自分を理解するということ(相対性理論)
自分はどういう人間で、何がしたくて、何が嫌いで、何が得意で、何が苦手で・・・と、採用面接などでよくある自己分析の風景。
もうすぐ50歳になるワタシですが、いまだに「自分を理解できてますか?」と問われると、「うーん、わかるようなわからないような」という感覚に襲われます。
どうすれば自分を理解できるのか?、いや、理解したといえる自信が得られるのか、ぼんやりしていたイメージが、わかるようになってきました。
それは”相対的な目で自分を見て、推し量ること”
何かしら別の事象と比較をして、自分の立ち位置を推し量るということです。
簡単な例で言うと、得意科目は何か?を知ろうとしたときには、自分の学校でのテストの点数で比較したりしますよね?数学で60点を取っていたとして、それが仮にクラスのトップであれば「もしかして数学得意かも」と自分を理解することにつながります。
自分の点数が60点だけだと、自分は数学が得意なのかどうかは、よくわかりません。
相対的な対象物があって、初めて理解することが出来るのです。
このことは「自分を理解する」ということだけではなくて、何事にも使える、というか、結局「理解する」ということは、相対的な対象物との比較の中ですべての事象を「理解する」ことなのではないか、ということに気付きます。
だからこそ、人は何かを理解しようとしたときに、様々なインプットを試みますし、それを活用して「理解した」という気持ちになれます。
こうやってインプットの意義を言葉として理解すると今度は、
「インプットの質も見直すと、理解の質が上がるのでは?」
という発想になっていきますよね。
これを繰り返して、理解の質が上がっていく、なおかつ、それが言語化されることによって、最終的に「自分を理解する」ことがができるのかなと思った今日この頃でした。
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