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9年付き合った彼女にフラれた。

20代のほとんどを共にした彼女だった。
いわゆるフリーで仕事をしていかなければならない職種である僕たちは、大変なこと、やるべきこと、わからないこと、わかること色々を共にしてきた。
力になれることは基本的になんでもしたいと思っている僕は、自信をもって”惜しみなく”言葉にし、行動にしてきたつもりだ。

しかし、30代になって自分たちそれぞれのやり方が確立されてくると、もっと広々と色々な事を試したくなるものだろう。
いや、何かを変えたいと思った時、そうしなければいけないだろう。
きっとそんな自然な流れで、別れを切り出された。
そういう時は来る可能性があると思っていたし、もしその時が来たら、大手を振って「そうしよう」と言える心づもりでいた。

しかし、実際に9年と言う時間は思っていたより重い。
力になることを何でもするという態度は、結局は相手を縛ることだったのだろうかと自責の念に何度も押しつぶされそうになった。
【結婚】という目標、【養う】という目標を仕事のモチベーションにしていた僕は、仕事をやる理由さえ失ったようで自分の存在価値が見えなくなった。

10代の頃に本気で死にたいと思ったことがある。
自分の無力さを痛感し、本当に何もしないで生きていくためには死ぬしかないという結論に達したからだった。
しかし、実際に「行動する」のはいろんなことを考えるよりはるかに難しいこともわかった。
しかも、自ら命を絶つというのは痛いし、つらいし、こわいしで、たぶん色々な行動の中で最も勇気のいる事のうちの1つだ。
それ以来、どんなにつらいことがあっても死にたいとは思わない。その選択肢を選べる強さがあるくらいなら落ち込む必要もないし、僕はそんなに強くないと知っているからだ。

だから、僕は仕事をする理由がなくなって、自分の価値が見えなくなっても、どうにかこうにか生きていくしかない。
そこで、自分は何をしたいのか、どんなことをするべきなのかを考えなおしたくて、ある音楽喫茶へ赴いた。

そこは古くから伝わる素晴らしい空間で、立派なスピーカーからちょっとマニアックな人じゃないと知らない「名演奏」が立て続けに流れていた。
ココアを注文した僕はしばらくその名演を聴いてからノートを開いて、自分の事について思いを巡らせていた。
時間はいつの間にかたっていて、1時間くらいした時だろうか。
店主のおばあちゃんが、空になったココアのカップを引いて、注文もしていないのに突然珈琲をテーブルに置いた。
「珈琲、飲めるならどうぞ。」
なんでそんな事になったのかいまでもよくわからないが、実は注文する際にココアか珈琲かで迷っていたし、まだまだ長居させてもらうつもりでいたのでとても嬉しかった。

さらに1時間くらいしてから、今度は向こうの方に座っていた1人の外国人観光客が突然話しかけてきた。
「あなたがノートに向かって熱中している姿が印象的だったので、写真を撮らせてもらいました。よければ、あなたに送らせてください。」
そう言って見せてきたのは携帯ではなく立派なカメラで撮った写真で、自分で言うのも何だが喫茶の雰囲気のおかげでなかなか良い写真だった。
「ありがとう。ぜひ送ってください」といって連絡先を教え、なぜ写真を撮っているのか尋ねるとこう返ってきた。
「僕はフォトグラファーで、いろいろなところを旅しています。旅をしていると君のように内面を持っている人にたくさん出会う。それを撮るのが好きなんです。」
僕は驚いた。まさに、もがくような気持ちで自分の内面と向き合っている最中だったからだ。
同時に恥ずかしい気持ちにもなったが、自分の必死さが人の注目を引き付けたことに、それ以上の喜びを覚えた。
ここに今自分が存在しているという確かな実感を持てたからだ。
彼はメッセージでこう続けた。
「東京に来てよかった、僕は君の事を応援しているよ」

優しさであふれた珈琲を口にしながら耳に入る弦楽四重奏の音は、僕の心の奥深くまでしみ込んできた。
帰り際、おばあちゃんにお礼を伝えると、無言でなつかしい喫茶のマッチを手渡してくれた。
僕はまだこの先の事について、何かを得たわけでもないし、本質的には何も解決していない。
だけど、もし神様がいるとしたら、この日出会った人々たちを通して「もう少し頑張ってみたら」と応援してもらったことだけは確かだと思う。

僕も誰かに、そんな小さな勇気をあたえられるようになりたい。
少しだけ光が見えた気がする。




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