本は、贅沢な栄養だ
ああ、積読本が減らない。減らないのに、また本を買ってしまった。この、なんとも贅沢な好循環にどう名前をつけたらいいんだろう。
私にとって本は、空気や食事なんかと同じくらい、当たり前に取り込んでいきたいものに分類される。コーヒーに砂糖をいれるように、日常の中で溶かして、私をちょっとだけ甘くしてほしい。
だから、読み切れてないのに本を買ってしまうことは好循環だと思う。幸せの輪。
ただその一方で、本は“贅沢品”とも思っている。
そりゃそうだ。1冊を買うのに文庫本なら700円から。カバー本なら1,200円から。私にはぽーんと出せる金額ではない。本屋さんに行けば、話題の新刊から文庫本コーナーに行って、カバーの本を見て、棚と棚の間をかき分けながら買う本を選ぶ。
どれにしよう。こっちの表紙も気になるけど、あっちはタイトルが気になる。でもでも、今日もともと買いたかったのはこっちだから……本棚の森でお財布と頭と、心と相談会。
決して、さらさらと買えるわけではない。
ときどき懐事情が寒かったりすると、お金は、本ではなく、スーパーでお肉や牛乳になってしまうこともある。本も、お肉も、牛乳も、私が体に取り込むもの。
だけどお肉と牛乳は、私を確かに明日に運んでくれる。生きさせてくれる栄養素。でも、本はそうじゃない。
私は本を食べられないし、生命活動的な栄養にも、血肉にもなってはくれない。本だけでは、私は餓死してしまう。今まで何冊も本を買ってきて「お金がないから」という理由で、本を青地に黄色文字のあそこで売ったこともある。
それに関しては、生きていくためには仕方がない、と割り切っている。悲しいけれど。生命活動の栄養にならないものよりも、明日の私のが大切だ。本には、とても申し訳ないけれど。
そして今。ようやく心にも、懐事情にも余裕がでてきて、また本を買う生活を送っている。贅沢な嗜好品。贅沢に満ちた本屋さん。最高で、幸せだ。
積読本をしてしまっているぐらいだから、本を読む時間はなかなか取れていない。だけどそれでも、本に囲まれているだけで、どうしてこうも満たされている気持ちになるんだろう。不思議。本の森にいると、私はいつでも満たされた気持ちになる。
本は、贅沢な栄養だと思う。私を明日まで生かしてくれることはできないけどでも。
明日の私をちょっとだけ前向きにしてくれる。明日の私をちょっとだけ生きやすくもしてくれる。明日の私にちょっとだけ新しい知識をくれたりする。
世界の見方がちょっとだけ変わった私が、明日を生きてくれる。
もしかしたら、その本を読んだことで誰かと新しい話ができるかもしれないし、そこからまた何かの縁が結ばれるかもしれない。そういう無限の「かもしれない」という可能性を贅沢に含んだ栄養素。
こんな話をしているとうずうずしてくる。早く本屋さんに行ってまた本を買ってしまいたくなるのだ。
”終わりよければすべてよし” になれましたか?もし、そうだったら嬉しいなあ。あなたの1日を彩れたサポートは、私の1日を鮮やかにできるよう、大好きな本に使わせていただければと思います。