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鬼滅の刃とフェミニズム ~これからの「フェミニズム」を考える白熱座談会(#これフェミ)Vol.03~ 全文掲載

*有料記事ですが、前半部分は無料でご覧いただくことができます。

今回のテーマ:ジェンダーとフェミニズムの視点から、「鬼滅の刃」を語り尽くす!

社会現象になっているマンガ『鬼滅の刃』。

老若男女、世代を超えた国民的ヒットとなっている本作ですが、作品中でのジェンダー表現、登場人物の言動の政治的正しさをめぐる問題については、度々SNSやメディアで議論の対象になってきました。

2021年12月5日、「鬼滅の刃」のTVアニメの続編として、吉原遊郭を舞台にした「遊郭編」の放映が開始されました。

今回の「これフェミ」(=これからの「フェミニズム」を考える白熱座談会)では、「鬼滅の刃とフェミニズム」というテーマで、主にジェンダーとフェミニズムの視点から、有識者の方を交えて、「鬼滅の刃」の魅力と影響力を徹底的に&和気あいあいと語り合います。

ゲストの紹介

司会・坂爪真吾(以下司会) 本日のゲストを紹介いたします。お一人目は、ツイッターのフォロワー数約7万人超のインフルエンサー、起業家・ライターのトイアンナさんです。よろしくお願いいたします。

トイアンナ よろしくお願いいたします。

司会 お二人目は、ジェンダーとマンガ研究の世界における「柱」というべき存在、明治大学教授・藤本由香里さんです。よろしくお願いいたします。

藤本由香里(以下藤本) こちらこそ、よろしくお願いいたします。

司会 三人目は、これフェミの生みの親にして、ネット論客の青識亜論さんです。よろしくお願いいたします。

青識亜論(以下青識) よろしくお願いいたします。

第一部:ジェンダーの視点から「鬼滅の刃」を考える

1.青識亜論さんの発表

青識 まず初めに、これまでにネット上で起こった「鬼滅の刃」をめぐる炎上について説明したいと思います。

第一期アニメが終わった後、2020年1月の段階で、ちょっとした炎上が起こりました。

主人公側の主要メンバーに、甘露寺蜜璃(かんろじ・みつり)というキャラクターがいます。

彼女は胸を強調した服装をしている色っぽい造形のキャラなのですが、そうした甘露寺の設定に対して、以下のようなツイートが話題になりました。

このツイートに対して、3000超のファボが入りました。ツイッター上のフェミニストの方は、結構な割合でファボボタンを押されたと思います。一方で、RT数はそれよりも多い5000超になり、反論もかなり多かったと感じています。

ツイッター上のフェミニストの方々は、普段から少年ジャンプの作品に登場するサービスシーン的なお色気場面を批判しているので、甘露寺蜜璃の服装や設定に対する反発については、分からないでもないところがあります。

ちなみに、甘露寺の入浴シーンは、「鬼滅の刃」第100話にして初の、そして作品全体を通して、唯一のお色気カットになっています。

作品の中では、その後も甘露寺の「普通の女の子」としての側面を強調する場面、ガーリーな弱さを強調する場面が続きます。めそめそめそめそ・・・と最近のマンガではなかなか見ないような表現も含めて、わざとらしいくらい、彼女のガーリーな側面が強調される。

一方で、蛇柱の伊黒小芭内(いぐろ・おばない)という人物が出てくるのですが、伊黒は女性から虐待を受けて育った過去があり、女性嫌いという設定になっている。

そんな伊黒が、甘露寺の凹みやすい点、めそめそしやすい点、甘い物が好きな点、猫が好きな点といった、ガーリーな部分に惹かれる。

単行本に収録されている「大正こそこそ話」を読むと、作者の吾峠先生も、意図的にそのように描かれていることが分かります。女性らしい弱さがない他の女性隊士ではダメで、女の子らしい女の子である甘露寺が、伊黒の過去の傷をケアしたということを、非常に肯定的に描いている。

そのおかげで伊黒が一念発起をして、幾度となく甘露寺のピンチを救うようになる。こうした物語の流れは結構面白いと思うので、この流れをフェミニストとしてどう読むのかについて、後程お二方とディスカッションしてみたいです。

この他にも、「鬼滅」には、「弱さが転じて強みになる」という逆説があります。これがこの物語全体を貫く一本の軸なのでは、と感じています。

ヒロインの竈門禰豆子(かまど・ねずこ)について、『これじゃあ男もしんどくない?「鬼滅の刃」の男女観』というタイトルの記事で、山田道子さん(元サンデー毎日編集長)という方が、「鬼にならないように竹の口枷(くちかせ)をくわえているのは「女はしゃべるな」みたいに私には思える」と書いたことが論争になりました。

作品を読んだ方ならばお分かりの通り、禰豆子が受動的だというのはとんでもない。メチャクチャ積極的なファイターです。

禰豆子については、藤本先生がお好きなキャラクターに挙げておられたので、後でじっくり語って頂きたいのですが、私から申し上げたいのは、禰豆子の設定にも、この物語を貫く逆説が表れている、ということです。

鬼になることによって、爆発的な強さを発揮する禰豆子ですが、鬼のまま暴走してしまうと柱に殺されてしまう。パワフルなシーンが禰豆子の弱点でもある。強さが弱さに反転する、弱さと強さが表裏一体になっている、という逆説の構造がある。これは示唆的だと思います。

その他、ネットで話題になったトピックとしては、「鬼滅の刃」のキャラクター人気投票で、我妻善逸(あがつま・ぜんいつ)というキャラクターが二位になったことが挙げられます。女性票だけを見ると、得票率7割の圧倒的1位でした。

「鬼滅」を読まれた方ならばご存じだと思うのですが、善逸は、泣き虫で、怖がりで、身長も低くて、男性的な魅力の溢れるキャラクター造形では全くない。しかも女の子が大好きで、セクハラまがいの言動もしている。

セクハラ肯定的な描写がちょっとでもあったらものすごく批判するツイッター上のフェミニストの方々も、善逸のシーンについてはなぜか擁護的なところが興味深いです。この点についても、後半でお伺いできればと思います。

最後に、「鬼滅の刃」に関する一番大きな炎上は、アニメの遊郭編に関するものでした。

売買春が行われている世界を子ども向けのメディアで扱っていいのか、ということで炎上したのですが、炎上に積極的に参加した人は比較的少数でした。また遊郭編の内容が女性搾取ではない、ということは、ツイッター上のフェミニストの方々も言っていました。ここは後で詳しくディスカッションをしたいと思います。

残りの時間で作品語りをさせて頂きたいのですが、少年マンガのヒーローは、90年代末から00年代末までは、一言でいうと「悩めるヒーロー」だったと思います。主人公は最初から強い。

「るろうに剣心」などは、主人公の緋村剣心は、物語の最初から最強。しかし、その力でバッタバッタと敵をやっつけて行くのかというと、そうではない。

緋村剣心は「不殺(ころさず)」の誓いを立てていて、人を殺さない・殺せない。主人公は最初から最強のパワーを手に入れているが、絶対正義ではない。「デスノート」の主人公である夜神月(やがみ・らいと)もそうですよね。

「るろうに剣心」の敵キャラである志々雄真実(ししお・まこと)も、「弱肉強食がこの世の理(ことわり)だ」と主張する。敵側にも正義がある。

志々雄を殺せばそれでよいか、というと、それをやってしまうと志々雄の言う弱肉強食と同じになってしまう。そこで主人公は悩む。

その極端な表れが「セカイ系」ブームだったと思います。

セカイ系の作品では、世界の命運と主人公の精神世界が直結していて、個人が全能だったり、成功するまで何度でも時間を巻き戻すことができたり、ヒロインが最終兵器だったり(「最終兵器彼女」)、ヒロインの気分次第で世界が滅んだり(「涼宮ハルヒの憂鬱」)する中で、世界の命運と恋愛の間で主人公が揺れ動く作品に人気が集まる、という大きなムーブメントがあった。

「世界とヒロインのどちらをとるのか」と問われた主人公が、ヒロインを選んで世界が滅んだり。どこまでも個人主義的で、終末論的。未来も過去もなく、今しかない。

ゼロ年代では、こうした歴史性のない世界観で描かれた物語がリアルなものとして受け入れられた時代だったと思います。

では「鬼滅の刃」はどうか。非常に特徴的なのは、主人公の竈門炭治郎(かまど・たんじろう)が弱いこと。緋村剣心みたいに強くない。「殺さないでくれ」と第一話からジャンピング土下座を決めるジャンプの主人公って、いないでしょう。そして「生殺与奪の権を他人に握らせるな」と味方から殴られる。そんな主人公、炭治郎以外にいない。

弱くても、敵に対して雄々しく立ち向かって、「こいつは根性があるやつだ」と敵から認められる物語が多いじゃないですか。でも「鬼滅の刃」は違う。「痛い!」「すごく痛い!」と痛みの描写が繰り返される。

ジャンプの主人公って、「痛い」ってあんまり言わないじゃないですか。でも、炭治郎はすごく痛がり。そして、怪我をしたらちゃんと治療をする。欠損した部位は元には戻らない。セカイ系とは真逆です。

肉体的な脆弱さが執拗に描写される一方で、炭治郎は、これまでの悩めるヒーローと違って、迷わない。義務だから、鬼だから、殺す。けれども、決して敵対者を踏みつけにはしない。鬼が人間だった頃の想いに寄り添って、死者を丁重に扱う。

「鬼滅の刃」では、死者との対話や、受け継がれてきた伝統の重みが丁寧に語られています。「型」という技名に端的に表されているのですが、主人公たちが使っているのは、先祖代々受け継がれてきた技です。それを繰り返し使う。猛特訓の末に新技を編み出したり、主人公だけに許された最強の必殺技を覚える・・・という少年マンガでよくある設定ではない。

「鬼滅の刃」は、昔から受け継がれてきた型を研ぎ澄まし、継承して、思い出す物語です。唯一の新技は、善逸の使った雷の呼吸・漆の型「火雷神(ほのいかづちのかみ)」ですが、それも壱の型という基本を一生懸命愚直に繰り返した結果、やっと至ったもの。

個人は弱い。だけれども、死んでいった人々の残した思いや歴史、伝統の積み重ねが人を強くするんだ。「鬼滅の刃」は、そういう物語なんですよね。

大ヒットした映画・無限列車編のハイライトでは、上弦の参・猗窩座(あかざ)が、炎柱の煉獄杏寿郎(れんごく・きょうじゅろう)に対して、「お前も鬼にならないか?」と誘惑する場面があります。人間であることを捨てて、鬼になったら、弱さを克服できる、と。

しかし、煉獄はそれを断る。煉獄だけでなく、主人公の炭治郎も、鬼になる誘惑を何度も受ける。でも、拒否する。

弱さを肯定する。でも、「弱いままでいいんだよ」というメッセージの物語では決してない。弱さをありのままの事実として受け止めながら、強くなるように己を鍛える。心はどこまでも無限に強くなれる。こうしたメッセージがある。

心は無限に強くなれるけれど、肉体は有限なので、限界を超えて努力した上で、思いを決して絶やさずに、次の世代に受け継いでいく。その積み重ねで、最強の鬼を四百年の重みで倒す。

一人で最強になるのではなく、歯車の一つとして強くなっていく。そういう物語です。

私が示唆的だと思ったのは、「鬼滅の刃」で、炭治郎たちが最強の鬼である鬼舞辻無惨(きぶつじ・むざん)を倒したのが1915年ですが、そのたった4年後の1919年、マックス・ウェーバーという社会学者が、「職業としての政治」という講演の中で、「英雄とは何か」について、端的に言い表しています。

自分の守ろうとしている人間がどれほど愚かで、弱くて、どんな困難に直面しても、それでもなお、「私は義務を果たす」「この人たちを守る」と言い切ることができる人間が、はなはだ素朴な意味での英雄というにふさわしい。ウェーバーは、こういう言葉を残しています。

人は弱い。だけれども、戦う。偽りの強さに逃げない。矛盾に耐え続けることが本当の強さであり、英雄の資質である。

その弱さに耐えられなくなった人たちが、超人のような絶対的指導者を求めて、ファシズムや社会主義などの全体主義に至ったというのが、実は炭治郎たちが生きていた時代です。ウェーバーが最後まで警鐘を鳴らし続けたのは、まさにその部分だったと思います。

英雄に対するアンチテーゼとして出てくる鬼とは、どんな存在か。遊郭編で出てくる上弦の陸・妓夫太郎(ぎゅうたろう)は、自分の弱さや不幸を理由に、他者を不幸にしなければ気が済まない。

「モテる男性は暴力的で悪いやつらばかりだ」「上級国民が悪さをしているから、俺たちの生活が苦しいんだ」といったように、自分よりも幸福な人が許せない、という思想は、ネットでもよくありますよね。

「自分は弱者である男性(女性)だから、何をしてもいい」「強いやつらに復讐するんだ」と、都合よく弱者性を自分に引き付けて、「お前はワシがかわいそうだと思わんのか?」と他者を殴る。こうしたことは、ネットでもすごく良く見られる光景ですよね。

「呪術廻戦」も含めて、最近の少年マンガでは、「自分は弱者だから許される」と主張する悪役が出てきます。

弱者性が都合よく利用されている、と皆が心の中で思っているからこそ、そうした思いが時代精神として私たちの中にあるからこそ、こうした悪役の形が少年マンガの中でよく出てくるようになったのだと思います。

最後に、「鬼滅の刃」の物語は、死者を大事にしています。生きている人間と死者との対話や、先祖の記憶が出てくる。オカルトではなく、伝統や歴史とはそういうものである、と吾峠先生も言いたいのではないでしょうか。

人はいつか死ぬ。しかし、その思いは受け継がれていく。型や神楽の中に残っている。肉体には限界があるけれども、心や思いは死なない。

「鬼滅の刃」の中で、鬼の苦手な植物として「藤」が出てきます。藤は日本の固有種であり、平安時代では藤の色は喪服の色だったそうです。人間の命は死んでも思いは死なない、というメッセージが、藤の花に仮託されているのではないでしょうか。

私たちは、今を生きる個人こそが全てである、という独断に陥りがちですが、死者は伝統の中に息づいていて、私たちに色々な示唆を与えてくれる。「鬼滅の刃」は、こうした物の見方を、最後の最後まで大事に描いた作品だったと感じています。

そうしたメッセージが、コロナの影響などで死が身近になっている日本人の心を打って、国民的な大ヒットになったのでは、と考えています。

2.トイアンナさんの発表

トイアンナ よろしくお願いいたします。青識さんと藤本先生の熱烈なファンはいっぱいおられるだろうけれど、私の熱烈なファンはあまりいないだろうと思ったので(笑)、自己紹介のお時間を頂戴できればと思います。

私は元々フェミニスト的な活動をしておりましたし、フェミニストと名乗ってもいたライターです。

私を好きな人は、「鼻持ちならないけれども、エリート風を吹かせているところが好き」という人が多く、嫌いな人は「鼻持ちならない作風が嫌い」と、読者の評価が分かりやすく二極になっているライターです。

小さい頃からずっとアニメとマンガとゲーム、ゲームは美少女ゲームというジャンルのみになるのですが、それらにずっと触れて育ってきた人間です。

その中で、私のジェンダー観に影響を与えた作品についてお話をさせて頂くことで、自己紹介の代わりにしたいと思います。

最近の作品ですと、「とりかえ・ばや」ですね。さいとうちほ先生の作品で、男女を取り換えられて育てられた貴族がどのように育つのか、というジェンダー・クライシスを描いた物語です。原作を忠実に再現した上で、その問いかけを入れるところが大好きな作品です。

それから「少女革命ウテナ」。私はマンガよりアニメ派なのですが、「女性が王女様扱いをされて幸せになる社会って、本当に良い社会なの?」ということを問いかけた作品として、私と同世代で育った女性たちは、何万人単位で影響を受けた作品だと思います。

「王子様って、本当に人生に必要なの?」「王子様がいない人生で、私たちはどうやって生きていけばよいの?」という問いかけを初めて行った作品だと理解しています。

「レディーミツコ」は、大和和紀先生という大御所の作家です。今日のイベントに参加されているメインの年代層の方々はあまり知らないと思うのですが、「はいからさんが通る」が代表作です。これは聞いたことがある人が多いのではないでしょうか。

「レディーミツコ」は1巻ぽっきりなので、ぜひ読んでみてほしいのですが、実際に存在したヨーロッパの貴族に嫁いだ女性=光子さんが、いかに生きて、男女差別やアジア人差別に立ち向かいながら、当主として一家を切り盛りしていくという、非常に力強い、女性のエンパワメントになる作品です。

「JKハルは異世界で娼婦になった」、これはライトノベルのなろう系から派生したジャンル=いわゆる異世界転生もので、女子高生のハルが男女差別の非常に厳しい異世界に転生させられて、そこでは女性は娼婦になるくらいしかない、というところから始まる。

異世界転生モノは、主人公がチートで無双でドッカンバッカンじゃないの、という読者の期待を裏切るスタートで、ジェンダーの問題を男性読者が多い異世界もので扱いながら、きちんとマンガとしても楽しめるという異色の作品になっています。大ヒットした作品なので、ぜひ読んでみてください。

最後に、秋里和国先生の「それでも地球は回っている」。この作品は、トランスジェンダー(女装欲望)の人と、性的にマゾヒストの人と、マザコンの人がフラットに描かれていて、それが男性のヒーローで主人公を好きになる、という物語です。

アバンギャルドな問いかけをギャグに落とし込むことによってエンタメとして成立させた非常に面白い作品なので、マイナーですがお勧めしたいです。

ゲーム作品では、ガチガチの「葉鍵」系(「Leaf」「Key」などの「泣きゲー」と呼ばれるジャンル)の作品を結構やってきたり、ヒロインをボコボコにする作品も結構やってきていて、「euphoria」(18禁のパソコンゲームソフト)などもプレイしたりしています。

そっちはそっちで振り切って、かつ少女マンガも読むという、オタク・・・というとオタクの方々に申し訳ないので、ちゃんとしたオタクではないですけれども、BL以外は満遍なく読んでこれたかなと思います。

ここから「鬼滅の刃」の話に入っていきます。私は小学校からずっとジャンプの本誌を毎週読んでいるのですが、その中でも「鬼滅の刃」は本当に素晴らしい作品で、「ONE PIECE」を超えたと言われた時は、「その通りだな」「そりゃ超えるだろこれは」と、「ONE PIECE」の連載スタート時以来の興奮を感じたことを確かに覚えています。

ジャンプの本誌でのめり込んだと言いましたが、ぶっちゃけ、初期は「これは途中で打ち切られるのでは」と思って読んでいました。

先ほど青識さんもおしゃっていましたが、ジャンピング土下座から始まる極めて暗い作風、冒頭から家族が惨殺されるというジャンプにしてはブラッディ・ヘルすぎませんかという展開、それから復讐モノに見えてしまうストーリー。

復讐モノに見えてしまうと、ストーリーとして、「努力・友情・勝利」といったジャンプらしさが本当になくなってしまう。「努力・友情・勝利」の例外として「デスノート」のようなアプローチもあるとは思いますが、「鬼滅」の場合、連載開始当初は絵柄も拙く、そんなに綺麗な画ではなかった。

正直これは続かないんじゃないのかな・・・と思っていたところ、遊郭編でバチっとハマりまして、そこからバリバリ読むようになって、最後まで本誌で駆け抜けました。

最後の方では、ツイッターのトレンドに毎週「#鬼滅本誌」というハッシュタグが上がってくるので、ネタバレにならないよう、「ああああ~」「うううう~」という悲鳴だけをツイートしていた狂人になり果てました。

もうすぐアニメの遊郭編が始まります。皆様も楽しみにしていると思いますが、私もメチャクチャ楽しみです。美麗なアニメーションが魅力の一つである「鬼滅」の中でも、最も華美で優雅な場面がみられるところなので、待ち構えているオタクのポーズをとっています。

「鬼滅」の魅力は、現実における様々な苦痛や病を、キャラクターや設定にどんどん乗っけていくことで、それに抗う人間の姿を比喩的に見せていった、という点にあると思います。

例えば、遊郭編で出てくる鬼の堕姫(だき)ちゃんは、「梅」という名前が本名で、母親の病気の名前から付けられたとはっきり書かれている。梅毒ですよね。

終盤で出てくる上弦の壱・黒死牟(こくしぼう)もペスト(黒死病)の象徴だと言われています。

こうした様々な病気に対して、珠世さんたちがワクチンを作って、免疫を作っていく。「鬼滅」の物語自体が病気に抗う人間のモチーフだとよく言われていますし、私もそうだろうと思っています。敵を倒すために科学的アプローチを取るというのも、新しいですよね。

ネタバレが含まれるので、最後まで読んでいない人は本当にごめんね・・・という感じですが、ワクチンVS疾病のバトルとして、非常に面白かったです。

そして戦争という苦痛に対しても、非常にクリアに描かれていたと思います。こんなに登場人物の手足がバシバシ欠損するジャンプ作品は見たことがないですね。

例えば「幽☆遊☆白書」が流行った時に、「こんなに主要なキャラが死ぬのはおかしい」とか、「こんな残虐な表現が~」とPTAから喧々囂々言われたはずなのですが、それを踏まえてもなお、「鬼滅の刃ほどではなかったよ」と今なら言えると思います。

「鬼滅の刃」の後に始まった「呪術廻戦」も、四肢欠損をポリシーにしているのか、と思えるほどバッシバッシと手足が無くなっていくし、手足を失ったキャラはちゃんと戦線離脱をする。これは相当新しいと思います。死んだと思っていたら、ドラゴンボールで復活した、というようなことのない世界で、本当に戦争をしている。それこそ「はだしのゲン」以来というような衝撃的な作品でした。

次に、機能不全家族。これについては、藤本先生の資料でも語られると思います。

そして、今日のテーマであるジェンダーにようやく切り込んでいけるわけですが、「鬼滅の刃」のバトルは、力比べなんですよね。

「何とかの呼吸~」と技を出しているように思えますが、結局のところは力押しです。終盤で出てくる「赫刀(かくとう)」の発現条件=日輪刀を赤くするための条件は、握力(笑)。いやいやいや、女子だったら無理じゃん、と思いますが、鬼殺隊の中では、女性隊士がバランスよく配置されている。

これまでの少年マンガでは、戦隊もののピンクレンジャーのように、紅一点は珍しくなかった。「NARUTO -ナルト-」のチームにサクラが入っていることは、何も不思議ではなかった。

ただ、これだけバランスよく女性戦闘員が前線で戦いまくっている作品は、個人的には相当意外でした。偶然そうしたトレンドがこの時期に生まれたのかどうかはわかりませんが、「約束のネバーランド」「チェンソーマン」「呪術廻戦」には、女性戦闘員がどんどん入っている。その流れの中で、「鬼滅の刃」は先駆け的な存在だったと思います。

その対比として挙げられるのが、「ONE PIECE」のナミとロビン。どちらも確かにメイン戦闘員だし、海賊団の中では、女性はバランスよく配置されているので、紅一点ではない、というところはあるのですが、二人とも、海賊団に参加している理由は「知能があるから」なんですね。パワーでは勝てない。蹴ったり切ったりするのは、基本的に他の戦闘員。

ロビンだけは花を使って攻撃することもできるけれど、どちらかというと、知恵を使って闘う方に参戦しがち。また二人とも、「ピンチに晒されて、泣いて助けを求める」という女性がやらざるをえない役割をやっている。「ONE PIECE」が非常に素晴らしい先駆けでありつつも、その先へと踏み込んだのが「鬼滅の刃」だなと感じています。

「BLEACH」のルキアや井上織姫も戦闘員ですけれども、「さらわれて助けを求める」場面があるところは、「ONE PIECE」と似ている。

「HUNTER×HUNTER」にはビスケというメチャクチャ強い女性の師匠が出てきますけれども、これは例外的なキャラで、スッと出てきてサッと去る。女性の師匠がいる時点で珍しいですが。

唯一の例外は「ジョジョの奇妙な冒険」の第6部。最近では、ジャンプの作品でも女性の戦闘員がメインキャラクターとして登場しますが、女性が主人公で、監獄に入れられており、仲間も全員女というのは、1997年当時にしてはアバンギャルドな設定だったと思います。

これが成り立ったのは、ジョジョというシリーズ物の強さがあったから。ジョースターの家系だから、女でも継続して戦う、ということが成り立った。これが第一話で主人公が女だったら打ち切られただろうな、と思います。

この後もジャンプで女性主人公は出てくるのですが、基本的にはエッチでドタバタなお姉さんという役割だったり、ラブコメというジャンルでの主人公でした。

女性が戦闘員として戦う物語の先駆けとしては、バランスの良さで考えると、「鬼滅」が歴史的にも圧倒的だと思います。直後に始まった「約束のネバーランド」は女の子が主人公で、全員が頭脳戦。女性がバランスよく戦えるようになる。

そして、事情によって打ち切りになった「アクタージュact-age」も、そもそも女子高生が主人公の物語。よく男の子のファンがついたな、と思います。こうした作品が、ジャンプの幅広さを象徴してきたのだと思います。

「鬼滅の刃」の中でも、ジェンダー的な観点から個人的に好きなシーンを切り取って挙げさせて頂くと、甘露寺蜜璃が「女の子なのにこんな強くっていいのかなって また人間じゃないみたいに言われるんじゃないのかなって 怖くなって力を抑えていたけど もうやめるね」というところです。

元々甘露寺は、自分より強い殿方を探して結婚するために、女性らしい人生を完遂するために鬼殺隊に入っている女性です。そこから「自分らしくあっていいんだ」とギアチェンジをかけるシーンですね。

それから炭治郎が「強い者は弱い者を助け守る そして弱い者は強くなり また自分より弱い者を助け守る これが自然の摂理だ」と言い切っていますが、これは極めてリベラルな摂理じゃないかな、と読んでいて震えました。

炭治郎って、超リベラルなことと、超保守的なことを同時に言うんですよね。実は人としては訳が分からない。『俺は長男だから、耐えられた!』という人が、『強き者は弱き者を守り助ける』というジェンダーレスなことを言うのか、と。この矛盾が「鬼滅の刃」の面白さだなと感じています。

また遊郭編に関しては、子どもの見るテレビで遊郭のようなエロい場所を出すのはどういうこっちゃ、という批判もありまして、こうした課題については後半で語っていきたいと思います。

自己紹介のパートにおいては、議論の前提となる「フェミニズムってそもそも何なのか」という話を共有したいと思います。

皆さん、フェミニズムという言葉はよく見聞きしていると思いますが、「あなたの言葉でフェミニズムを定義してください」と言われると、途端に「ウッ」となるんじゃないでしょうか。

歴史上、フェミニズムには、第一波・第二波・第三波があって、第四波があるという人と、ないという人がいるのですが、ザックリ言うと、第一波フェミニズムは「参政権を女性にもよこせ」という運動です。

第二波フェミニズムでは、「女性らしさへの抵抗」「機会の平等」「賃金の平等」「人は女に生まれるのではなく、女になるのだ」という考え方が出てきます。

ここからフェミニズムはリベラル・フェミニズムやラディカル・フェミニズムなどに分派していって、それぞれ様々な議論や批判があったりしつつも、第三波フェミニズムでは、「男女を平等にしよう」「女にも人権をよこせ」から、「人種差別をなくそう」「生まれ育ちによる差別もなくしていこう」というように、枠が広がったんですね。

例えば、黒人の女性だと雇われない職場があるなど、差別は重なっている。これをインターセクショナリティと言います。こうしたことに加えて、出産・中絶の自己決定権など、もっと多重的で広い話をしていこう、というのが第三波フェミニズムの流れだと私は捉えているのですが、いかんせん藤本先生がこの領域についてはプロフェッショナルなので、怯えながらしゃべっていることについては、視聴者の皆さんも笑いながら見逃してほしいな~、と思っています。

自分たちのことを「ラディカル・フェミニスト」だと思っている人たちがいるとしましょう。本当にそうかどうかはいったん置いておいて。

彼女たちは、女性の露出は男性から強いられたものであり、セックスワーク=遊郭を描くなんてありえない、男性による搾取の図だ、「鬼滅の刃」はなんなんだ、という批判をしている方々です。

自分たちをフェミニストだと思っている人の中には、男性嫌いな人も混ざっています。「女性だけの街をつくりたい」ということを言ったりする。出世する権利は欲しいけれど、兵役は勘弁してくれ、ゴミ収集車の仕事はやりたくない、という女性優遇主義のグループもいる。

そうした主張に対して、「いい加減にしろよお前ら」と批判しているがアンチフェミニストです。男女平等を唱えている人にはあまり矛先が向かわずに、女性だけの街をつくりたいと唱えている人や、重労働から免除されたいけれども出世はしたい、という人を見て、「フェミニストはこれだから~」と攻撃したい人たちですね。

今回登壇するにあたって、アンチフェミニストの人に「鬼滅の刃をどう思いますか」とヒアリングをしてきたところ、「女は責任を取らない生き物だから、本物の女は前線で戦うわけがない」という面白コメントを頂きました。

最後に、リベラル・フェミニスト。合法的な形で社会に呼びかけることで、男女平等を実現したいと考えている人たちです。私自身も、フェミニストをやめたとは言っていますけれども、フェミニストを名乗る場合は、ここに入ると思います。

「ダイバーシティ(多様性)」「中絶する権利」「産まない権利」「経済的に自立する権利」を重視して、表現の自由についても、なんでもかんでも規制するべきではない、と考える。甘露寺がおっぱいを出していようがいまいが、そもそも大正時代という設定のフィクションなのだから、いちいち口を出すな、というグループです。

表現の自由をめぐる問題については、私はこのリベラル・フェミニストの立場です、ということを確認してから、後半のトピックに入っていきたいと思います。藤本先生と青識さんとお話することを楽しみにしています。よろしくお願いいたします。

3.藤本由香里さんの発表

藤本 藤本由香里です。よろしくお願いいたします。トイアンナさん、ありがとうございました。トイアンナさんのご説明の中で、ラディカル・フェミニストの部分がちょっと気にかかったので、補足いたします。

ネット上では「激しく文句をつける急進的な人」というイメージですが、元々はラディカル=根源的という意味なので、ほんとうは今ある性差の問題を根本的な構造から考え直そうとする人、という人がラディカル・フェミニストのはずなんです。

そもそもフェミニズムは一人一派なので、「●●を批判しない人はフェミニストではない」という考えは、フェミニズムの本流ではないと思います。なので、トイアンナさんがおっしゃっているような意味だと、どちらというと「教条主義的フェミニスト」が近いのかな、と私は考えました。

ただ、ネットでは「ラディカル・フェミニスト」はおっしゃったようなイメージで捉えられていますよね。

もう一つ言うと、どうもこの「一人一派」というのも、ネット上ではまったく違う意味にとられていて、攻撃の対象になっているようですが(注:じつはこのシンポのかなり後で知りました)、「フェミニズムは一人一派」という言葉の基本は、「フェミニズムは、今あるジェンダー秩序は改善されていくべきだ、という点では一致するが、そこにはさまざまな考え方があってよく、自分の基準や考え方を人に押し付けない」というのがもともとの原義だと思います。

私がこの言葉を初めて聞いたのは、1980年代に落合恵子さんからですが、その時に、フェミニズムというのはなんてリベラルな運動なんだ!と感激したのを覚えています。

そのように他人の自由を尊重する言葉であって、言い訳の言葉などではけっしてない。このようにネットでは、フェミニズムの用語が、もともとの意味とずれた、あるいはまったく逆の文脈で使われていることも多いようなので、注意が必要だと思います。

私は明治大学でマンガ文化論とジェンダーを教えています。元編集者で、上野千鶴子さんや小倉千加子さんの本を作っています。

上野さん・小倉さん・富岡多恵子さんの三人で「男流文学論」(筑摩書房・1992年)という本を作ったり、売春の社会史やレズビアンの歴史などの本も作っている人間です。

私が「鬼滅の刃」を読み始めたきっかけは、2年くらい前の早稲田大学での研究会の時、マンガ研究家の伊藤剛さんから、「藤本さん、『鬼滅の刃』読みましたか? 僕は炭治郎について語りたくて語りたくて仕方がないんです」と言われたんですね。

「アニメが始まってものすごい勢いで人気が伸びていて、11年間連続一位だった『ONE PIECE』を抜きそうなんです」と言われたんです。実際にその後抜いたんですけど。

マンガ研究をしている私としては、それは読まないといかんでしょう、と思って読み始めた。アニメも本当に素晴らしかったです。

「鬼滅の刃」を読んで、これって「ポーの一族」ではないか、というのが最初の印象でした。兄と妹の強い結びつきがあって、片方が吸血鬼。

「鬼滅の刃」では妹が鬼になりますが、「ポーの一族」の方は、兄のエドガーの方が吸血鬼なんですね。

エドガーが、一族の秘密を知ってしまった自分は仕方ないけれど、何も知らない妹のメリーベルには人間のまま生きていってほしい、と願うところから始まる。<血によって同族になるバンパネラ>という設定であるという点も似ている。

こじつけじゃん、と思う人もいるかもしれませんので、もう少し例を挙げますが、「鬼滅の刃」の第一話目の見開きの扉絵と「ポーの一族」一話目の見開き扉を見比べると、吾峠先生が「ポーの一族」へのオマージュとして描いているのがかなり明らかだと思います。

もう一つ共通点があって、禰豆子は2年間眠り続ける。人間を食べる代わりに、眠ることで体力を回復しているんじゃないのか、その間に身体が変化したのではないか、と言われていますよね。

「ポーの一族」も今、何十年かぶりで再連載が始まっていて、その中で、アランは眠り続けている。またエドガーも、吸血鬼に身体が変わる間は眠りに落ちるという設定になっている。眠っている間に、身体が変化する。ここも「ポーの一族」が踏まえられているんじゃないのかなと思いました。その場面の構図なんかも似ているんですよね。

少女マンガだと、漫画家のきたがわ翔さんが、矢沢あい「天使なんかじゃない」が禰豆子の絵のベースにある、ということを指摘されています。確かに、似ているんですね。高橋留美子先生の人魚シリーズにも似ていますが。

一方で、作者が「銀魂」や「ジョジョ」に非常に大きな影響を受けた、ということはよく知られている。つまり、「鬼滅の刃」という作品は、少年マンガと少女マンガが融合されたものであると私は考えています。

見かけは少年ジャンプ王道のバトルマンガである一方で、非常に少女マンガ的なモノローグが多い。

特に、鬼が倒された後に、過去を回想していくシーンは、ほとんど内面のモノローグなんですよね。基本的には少年マンガの描き方をしているんですけれども、内面の言葉が非常に多く、それが重要な要素を多く含んでいる。

それからもう一つ、「鬼滅の刃」では、相手を力で倒すことよりも、相手の心を救うことの方に重点があるんじゃないかと思うんです。

斉藤美奈子さんというフェミニストの方が、「紅一点論」(1998年・ビレッジセンター出版局)の中で、男の子のアニメと女の子のアニメを比較しています。

男の子の国での戦いは、力で相手を圧倒する。これが勝利だ。しかし、女の子の国での戦いは、相手の心を開かせる。これが勝利だ、というんですね。

「鬼滅の刃」はどうかというと、確かに力で圧倒するんですが、やっつけられた鬼が、その後で、自分が人間であったことを思い出すわけです。それで後悔したりするわけですよ。

炭治郎が鬼の手を握って「神様、どうかこの人が今度生まれてくるときは、鬼になんてなりませんように」と祈ると、鬼の身体が崩れていく。鬼がもう一回人間に戻って成仏する、という形になっている。これって、アニメ「セーラームーン」の勝ち方なんです。

こういうところからも、男の子の国の勝ち方と、女の子の国の勝ち方が統合されているのが「鬼滅の刃」ではないか、と思うわけです。

「鬼滅の刃」の世界では、鬼は元人間です。人間を鬼にした原因というのが、恨みや怨嗟、差別されているという意識だったりするわけです。

遊郭編の妓夫太郎などはその典型だと思います。非常に悲惨な目に遭ってきて、だからこそ鬼になった。ジョージ秋山の「アシュラ」にも非常に造形的に似ているなと思うわけですけど。

「鬼滅の刃」という作品は、「強い鬼と戦って勝つ」という物語ではなく「これ以上人を鬼にしないための物語」であり、そこに物語の核心があると私は思います。

私が「鬼滅の刃」を読み始めて、最初は「ポーの一族」だと思った。その次にグッとのめりこんだのは、那田蜘蛛山の章なんですね。

「鬼滅の刃」には、家族がすごくフィーチャーされて出てきます。特にこの章では、「僕たちは家族五人で幸せに暮らすんだ」「僕たちの絆は誰にも切れない」「僕たち家族の静かな暮らしを邪魔するな」という鬼が出てくる。

ところが、この鬼の家族の中では、お母さんがお父さんに暴力を振るわれている。「何が気に食わなかったの?」と尋ねると、「何に怒ったのかわからないのが悪いんだよ」「また母さんが父さんに怒られてる くふっ」と子どもたちが言うんです。地獄ですよね。

これって、DVじゃん。このリアリティは何? 描いているのは女の人じゃないのかな・・・? と、この時に思い始めました。本当に女の人が描いていて、11年間続いた『ONE PIECE』連続1位の記録を破ったとなると、これはすごいことだぞ、と。後で実際に、作者は女性だったという報道がなされるわけですが。

「鬼滅の刃」では、家族の絆が繰り返し描かれています。炭治郎と禰豆子もそうですし、炭治郎の家族の思い出も何度も出てくるし、不死川兄弟の絆や、遊郭編での堕姫と妓夫太郎の兄妹の絆もそう。鬼殺隊の隊員のほとんどが家族を鬼に殺されていて、その家族の思い出から力をもらう場面もある。けれどもその一方で、家族の暴力もはっきりと描かれている。

那田蜘蛛山の鬼は偽の家族なのですが、血のつながった本当の家族であっても、煉獄さんの父、宇髄天元の家族、あるいは栗花落カナヲの家族などを通して、家族の暴力、家族の持つ両義性がはっきりと描かれています。

つまり、「鬼滅の刃」という作品は、表面に見える通りのものではない。しばしば同時に表面とは逆の要素が忍び込まされていて、二重構造になっている。

例えば、ジェンダー的な問題として、「男なら」問題というのがあります。錆兎が炭治郎を鍛える時に、「男がわめくな。見苦しい」「どんな苦しみにも黙って耐えろ。お前が男に生まれたなら」という。これが、青識さんが紹介された元サンデー毎日編集長の記事で、「これじゃあ、男もしんどくない?」と批判されている。

確かに、ここで錆兎は「男なら」と繰り返しています。でも、その鍛錬の結果、炭治郎がようやく錆兎に一太刀浴びせることができた。その次の瞬間に、錆兎の面が割れる。

ここで、炭治郎の「俺が勝った時、錆兎は笑った。泣きそうな、嬉しそうな、安心したような笑顔だった」というセリフが出てくる。

この場面について、障碍者ヘルパーもなさっていた批評家の杉田俊介さんという方が、「(錆兎の『男なら』のセリフは)どう考えても、あの素晴らしい「泣きそうな嬉しそうな安心したような笑顔」のコマ(それはとうてい「男らしい男」の顔ではありません)の前フリであるのに、しばしば台詞だけ切り取って叩かれることがあるのは、やはり解せない」とおっしゃっている。

私も同感です。あれは仮面なんですよ。仮面が取れると、こういう顔が出てくる。

この作品では、一見保守的に思える言葉の裏に、意味のずらしがなされている。逆に、煉獄さんの父親や、宇髄天元の父親など、支配と権力に基づく関係性や、いわゆる有害な男らしさ=「これくらいはできて当然」「人よりも優れてあれ」というメッセージは、この物語の中では「男らしい」とは呼ばれないんですよ。『鬼滅の刃』は、じつは男らしさを問い直している。

もう一つ、遊郭について。遊郭は、表面は華やかです。でも、「鬼滅の刃」の中では、裏側の悲惨さ=女は商品で、モノと同じように売ったり買ったり壊されたりしている、ということがはっきりと言葉にして描かれている。この街で女は、持ち主が好きにしていい「商品」。

また、最下層の遊女や、病気になってお客がつかなくなった遊女が送られる場所=切見世(きりみせ)も描かれている。役に立たなくなった女を捨てる場所があった、ということも描かれているんです。

そして堕姫の本名の「梅」は、死んだ母親の病名から来ている。梅毒です。ここら辺は、子どもにはすぐには分からないかもしれませんが、でも、後で読み直した時に、「ああ、そういうことか」とサブリミナルに効いてくる。そういう表現だと思います。

もう一つの大きな特徴として、「鬼滅の刃」は王道のバトルマンガに見えながら、強さのインフレがない。これは何人かの方が指摘していると思います。勝つための戦いではなく、負けないための戦いをしている。

肉体的な感覚が非常にリアルに描かれていて、激しく動き続けたら、人は体力の限界が来る。刀が握れなくなる。手からすっぽ抜けるようになる。そういうところが描かれている。大きな戦いでダメージを負ったあとは、機能回復にも時間がかかり、また戦えるようになるまでには、機能訓練も必要になる。そうした場面も詳細に描かれている。

「鬼滅の刃」を注意深く読むと、特定の誰かがすごく強かったり、その強い力で相手をやっつけるといった快感は、ほぼ描かれない。

たとえば、こういうナレーションがあります。「その度に誰かがギリギリまで踏ん張り、間(ま)を繋ぎ、機会(チャンス)を作り、凌(しの)いだ」。そうやって闘っているんです。無限城での猗窩座との戦いでも、炭治郎が水柱の冨岡義勇と代わる代わる技を出し、それによって一瞬の休息をとりつつ、致命傷になるような一撃からは、義勇が炭治郎をかばう。

そういう戦い方。勝つための戦いではなく、負けないための戦いを、集団でつなぎながらやっている。白土三平「忍者武芸帳」か、という感じです。

無限列車編で、煉獄さんは猗窩座に負けたかもしれない。でも、煉獄さんは「誰も死なせなかった!!」お前なんかより煉獄さんの方がずっと凄いんだ!!と炭治郎は言う。この炭次郎のセリフも、「負けないための戦い」というテーマが強く出ている部分だと思います。

最終戦になると、みんなものすごい傷を負って、手足は戻らないし、目も一度見えなくなったら見えるようにはならない。

クライマックスなので、普通だったらカッコよくなるはずなんですよ。でも、カッコいい戦いなんかない! 勝つことがカッコいいわけではない! ということが描かれている。泥臭く、ぐちゃぐちゃになって、それでも負けないために闘い続ける。……

このように、王道のバトルマンガだけれども、強さのインフレが起きないんです。これまでずっと、「強いヤツと戦って勝つ」というのが少年マンガの快感だったんですよ。

なのに、その快感が前面に出てこない。あくまでも、負けないための戦い。鮮やかな勝利は描かない。「勝っても、戦いには必ずひどい犠牲が伴う」ということをはっきり描く。

鬼と闘うために、みんなすごく訓練しているんだけれども、戦わずにすむのであれば、それでいいと思っている。だから、無残がやられた後は、鬼殺隊は解散になる。ずっと残るわけではない。戦う必要がなければ、戦わない。

この作品の中では、残酷で無慈悲な世の中で、人を食い物にする鬼にならずに堪えること、というのが一番大きな価値観なんですね。

そう考えると、禰豆子の口枷は、「しゃべるな」とかそういう話ではなくて、禰豆子が一番強い抑制をしているんですよ。こうあらねばならない、という抑制をしている。

煉獄さんも「お前も鬼にならないか?」という誘いを断るけど、それを強い意志を持って断っている。禰豆子もそれと同列なんです。

禰豆子は、言ってみれば麻薬中毒のような状態にあるのだけれども、それを意志の力で抑えている。最後の最後まで読むと、禰豆子が炭治郎を抑える場面が出てくる。そこが超重要。「抑制」が、いかにこの物語について大事なのかを痛感すると思います。

まとめると、「鬼滅の刃」という作品は、超ハイブリッドな作品だと思います。表層とは相反するものが交じり合っている。

少年マンガと少女マンガ、家族の強い絆と暴力、バトルマンガなのに強さのインフレを求めない。言葉としては「男なら」「長男だから」という伝統的な性役割が出てくるのだけれども、その裏には、男女の置かれている立場の問い直しがある。

ものすごく残酷な描写も多い。でも、ユーモラスな場面がこれほど多い作品もない。ものすごくシリアスなテーマを扱っているのに、半分以上のページでユーモラスな場面が出てきます。そのページの方がはるかに多い。子供の人気を考える時に、このことも重要だろうと思います。

以上で、私の発表を終わりにしたいと思います。ご清聴、ありがとうございました。

第二部:座談会「鬼滅の刃」とフェミニズム

1.『鬼滅の刃』における「男らしさ」を考える

トイアンナ 藤本先生がおっしゃっていた通り、「鬼滅の刃」って、様々な主義主張を織り込んでくるところが非常に面白い作品だと思います。

男らしさという面でも、炭治郎は男らしさを背負っていたり、背負っていなかったりする。両方の役割を背負わされている。

強くなって禰豆子という妹を守る、という長男が背負わされそうな役割も自分から背負っている一方で、「長男だから我慢できた」という発言をしながらも、メチャクチャ泣く。鬼の気持ちを分かりたい、受け入れたい、その上で相手の幸せを願いたい、とも言う。

「美少女戦士セーラームーン」でも、ラスボスを倒す時、相手の気持ちをなぜかわかろうとする。「セーラースターズ」アニメ版の最終回では、最後の敵であるギャラクシアを倒した時に、相手の気持ちを受け止めてあげて、悲しみをまるごとわかることによって倒す、という手法を取っている。

こうした試み自体は「幽☆遊☆白書」でもあったと感じていて、例えば仙水という敵と主人公の浦飯幽助が戦った時は、仙水のバックグラウンドがかなり明らかになっていた。

幽助は、それを分かろうとするんだけれども、結局ボコボコにして勝つ。理解を途中でやめている。これが「理解して倒す」というところまで行ったのが、「鬼滅の刃」。ここは非常に面白いポイントだなと思います。

「鬼滅の刃」は差別的な作品である、という見方も一方的だと思いますが、逆にジェンダーフリーな作品である、大正時代という設定なのにそれをうまくやり遂げた、とも全然思わない。そのハイブリッド感が面白い。

大正時代って、先ほど例に出した「はいからさんが通る」のように、女性が教育を受けることや就職をすることが可能になってきて、女性の人権意識が花開いた時期とされています。

一方で、私の曾祖母は大正時代の人間なのですが、その時の学校のアルバムを引っ張り出してみると、女性の教育=裁縫の訓練だったり、お嫁さんになるための訓練だった。教育は受けているけれども、結局それやんけ、と。あとは天皇陛下が「最近は個人主義がはびこってけしからん」という勅文を出したりしている。

大正時代そのものが、個人主義やジェンダー平等などのリベラルな価値観 VS保守的な価値観、男尊女卑的な価値観との戦いがあって、炭治郎は端的にそうした時代背景を良い感じに表したキャラクターになっている、と個人的には思っています。藤本先生と青識さんにもお話を聞いて見たいです。

青識 私もトイアンナさんに近い考えなのですが、長男だから我慢できたという話は、セリフの上だけでなく、物語の中で肯定的に描かれているのではないかと思います。強いものは弱いものを守る。弱いものは、自分より弱いものを守る。これが自然の摂理だ、と。

先ほどトイアンナさんが「炭治郎はリベラルだ」とおっしゃりましたが、「長男だから」強くなって・我慢して下の人間を守るというのは、自然の摂理と一致していると思います。

長男というものを、性役割として・家父長制を維持するものとして捉えると、炭治郎のセリフはひっかかるところがあるかもしれませんが、長男って、最初に生まれて、一番早く成熟するわけじゃないですか。男性だから、肉体的にも強い。そこは矛盾しないんじゃないかなと。

煉獄さんも母親から「強く生まれた者は、弱く生まれた者を守るのが責務だ」と言われていましたが、それ自体は矛盾していない気がします。

錆兎の仮面が最後に割れる、という藤本先生のお話も、そういう見方をするんだ、と感銘を受けたんですけれども、錆兎は仮面をかぶらないといけなかった。仮面をかぶって、男らしく、強く振る舞って、自分を殺さないと、炭治郎を鍛えることはできなかった。

男らしさや女らしさはニュートラルなものだと吾峠先生は考えていると思うのですが、あえて仮面をかぶる、強く振る舞おうとする。こうした反動的な部分も含めて、「鬼滅の刃」は、まさに二面性のある物語です。

優しいけれども、男らしく振る舞おうとする炭治郎。両方の側面があるからこそ戦えた。藤本先生とトイアンナさんのお話を聞いて、「矛盾するものを抱え込んで戦うヒーロー像」というのが、すごく印象に残りました。

「鬼滅の刃」は、男らしさを必ずしも否定していないんじゃないのかなと。私はそう受け取りました。

藤本 「長男だから我慢できた」のセリフは、さすがに最初に読んだときは「えっ?」と思ったんですね(笑)。

女装者を扱った男性誌のマンガを研究したことがあったのですが、その時に、女装をする理由は、長男であることの重圧から抜け出すためだ、弱いからだ、という描写が結構あったのを思い出しました。

なので、いまさら長男が出てくるの? という戸惑いは、実のところあります。

ただ、炭治郎は、自分を鼓舞するための言葉として「長男だから」を使っていますよね。

大正時代では、自分を鼓舞するための言葉として、「長男だから」はまだ有効だった。そういう言葉や「男なら」をあえて使うというのは、例えば吾峠さんが女性という立場で少年誌に描いていた、ということとも関係していたのかなと思います。

確かに青識さんがおっしゃるように、男らしくあろうとすることをこの作品は否定していない。主人公は自分が考える理想の人物であろうとする。でもやっぱり戦うことは怖いので、そこで何らかのおまじないになるような言葉を必要とする。自分を鼓舞する言葉としてそれを使うのはありだと思います。

ただ、錆兎や真菰が炭治郎にいう「死ぬほど鍛える努力主義」も、女性の柱はやっていないかというと、やっているんですよ。みんな全集中の呼吸ができるまで自分を鍛えている。やっていることは男女で変わらない。

男である炭治郎が、「長男なんだから」と思うことで力になるのならばそう唱えればいい。一方で女の私は、「女だからって、ここで負けてなるものか」と思って頑張る(笑)、という感じでしょうか。

あと、泣く男性がいっぱい出てくるのは良いことだと思います。

2.『鬼滅の刃』における「女らしさ」を考える

司会 女らしさについても、「鬼滅の刃」では否定的に描かれていない、という理解でよろしいでしょうか?

藤本 女らしいことが悪いことではない。女らしくしたい人は女らしくしてもいい、という描かれ方はされていると思います。

大正時代だからドレスのような服装をする女性はいないと思いますが、柱がドレスを着たがっても全然OKだと思います。自らの仕事や役割を果たすということと、趣味や振る舞い方や言葉遣いは別なので、大切なのはその人自身の選択だと思います。

ただ、女性性と男性性では、求められるものが違うことは確かです。そこを語り始めてしまってよいかは分からないので、いったんここで止めておきます。

トイアンナ 女性性に関しては、私は「鬼滅の刃」という作品は、かなり意図的にジェンダーフリーの方向に振ったのでは、と感じています。

もし時代に則って物語を作るのであれば、胡蝶しのぶが嫁に行っていないのは意味が分からない。禰豆子も嫁入りの話が全く出てこずに、善逸となんかいい感じじゃん、You結婚しちゃいなよ、というノリになっていくのは、かなりおかしい話です。

恋愛結婚は大正時代が走りですが、家族が結婚に介入しない、口も出さない、女は前線で戦っていないで、頼むから飯を炊いてくれ、ということにはならない。当時の性役割をガン無視して、とにかく全員命を賭けて戦え!となっている。これは意図的な措置だなと思っています。

皆が前線で戦うことで、弱い者、戦闘で腰を抜かしてしまったような子は、隠し=黒子役に徹して、事態の収拾・撤収・けが人のケアをやっていくグループに入る。

男女の区別をつけず、「強いヤツは、とにかく男女ともに前線で戦いなはれ。弱いヤツはそのままでいいから、後ろでサポートよろしくな」というのは、かなり意図的な形で、女性の性役割の排除を試みたのではないでしょうか。そうでなかったら、ジャンプで女性戦闘員をあんなにバランスよく配置するのは不可能だと思います。

ただ、非常に面白いのは、「鬼滅の刃」では、色々な選択をする女性がいるわけです。メインの戦闘員になっていく禰豆子や栗花落カナヲ、下の面倒を見る胡蝶しのぶや姉の胡蝶カナエ、敵を倒す要として研究開発部門に配属される珠世さん、そして女の子らしい甘露寺蜜璃。

様々な女性がバランスよく配置されていることで、「女の子って何してもいいんだよ」「女らしさを希求してもいいし、自分がメインに戦闘員になってもいいし、バックアップ役に徹したっていいんだよ」と読者が受け取ることができる。

ただし、一見すると女性が生きる選択肢の幅を見せているようでいて、それぞれのキャラクターたちが生き方を選んだ事情には、全然自由がない。そこは面白いなと思います。

炭治郎は、別に「俺、鬼と戦いたい!戦って強くなる!」とは全然思っていない。そもそも炭屋の息子なので、あのまま生きていても、学校にも行くことはなく、村で炭を売って暮らすことしかできない。

そうした中で、自由がないまま、家族を鬼に殺されて、妹を守るために鬼殺隊に入らされる・・・となっている。女性キャラクターを見ても、彼女たちが自分で選んだ人生ではないが、ダイバーシティは見せている。そこが「鬼滅の刃」の興味深さだなと感じています。

藤本 今のお話は面白かったです。結婚を強いられていない、というのはその通りだと思います。

青識 先ほどのパートで、「有害な男らしさ」というワードが出てきました。前回のこれフェミでも、研究者の高橋幸さんから出てきた言葉だったのですが、それって何だろうなと。

さっきの「女らしさ」の話で言うと、トイアンナさんがご指摘された通り、それぞれの女性が、自分の責任を果たそうとしている。女性として、「何でもやっていい」「自分の人生だから好きに生きてもいいんだ」という話ではなくて、「有害な女らしさ」というと怒られるかもしれないのですが、そういうのを峻拒しながら、男性と同じように、自己の責任を歯車の一部になって果たそうとしている。それが鬼を倒したんだと。非常に反動的な読み方かもしれないのですが、お二人の話を聞いて、そういう物語なのかなと思いました。

藤本 「有害な男らしさ」は、支配と権力なんですよ。とにかく人と競争して、瞬時に自分と相手、どっちが上かを見て取って、とにかく上に上に行こうとする。そういうような意味で使いましたが、逆に言うと、青識さんの言う「有害な女らしさ」って何でしょうか? 「鬼滅の刃」に「有害な女らしさ」が描かれているとは、あまり思えないのですが。

青識 ごめんなさい、「鬼滅の刃」にそれが描かれているという話ではないんですよ。作品の中で、「有害な男らしさ」「有害な女らしさ」の両方が排除されている。

男性らしさから降りていい、女性らしさから降りていい、という文脈で言うと、自己の役割や義務を放棄していい、という文脈で話されることもありますが、そういうことにはならずに、ちゃんと・・・というとおかしいのかもしれませんが、自分の義務を男女問わずちゃんと果たそうとしている。

ダイバーシティ的な物語ではありながら、男も女も忠実に自己の義務を果たそうとしている。ある意味では、共同体主義的な、非個人主義的な物語だなと思いました。リベラル・個人主義・ダイバーシティ最高、という物語として読解するのは、トイアンナさんもおっしゃられたように、違うのかなと思います。

藤本 その通りだと思います。皆が役割や責任を引き受けているところは、非常に共同体主義的です。ただ、「男だから」という言葉は出てきますが、「女だから」こうしなさいという言葉は、一言も出てきていない。そこは注意深く排除されているのだと思います。

青識 そこが唯一出てくるのが、甘露寺さんのエピソードだと思います。

3.甘露寺蜜璃とフェミニズム

藤本 私が甘露寺について考えていることを全面的に語ってしまって大丈夫でしょうか。

甘露寺は理想の殿方を見つけるために鬼殺隊に入った。というのは、彼女は大食いで力が強いことが理由で、「お前は人間じゃない」と言われてお見合いを断られ続ける。

そこで彼女は自分の強さを隠してお見合いするんですが、もしこれで結婚が成立したら、このまま私はずっと自分を隠していかないといけないのかな・・・と思う。でも、鬼殺隊では、彼女は自分を隠す必要がない。皆が、力の強いそのままの彼女を認めてくれる。

そして甘露寺自身が、人を分け隔てしないんですよ。むしろ他の人ならマイナスとするようなところを肯定する。

蛇柱の伊黒に対しては「伊黒さん、相変わらずネチネチしていて、蛇みたい。しつこくて素敵」。水柱の冨岡義勇に対しては、「冨岡さん、離れたところに独りぼっち。かわいい」。冨岡義勇は胡蝶しのぶから「だから皆に嫌われるんですよ」とか言われており、柱の中でも浮いているタイプだと思うのですが、甘露寺にとっては、それがプラスなんですね。風柱の不死川実弥には「傷が増えて素敵」と反応しているし、胡蝶しのぶに対しても「怒っているみたい。珍しいわね。カッコいい」となる。

一方で、音柱の宇髄天元とかは、普通の女の子から見ればカッコいい系のはずなのですが、甘露寺がキュンとするのは彼ではない。最終的にくっつくのは蛇柱の伊黒。そこがすごく重要だと私は思っています。

何にでもキュンキュンする子なんですが、鬼をやっつける時、「私いたずらに人を傷つける奴にはキュンとしないの」と言う。これが対になっている。

セーラームーンで言うと、甘露寺はセーラージュピターだと思うんですよね。力が強い。全てが過剰。

さきほど青識さんは「ガーリーな魅力」とおっしゃいましたけど、好きな殿方を見つけるために鬼殺隊に入ってきた甘露寺は、じつはみんなから引かれているんですよ。炭治郎でさえ引いている。力も強すぎるし、女の子らしいキュンキュンも過剰。それは男受けするものではない。甘露寺はむしろ、男性からは引かれる存在として描かれている。

おっぱいが見える隊服についても、わざわざそういうふうに作られてしまって、素直な甘露寺は女の子の隊服はこれなんだ、と思ってそれを受け入れてしまう。一方、胡蝶しのぶは見るなりその隊服に油をかけて焼いてしまう(笑)。

私は、女の人が求められるのは「ほどの良さ」だと思っています。もともと、よしながふみさんが指摘したことですけど、女性はどんなことであれ、出来過ぎてはいけない。過剰であることというのは、女性がモテない最大の要因になる。

でも、甘露寺は性格が素直でありながら一方で、「過剰で何が悪い!」「力が強いけれど、可愛いものが好きで何が悪い!」というキャラになっている。両立しないと思われていたものを両立させたところに、私は甘露寺の越境性があると思っています。

トイアンナ 私も最初に甘露寺が出てきた時は、正直ドキッとしたんですね。この時代にこんなにおっぱいを強調して大丈夫なのか、クレーム来るんちゃうかと、なぜか編集者の気持ちになってハラハラドキドキしていました。

甘露寺が物語で最初に出てくるのは裁判のシーンで、その時はあまり表に出てくるキャラではない。ひたすら色々なキャラに「素敵」と言っているだけ。恋柱なので惚れっぽい、というところだけをみせて下がっていく。

その後、上弦の伍・玉壺や上弦の肆・半天狗などの幹部クラスと甘露寺が前面に立って戦うシーンになると、「女らしくて強くていい」「女の子が好きなものを好きなままで強くて何が悪いの」ということが前面に描かれている。だから「キュンとしない」というセリフを言いながら敵を切り刻むんですよ。

もし、私がもうちょっと踏み切った漫画家であったら、彼女の服をビリビリにするシーンを絶対に描く。けれども、そういう場面は最後まで完全に排除されている。ガーリーなままで強くて何が悪いんですか、と。

フェミニズムの歴史の中でも、「女が脱がされること、露出されることは差別だ」という主張がワーッと盛り上がった後で、「いや、脱ぐ権利はあるじゃん」「自分が好きな格好をする権利、かわいいものをかわいいという権利はある」というバックラッシュが起こった。

先ほど藤本先生がおっしゃっていたように、甘露寺はおっぱいを強調する服が普通の制服だと思っていた。その後で胡蝶しのぶの制服を見たら、あれ、おっぱい出ていないやんけ、と思った。

胡蝶しのぶは、もらった隊服がおっぱいの出るやつだったので燃やした、というギャグのエピソードは、コミックス派の人にしか分からないんですよ。本編のユーモラスな場面でそれを入れてくれていたら、とは思いました。青識さんいかがでしょうか。

青識 藤本先生とトイアンナさんが語ってくださったので、私が付け加えることはほぼないのですが、お色気やガーリーな部分が押し出されている表現物について、「そういうものを女性に押し付けようとしているんだ」という批判のロジック、インターネットでは本当によく出てきます。ただ、それも文脈を読まないと分からないし、文脈をちゃんと読んだとしても、二重性を持った構造になっていて、分からないことも多い。

甘露寺の服装をめぐってネット上で議論している皆さんに、ぜひこの話を聞いてほしかったなぁ、というのが正直な感想ですね。本当に「ありがとうございます!」という感じです。

4.『鬼滅の刃』のジェンダー観(家族観・男女観・性別役割観)をどう捉えるか

藤本 「鬼滅の刃」は、形の上では、かなり伝統的なジェンダー観を踏襲しているように見せています。

しかし、その内実は、ちょっとずつそうしたジェンダー観からずらすことをやっている作品じゃないかと思います。

そのことが、分からない人には分からないので、保守的な人とリベラルな人、両方をひきつける要因になっている。自分が見たいものを見られるようになっている。非常に面白い試みだと思います。

私は九州の熊本出身なんですよ。作者の吾峠先生も、福岡の方だそうです。九州って、メチャメチャ男女差別がキツいんですよ。

そうした中で、表面的には男性に従いつつ、内実を取っていく、みたいなことが女性にとって暮らしの知恵として息づいているところなので、そこも影響しているのかなという感じはしますね。

トイアンナ 私が「鬼滅の刃」が完結した時、「大正の限界を攻めたな」と感じました。大正時代という設定で、本当にジェンダーから解放されたような世界を描いてしまうと、「銀魂」のような、宇宙人も侍もいるようなSFの世界になってしまう。大正という時代設定をないがしろにしている、という別の批判が飛んでくると思います。

女性が活躍しやすい、女性の台頭がギリギリでありそうな時代だから、大正を選んだのだと思います。明治になると銃で戦わないとリアリティが無くなってしまうので、「魔法少女まどか☆マギカ」の巴マミみたいになってしまう。

一方で、昭和になると、女性の権利は押さえつけられていく。「なんで女が銃後ではなくて銃前におるねん」という話になってしまう。

大正という時代設定が絶妙で、さらにそのすれすれの限界を攻めた。そのすれすれの限界をどうやって作品の中で攻めたかというと、全ての社会的責任を全キャラが喜んで引き受けている、というところです。

時代物の作品を見ると、昔は社会的な抑圧がものすごく大きい。それに対して、登場人物が抵抗していく、という流れの作品も多いです。

しかし、炭治郎は「鬼殺隊に入りなさい」と言われたら、「はい、入ります!」みたいな(笑)。

御館様も、「あなたはこの家に生まれたので、御館様になってください。そして、後方部隊として、鬼殺隊に入ってくるやさぐれた人たちを助けてください。ちなみに早く死にます」と言われて、それを引き受ける。最終的には、御館様のお子さんたちも、その役割を引き受ける。なんて話なんだと。

でも、大正の限界を攻めるためには、そこで葛藤している人間を描く余裕はない。というわけで、みんなが社会的責任を喜んで引き受けている設定にした、という世界線なのかと思っています。

もし、そうした社会的責任が「家父長制への拝跪」や「嫁ぐこと」だったらどうするねん、とも思いますが、引き受ける責任がそもそも生死を賭けた戦いであることから、ジェンダーからちょっと話をずらすことに成功しているし、本当に限界に晒されている者は逃げ出している。嘴平伊之助の母親は、家庭でDVを受けて、逃げ出すことには成功している。様々なスレスレを、それこそ吾峠先生自身が刃をくぐるようにしてかわしている作品だなと感じています。

青識 ギリギリを攻めているというのはおっしゃる通りで、甘露寺の造形や描写は、ツイッター上によくいるフェミニストの皆さんからすれば、炎上してもおかしくないんですよ。

二重性が込められている描写を全員が読めていたら、大体の炎上は発生していないわけで。それがなぜ、甘露寺を「おっぱいぶりんぶりん」と批判するツイートが三千ファボくらいで鎮火して、遊郭編に至っては「鬼滅の刃」を擁護するフェミニストまで現れたかというと、「おっぱいぶりんぶりん」発言の時は、吾峠先生の性別が全く報じられていなかったんですよね。

それまでは、女性の柱がおっぱいぶりんぶりんだったり、毒使いだったりすることに対して、「なんてジェンダーの押し付けなんだろう」「こんな作品をジャンプでやるなんてけしからん」という論調はあった。

ところが、吾峠先生が女性である、ということが報じられるやいなや、それが下火になった。あれ、作者のジェンダーが分かったら、読み方が変わるのね、と思いました。

ここが「鬼滅の刃」に関する炎上を見ていて、一番気になったところです。どう思われますか?

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