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誰もいないから美しい

 絵画が音を持つとしたら、農村の祝祭を描いたブリューゲルの一枚は陽気な旋律を奏でるであろうし、北斎の勇壮な海景からは激しい波濤と水しぶきの不協和音がこだまするであろう。小鳥のさえずり、樹々の葉音、あるいはヒトの叫び、絵画はそのキャンバスの中に閉じ込められた世界の音を、鑑賞する者、真摯に絵画と向き合い、想像力を働かせて耳を澄ませる者たちに伝えようとする。だが此処に、音のしない絵を、空間を描き続けた男がいて、彼の名をハンマースホイと言う。19世紀半ばにデンマークに生まれた彼は、自身の居宅を中心に、誰もいない部屋、仮にヒトを描くことがあっても後ろ姿であったり、うつむいていたり、やはり無言の体で、彼の作品から音が発せられることはない。それは神話でも、聖書の物語でも、王侯の肖像でもなく、著名な景勝地を描いたものでもない。あたかも、果物や髑髏を描いた静物画の延長のような形で、ただ自分の住む家の室内、窓や扉や壁を描き続けた。かろうじて陽は差しているから暗闇ではないけれど、明け方なのか、黄昏時なのか、影のある、灰色の部屋ばかり彼は描いた。

 ハンマースホイは、病んでいたのだろうか。記録では肉体的にも精神的にも大きな傷を負うことなく、妻や兄弟とは円満な関係を続けているし、むしろ妻イーダとは仲睦まじく、弟スヴェンからは時に作品の閃きを得ていたという。社会的にも王立美術院の会員であり、イタリアで開催された国際展覧会では最優秀に選ばれている。また若くして収集家の後援を得たから、決して豊かではなかったにせよ、経済的な困窮を経験した訳でもない。ではなぜ、ハンマースホイは誰もいない無機質な、空虚な世界を描き続けたのか。その秘密を探るには、彼が何を描いたか、ではなく、何を描かなかったか、を知ることが、鍵になるのではないだろうか。一つにはヒトであり、あるいは動物や植物、つまり「生命」を描くことがなかった。それは、なぜか。そこに「変化」があるからではないだろうか。産まれ、老い、やがて死にゆく存在である「生命」は「変化」するものであり、それは普遍(不変)の対極、安定を欠いた存在ということになる。そしてまた、仮にヒトを描くことがあっても、前に述べたように、後ろ姿であったり、うつむいていたり、表情を見せることが無い。なぜなら表情とは「変化」に他ならないからであり、時に笑い、時に怒り、時に悲しむヒトの存在は、不安定の象徴と言えるだろう。そしてその不安定、「変化」の源泉こそが、「意思」なのではないだろうか。

 要約すれば、「生命」は「意思」を宿すからこそ感情や欲望といった不安定性、それは醜さと言い換えても良い「変化」を見せる。植物の美しさは永遠でなく、やがて朽ち枯れて、動物もまた縄張りを守る為に吠え、闘い、やがて土となる。ヒトに限ることなく、「生命」は「変化」するものであり、それは頼りがいの無い醜さである。だから、彼は、ハンマースホイは「生命」を描かなかったのではないだろうか。絵画、音楽、あるいは文学、すなわち芸術は、今、美しいから芸術なのではなく、常に、美しいから価値を持つのであって、一過性の流行や、ごく少数の評価だけによって芸術になることはない。いつでも、誰でも、美しさを認め、価値を与えるから芸術なのである。だからこそ、芸術の定義に最も相容れない概念が「変化」であり、不安定性であって、移ろいやすい、当てにならない「意思」を宿した「生命」は、芸術が対象とするには相応しくない、描くべきではない有機物であって、その最たるものが、感情や感情の発露としての表情を持つヒトだった。

 ここに一枚の肖像画があったとする。その被写体は笑っているかも知れないし、怒っているかも知れない。泣いている場合もあるだろう。鑑賞者である我々は、その肖像画を紙と絵具で出来た一枚の油絵、水彩画でも良いが、一個の物体、作品という名前のモノとして虚心坦懐に眺めることが出来るだろうか。鑑賞者は、その一枚をヒトに見立てているのではないか。より限定的に言えば、その被写体と鑑賞者に、現実世界で何らかの関係性があったとするならば、鑑賞者はその作品を芸術として心穏やかに鑑賞することが出来るだろうか。好意や嫉妬、親近感や嫌悪感、つまり対人関係における感情そのものを、その一枚の絵との間に設けてしまうのではないだろうか。ハンマースホイは、そのバイアス、作品の芸術性を歪ませるフィルターの存在に気付いていたのではないだろうか。「意思」あるヒトを描けば、ヒトはその作品を「意思」によって見る。だから彼は、自らの作品に不確実性の象徴であるヒト、感情が付きまとう「生命」を描こうとしなかった。仮に描いても、背を向けさせて、うつむかせて、被写体の「意思」を隠した。それが、ハンマースホイが、愚直に無機質な、「意思」を持たない対象、すなわち、窓や扉や壁を描き続けた真相ではないだろうか。窓が突然怒り出すことは無く、扉が泣き出すことも無い。そして見る者にとっても、ある日は壁に好意を寄せ、ある日は喧嘩する、そんな感情、ヒト特有の不安定性が、無機質を対象とするならば、発現する余地も無い。「意思」を持たないが故に、ヒトのように裏切ることも、失望させることも無いから、無機質を描いている限り、作品の芸術性を純粋に伝えることが出来る。それこそが普遍(不変)であり、普遍(不変)は芸術の根源である。ハンマースホイは、芸術とは何か、芸術が芸術である理由を知っていた。その彼が、一つの言葉を残している。

 「誰もいないから美しい。」

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