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興津詣

 東海道には五十三の宿場があって、興津は品川から数えて十七番目の宿である。現在はその由緒ある土地も静岡市清水区と呼ばれて、かろうじてJRの駅に興津の名前を残しているけれども、新幹線が停まる訳でも、高速道路に出入口がある訳でもなく、県都静岡の郊外に位置する穏やかな海辺の街が、今の興津である。ローカル線しか停まらない興津の駅から一キロほど、東海道を西へ向かって歩いたところに一つの寺が建っていて、「清見寺」という名のその天台宗の寺は、若かりし頃の家康が今川家の人質に取られて預けられた寺であり、その頃の住職は太原雪斎、今川義元の軍師として知られた当代一流の賢人である。今でも家康が手習をしたという部屋の残る寺の敷地を鉄道が分断する有様は、ちょうど鎌倉の円覚寺にも似て、東海道線の開通によって宿場は瞬く間に寂れ、代わりに温暖な気候と白砂青松の景観を愛した政治家たちが別荘を建て始めたことで、興津は近代史に一つの役割を残すことが出来た。

 その昔、元老と呼ばれるヒトたちがいた。古代ローマの元老院、あの元老であり、一国の政治を左右するだけの力を持った練達の政治家のことを指す言葉で、ただ我が国における元老は、明治以来、陛下が重大な決断、それは開戦であったり、組閣の大命であったり、そうした国運を決定する枢要な事柄について意見を求められる者、言わば諮問を許される重臣の中の重臣のことを元老と呼んだ。常に側近くに仕える侍従や内大臣とも異なり、重要な政策を決める時にだけ声が掛かる者、特段、元老になる為の手続きが決められている訳でもなく、時代によって変動はあるものの、概ね五名から六名の限られた大物政治家が元老の役を担った。

 その、最後の元老が、西園寺公望である。公家の出身で清華家の格式というから、五摂家に次ぐ上流に位置し、公望自身は倒幕の功、また若くしてフランスへ留学し、国際会議を主導する程の手腕を買われて要職を歴任、新しい華族制度においては最高位の公爵を与えられた大立者である。次の首相を選ぶに当たっては西園寺を呼べ、そう陛下が頼った最後の元老、西園寺公望が好んだ静養の地が、興津だった。東京にあっては実弟の、住友財閥の駿河台本邸に起居し、夏は御殿場の別荘に避暑した西園寺が、年の過半を過ごしたのが興津に建てた「坐漁荘」で、「ざぎょそう」と読ませるその屋敷は、国を動かす元老の邸宅としては驚くほど小さく質素なもので、かつては海を望んだ街道沿いの木造二階建て、広大な庭園がある訳でもなく、西園寺と僅かな使用人が住むだけの必要十分な家である。

 その坐漁荘を訪れる為に、東京から新幹線に乗って静岡まで来た訳で、ただ、今、興津に建つ坐漁荘は、当時の坐漁荘ではない。西園寺が愛した坐漁荘は、既に昭和の中頃、半世紀程前に犬山の明治村へ移されて、興津の坐漁荘は二十年前に再現されたものである。だから、犬山の坐漁荘が「坐漁荘」で、興津の坐漁荘は「興津坐漁荘」と呼び分けられる、ややこしい事になっている。数年前に明治村の坐漁荘を訪ねた時、とても百年を閲した木造建築とは思えないほどの美しさに心打たれたことを覚えている。今、その坐漁荘が建っていた場所に建つ興津坐漁荘は、明治村の坐漁荘と寸分違わず巧妙に再現されている。保全の必要から移築されたことは理解出来るものの、文化財は、その建てられた場所、生まれた場所にあってこそ活きるもので、元々の坐漁荘が、興津の地から引き剥がされて、何のゆかりも無い犬山に移築されたことは、結果的に元々の坐漁荘の価値を減じ、また興津の価値をも減じたことになるのだから、二つの坐漁荘を訪れて、改めて土地と歴史の不可分性、文化財の在り様に想いを巡らせることになる。

 鉄道が開通して寂れつつあった興津の街は、西園寺の言葉を聴く為に、はるばる東京から列車で乗り付ける政財界の要人たちや、彼らを追う新聞記者たちで俄かに賑わいを見せ始め、そのことを「興津詣」と呼び、西園寺の権勢をよく表す言葉になっている。反対に西園寺が東京へ向かう時は、特急列車を興津に停めて、西園寺の便を図った。それほどに、戦前の元老、公爵の地位というものは重い存在であり、とりわけ西園寺のように、若くして戊辰の戦を総督や参謀の立場で率い、幕府を倒し、奥州を平定、新政府の屋台骨を築いた伝説的な「維新の元勲」でもあった訳だから、その送迎は周到を極めた。

 今、興津の駅に往時の面影は無い。日中は、三両から六両編成のローカル線が、一時間に三本発着するだけである。西園寺を乗せる為の長大な優等列車が停まることも無い。駅前とても、戦前のように黒塗りの公用車が広場で列を成すことも、記者たちが列車の到着を待ち構えてフラッシュを焚くこともなく、閑散としたタクシー乗場には、暇を持て余した運転手の姿が見えるばかりである。かつて、西園寺が愛した坐漁荘から望む海も、今はもう見ることが出来ない。駿河湾へせり出すように埋め立てられた清水港の拡張工事が、美しい清見潟を舗装された埠頭に変え、坐漁荘の正面には物流センターの倉庫が並び建ち、まるで海の所在を隠すように高速道路が視界を水平に遮っている。興津は、西園寺の知る興津ではなくなり、元老は政界の死語となって久しい。幸い、日本を破滅させた戦争が始まる前に薨去した彼の最後の言葉は、今を生きる我々に向けられた言葉のようでもある。

 「この国を何処へ持ってゆくのか」

 東海道沿いに坐漁荘から駅まで戻る途中に佇む割烹旅館「岡屋」で名物の甘鯛を頂きながら、興津の来し方に想いを馳せる。若旦那に聞けば、岡屋は宿場時代から興津に残る最後の宿だと言う。創業百五十年、それは一つの奇跡であり、街の財産で、また希望の灯でもある。生姜が添えられた松笠焼きの甘鯛を、きっと食通で鳴らした西園寺も愉しんだに違いない。

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