つ “ 問い ” を出した。

それは「失敗ってなんでしょうか?」だった。

長い間、ずっと気になっていたこと。失敗って、そんなに求められるほどいいものなんだろうか? 成長とか、人生経験のためには大事なことだってわかってる。わかってるけど、でも。失敗ってなに? 怖くない? 怯えちゃだめなのかな? それに私は、失敗しないための努力もあると思っていて。たとえば、集合場所には10分前に着くとか、事前に準備をするとか、当たり前だと思われてるかもしれないけど、それって失敗しないための努力だと思うのですが。

たぶん、そんなことを言った。


自分の中にあったモニャモニャしたなにかに、言葉にすることで輪郭をあげたような感じだった。

ああ、私ってこんなふうに思っていたんだ。「失敗」に対して、私は誰かの意見を聞きたかったんだ、と思った。

この場にいるメンバーは今日限りで、特段詳しい自己紹介もしていない。誰ともない誰かに、この話をしたかったのだ。誰ともない誰かに、私は、「失敗」について聞いてみたかったのだ。

もし、私を知っている人だったら、たぶん話せなかったと思う。偏屈なこと考えていると思われたくないし、失敗美学理論になったら私は小さく傷つくだろう。

誰でもない、だけど同じ場所に集まる誰か、だからこそ話せたのだと思った。


結果的にこの日、後半の話題となったのは「心配ってなんだろう?」だった。

だけど、「心配ってなんだろう?」についていろんな意見が交わされるなかで、1人の人がくれた言葉がある。

「失敗って、失敗になる基準が人それぞれ違いますよね。

何か大きな失敗をした人は失敗の基準の目盛りが大きくなるだろうし、そういった経験がまだない人は基準の目盛りが小さいから、小さなことでも失敗になる。だけど、そこに大小はないですよね。大きいから偉いわけでもないし、小さいからそれが失敗じゃないわけじゃない。

人には『失敗』になる基準があって、その目盛りがどこにあるのかって見えないんですよね」


その話は、じわじわと広がって、頭が痺れた。

失敗の基準、その目盛り。そういう考え方があったのか、と小さな答えをもらったような気がした。その場で頷いているうちに、正直泣きそうになった。

失敗の基準、その目盛り。


来てよかった。バレないようにハンカチを出して、強くそう思った。

”終わりよければすべてよし” になれましたか?もし、そうだったら嬉しいなあ。あなたの1日を彩れたサポートは、私の1日を鮮やかにできるよう、大好きな本に使わせていただければと思います。