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知らんがな!を哲学する

みなさん、知らんがな問題ってご存知ですか?そんなの知らんがな!と言わないで、まぁ、しばらくお付き合いください。地味だけど、掘りおこしてみたら思いもよらないお宝の出てきそうな予感が…!まずは簡単に、その「論争」へと至る経緯をご説明いたしましょう。

なんとかする工作

先日、書店で見つけました。お父さんのための工作ガイドです。

実は、家に3歳の女の子がいます。なんとかしなければ…ってとき、あるんですよねぇ。大好きなお母さんが帰ってくるまで、まだ2時間ある。テレビもユーチューブも見飽きた。じいちゃん・ばあちゃんはもうヘトヘト。そんなとき、あるもので何か作って気を惹かなければならない。

書棚で手にしたとき、なにか虚を突かれたような感じがしました。うわー、工作かぁ!小学校以来だなぁ。でも、こういうのって、必要なんだよなぁ。早速購入して、いくつか作ってみました。

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今のところ一番のヒットは、トイレと歯みがきのポイントカードです。工作としては手軽な上、その効果が大きい!1回便座にすわるごとにワンポイント。1回歯みがきするごとにワンポイント。100均でみつけたペンギンのポイントステッカーを張ってあげます。それまではいやいやだった娘も、すすんでトイレ・歯みがきするようになりました。ありがとうございます。

デザインなんて知らない

著者の青木亮作さんってどんな人だろう… と思って、ネットで検索してみると、noteにたくさん記事がある。

『デザインなんて知らない』っていう自著の紹介記事を読んでみると、以下のラインに目が留まりました。

世の中的には十分かもしれないけれど、自分は不満がいっぱいある。つまりですね。世の中的にはクリップボードで充分かもしれないんですが 自分は不満がいっぱいあるぞ!と思ってしまったんです。アイドントノウする!世の中なんて知らんがな!僕たちは不満があんねん!だから新しいモノを作るぞ!これを僕たちは「アイドントノウする」と言っていまして、まさに僕たちアイドントノウの活動指針でもあります。

そうだよなぁ。世間的にはこれが便利ってことになっていても、個人的にはどうもしっくりこないってこと、あるよなぁ。そういうニッチなところに、デザイナーの潜在的な価値が眠っているんだなぁ、って思いました。

知らんがな論争のはじまり

でもなぁ… 知らんがな!→知らない→I don’t know! は、タテのものをヨコになおしただけの、日本語モードの直訳なんだけどなぁ。ほっておけばよかったのかもしれません。英語講師の血が騒いでしまいました。ごめんなさい。

というわけで、こんなコメントを寄せてみました。

いつも読ませてもらっています。青木さんの発想や実現力に感心します。でも、ひとつだけ言わせてください。「知らんがな」「知らねぇよ」は、I don't care!(アイドンケア)とか、Whatever!(ワッテバー)です。I don’t know.では、「それについては知らないので、教えてください」的なニュアンスになってしまいます。「知ったこっちゃねぇよ」とは、また別の表現です。「知らんがな!」って言われちゃいそうだけど…

後に、「知らんがな!」の英訳に関する人気のnote記事を見つけました。I don't care! や Whatever! の他にも、いろいろとあるようです。よろしければ、そちらもどうぞ。

すると、こんな返答をいただきました。

コメントありがとうございます!そうですね!まさに「知らないので、教えてください」という謙虚さや未熟さを忘れないようにいたいという気持ちで、強気ではなくちょっとアホっぽさとか無垢っぽさを意識してつけたプロジェクト名がアイドントノウでした。で、なんだか活動するうちに「知らんがな!」とか強気なことを言い始めちゃってるのは、これは、もう慢心ですね!!反省しなきゃです。ご指摘本当にありがとうございます。

その後、「知らんがなラジオ」でも、このテーマを取り上げていただきました。なるほど、なるほど。そういうことだったのか。質問コーナー:アイドントノウは知らんがな?聴いてみてください。

要するに、こういうことです。私たちは、いろいろとわかっているつもりでいて、決してすべてをわかりきってはいない。「これで完成」とか、「これ以上のモノはあり得ない」と決めてかかるのではなく、「まだわかっていないことはないか?」「それは何なのか?」問い続けるという意味を込めて、アイドントノウする、と表現したようです。当初は…

でも、次第に、そこにアツい気持ちが入るようになります。世間的にはこれが正解かもしれないけれど、自分には不満があるんだから不正解。だったら新しいものをつくってやる!っていう意味で、「知らんがな!」と表現するようになります。

アイドントノウしたからわかったこと

すごくおもしろい!だって、ことばのレベルでも、しっかりとアイドントノウしてるから。自分たちの活動指針を「アイドントノウする」って名付けたときは、「はたして名は体を表すのか」とか、「そう名のることの意味」を、しっかりとわかりきってはいなかった。でも、そう名のりながら活動するうちに、その名前からはみでる身体の反応に気づいた。これって、アイドントノウしたからわかったことですよね。自己言及的だけど。

だったら、しっかりとアイドントノウしきった方がいいのでは…

「アイドントノウする」というのは、われわれの用いている固有名詞なんです。私たちにとっては「アイドントノウ=知らんがな」なんです。

ってドアを閉ざしてしまったら、しっかりアイドントノウしていると言えないのではないか?「謙虚な気持ちで…」とか「未熟さを忘れずに」とか、そうした心がけも大切。でも、そこで納得してしまうのはもったいない。だって、せっかくアイドントノウしたおかげの発見なんだから。「これで完成」とか、「これ以上のモノはあり得ない」と決めてかかるのではなく、よりシックリとくる方向性を見つけるためのヒントにならないか…

とは言え、「アイドントノウする」は止めろとか、「アイドンケア」に変えろとか、そういうことではありません。「アイドントノウする」は走り出しているんだし、アイドントノウすることはとても大切です。(アイドントノウって言いにくいので、以下はアイドンノウでいきます。すみません…)

さて、ここからがやっと本題。私はこの件で、3つの発見をしました。何かのヒントになるかもしれない。

発見その1: いい「知らんがな!」と、悪い「知らんがな!」がある

既成概念とか固定観念に対して「知らんがな!」は、いい「知らんがな!」です。私もそこに共感しました。どこかの国の首相も、悪しき前例主義に「知らんがな!」して、規制改革するそうです。政権支持者ではありませんが、いいことではないでしょうか?

でも、人がどう言おうと「知らんがな!」世間がどうあろうと「知らんがな!」は、悪い「知らんがな!」です。例えば、マスクしないおじさん。それは「ドグマティズム(独断主義)」であり「独善的」「ひとりよがり」です。おそらく、知らんがなラジオの3人、治田さん、青木さん、角田さんは、そちらにひるがえっていないかを憂慮しているのでしょう。

でも、これは問題ありません。しっかりと明言すればいいのです。私たちの「知らんがな!」は、人がどう言おうと、世間がどうあろうと、俺がいいと思うデザインがいいデザインなんだ!っていう意味ではありません。普段、あたりまえと思っている常識とか、これはこうでなきゃならないっていう、こり固まった意識に対して「知らんがな!」なんです!

発見その2: アイドンノウはアイドンケアにひるがえる可能性を秘めている

I don’t know. と I don’t care. は、棲み分けています。「知らない=ある知識・情報を得ていない」と、「知らんがな=私には関係ない」は、まったく別の概念です。おそらく、その他の言語についても、おおかたそうではないでしょうか?(正直、わかりません。わかる方は教えてください)

だから、たぶんこの議論は、英語国民はもちろん、外国人にはわかりにくいし、伝わらないかもしれない。(ただ、Who knows? 誰が知ってるんだよ?=誰も知らねーよ!=知らんがな!という英語表現もあるので、もしかしたら、棲み分けていても「お隣さん」くらいなのかもしれない)

「知らんがな!」のニュアンスもそう。私はイギリスにいたので、イギリス人を想定して言うのですが、知らんがな!をさそうボケはあっても、知らんがな!とツッコミません。なんか自分に関係ないこと言っているな、と思った後に、ジワジワ笑いが生まれるだけです。その意味でも「知らんがな!」は、すごく日本人的だし、関西人的です。

無知→無関心→無関係の連想は、われわれにとってはあたりまえでも、世界的にはそうじゃないかもしれない。だとすると、アイドンノウがアイドンケアにひるがえるのは日本人的なのかなぁ。

でも、いい「知らんがな!」と、悪い「知らんがな!」があるんでしょ?だったら、「過去や常識にしばられない」的な、いい「アイドンケア」にひるがえる、いい「アイドンノウ」があったり、「自分の知らないことは、自分に関係ない」的な、悪い「アイドンケア」にひるがえる、悪い「アイドンノウ」があるのかも…

おもしろいですね。そんなこと考えたこともなかった。もし、そうした発想に日本人らしさがあるとすれば、新たなデザイン追求の方向性を示してくれはしないでしょうか?

発見その3: アイドンノウする哲学がある

ここからは哲学なので、ちょっとむずかしいかもしれません。なるべく平易な表現を心掛けます。もう少しだけ、お付き合いください。

アイドンノウすると聞いて、私は「fallibilism(可謬論)」 を思い出しました。むずかしい名前だけど、結局は「私たちは認識を間違えるかもしれない主義」です。どんな考えも絶対的な真実として受け入れることはできない。知識に完成はない。これ以上の真実はあり得ない、と決めてかかってはならない。どうですか?似ていませんか?

でも研究者って、意外とアイドンノウしない生き物なんです。

まずは「Positivist(実証主義者)」と呼ばれる研究者たち。真実=観察可能なこと、あるいは実際に起こったこと、と思っています。つまり、観察しにくかったり、起こりそうだけどまだ起こっていないことには無関心=無関係。数式や図表で表現できないことは無関心=無関係。ハッキリとわかりにくいことに、悪い意味でアイドンケアします。経済学部に多く生息します。

それから、「Post-structuralist(ポスト構造主義者)」と呼ばれる研究者たち。わかることが何かを真実にするんだから、唯一の「the truth(真実)」なんてありえない、って思っています。例えば「地球温暖化」は発見されたからあるんだし、「湾岸戦争」はそう名付けられたからあったと思われる。冥王星は惑星だった時代もあれば、準惑星の時代もある。わかったからそれらがあるわけで、わからなかったらそれらは無いに等しい。もし、私たちがわかることから独立して何かがあるとしたら、そんなものに意味はない。私たちがわかることの外側に、悪い意味でアイドンケアします。この手の研究者は、文学部とか社会学部に結構います。

これらのアイドンケアに対して、アイドンノウする哲学があります。「Critical Realism(批判的実在論)」です。確かに真実は、私たちの認識に依存しているけれども、わかることが何かを真実にするのではない。例えば「地球温暖化」は発見される前からあったはずだし、「湾岸戦争」はそう名付けられなくてもあったはず。そうでなければ、私たちは認識を間違えることすらできなくなる。名付けて間違えて、名付けて間違えてを繰り返しながら、徐々に近づいていける知識こそが真実…

今回、青木さんの記事や、知らんがなラジオを聴いてみて、意外とクリティカル・リアリストは、畑違いのデザイン界にいるのかもしれない、と思ってうれしくなりました。私にとっての大発見です。

以上、長々とお付き合いさせてしまいました。ことば使いで言いがかりをつけてからんでくる、たちの悪いヨッパライとでも思われはしないか?もしそうなら謝ります。すみませんでした。鬼の首でも取ったように、わかったようなことをグダグダと書きつらねましたが、実は私も、この記事にどんな意味があるのかわかりません。ただの大間違いかもしれない。

「デザインなんて知らない」のnoteの記事にいただいた沢山の反響のうち「これはデザインに限った話じゃなくて仕事とはという話」「デザイナーじゃない人に読んでもらいたい」という声があったり…

というラインに目が留まって…

そう!そう!その通りです!アイドンノウする哲学もありますよ。

って身体が反応した。そのよろこびを素直にお伝えしたかっただけなんです。アイドンノウするって、そういうことなのかな…


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