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『LemØn』

嵐のなかで、私たちの想像を遥かに超越した圧倒的な力と混沌に興奮をおぼえるのは、すべてを破壊したい欲望が己の奥底から沸き上がる感覚に似ている。

私がこれまでに築いてきた過去は、少なくとも自分にとって、故郷や拠り所とはなり得ない。それは、自らを固く束縛し闇へと引きずり下ろす魔物である。
破壊に際して後悔や絶望はなく、新たな創造への微かな希望だけがあるように思える。


「最近忙しい?」
1日におよそ60件届く通知のひとつ。Mからだ。

今週は2時間44分。毎週スクリーンタイムが記録されている。毎日どれだけの時間をiPhoneの美しく単調で均一な画面を眺めて過ごしたのか。
ときに、自分だけが偽の世界にいて、現実の宇宙は別の場所で動いているのか、自分だけが現実に取り残され、世界は虚構として存在するのか、そんな錯覚に陥る。

1日の通知回数は120件、LINEに限ると60件ほどだ。
この60には、喜びや哀しみ、笑い、怒り、嫉妬…様々な感情が混じり、濁流となって小さな画面に押し寄せる。あるいは、そういった人間的なものとは切り離され、無機質なテキストとして、平らなディスプレイの上を通り過ぎる。

恋人である彼女からのメッセージは、自分にとって大切なものであるべきだろう。

「最近忙しい?」は「連絡がほしい」ということ。

昨日は文学部のEと食事に出かけた。
最近、髪をベージュに染め、シャンプーも自分の好みの匂いに変わった。
顔も知らない彼女に「5人目の愛人"E"」と名付けて私を揶揄ったやつがいるが、響きは悪くないような気がした。酔っていたのだろう。

Eは何か悩んでいるようだったので、自分から相談に乗ると声をかけた。
それでも私は話を聞くだけだが、安堵からこぼれる彼女の控えめな笑顔は、私に存在意義を与えてくれるような感覚がある。
この快感は、彼女と私との共鳴がもたらすものだろうか、私の脆さや青さに由来するものだろうか。

今回は、途中から彼女の恋愛論に関する講義を聴講することになった。
相手の恋心に鈍感な男は罪だ、その気がないのに思わせぶりな態度をとる男は罪だ、目の前の人の小さな変化や記念日を大切にしない男は罪だ。残念ながら、世のすべての男は弾劾されなければならないようである。
"男"と"女"に限らないのではとも思ったが、少し前からあくびを噛み殺していたので、"思う"だけで満足することにした。

私とMとの関係について、彼女へ話したことはない。
彼女が誰とどのような関係を持っているかも、私は知らない。

「『会えなくても大丈夫。』 それって優しさなんだよね?」
MからのLINEはロック画面の片隅に留まる時間が日ごとに長くなる。


この手紙が一刻も早く読まれることを願った。
同時に、誰の目にも触れることなく終わることを願った。

たったの1枚。Mに向けたものだ。

手書きの文字なので、チャットに比べれば読み手はいくらか体温を感じるだろう。それでも、できる限り感情を込めず機械的に書くよう心がけた。

きっと誰でもよかったのだと思う。
おそらく僕は君のことが好きじゃない。
僕を好いてくれる君を気に入ったに過ぎない。
恋でも愛でもない。ほんの出来心だったと思う。
君がもし少しでも本気だったなら申し訳ない。
さようなら。どうかしあわせで。

これでお別れなのだから、もう少し穏やかな方法を選ぶべきだったかもしれない。
最後くらい正直に、なんて考えは誰の心をも温めやしない。

だが事実、私の中に恋愛の感情が生まれることはなかったのだ。
悲しみは二つに喜びは一つに。そんな関係に憧れたこともあった。これ以上、自分自身のエゴの為に他人の愛や希望を踏みにじるべきではない。

彼女の前では、愛情表現を大切にしてきたつもりだ。それで彼女は十分喜んでいるようにも感じた。しかし結局、それは形式的なものにすぎなかった。
あるいは逃げだったのかもしれない。この頼りない両腕で彼女の華奢な肩を包んでしまえば、あのどこまでも透き通った瞳で見つめられることはない。

あの瞳が、どれだけ自分を苦しめたか。無垢な彼女は、私の穢れを白日のもとに晒す。それはあまりにも自然で、あまりにも残酷なものだった。

彼女の目に映る、惨めで醜い自分の姿を一度でも愛することができたのなら。
くだらない期待を膨らませるかのような、眩しい太陽と澄んだ青空の下、激しい怒りと憎悪で吐き気がした。

笑顔の頬を涙が伝ったのは、生まれてはじめてのことかもしれない。

----- inspired by 『Vinyl』King Gnu


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