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【不思議な話】とある若夫婦の話

あるところに、若い夫婦がおりました。夫は楽観的なのんびり屋で、過去の楽しい出来事ばかり口にする男でした。一方妻は、悲観的なせっかち者で、いつも将来の心配ばかり口にする女でした。

ある日、夫婦は子供を授かっていることに気がつきました。病院で妊娠を確認した帰り、妻は開口一番にこう言いました。

「どうしましょう。これから、たくさんお金がかかるわ。食費から削りましょう」

それを聞いた夫は、のんびり空を眺めながら言いました。

「大丈夫だよ。僕の上司が『子供ができれば、たいていの怠け者は働き者になる』と言っていたし、お金のことは赤ん坊が生まれてから考えればいいさ。」

夫婦はお互いに不満を抱きました。

妻は夫に対し、「なんてのんびり屋なのかしら。生まれてからでは遅いに決まっているのに!」と憤慨しました。

夫は妻に対し、「お金の心配も大事ではあるけれど、今一番大事なのは出産のことだろうに」と辟易しました。

赤ちゃんが産まれてくるまでの間、妻は常に数ヶ月先のお金や育児の心配をし、夫は常に出産を経験した上司の奥さんの過去の体験談ばかりを、上司に聞いていました。

そうこうしているうちに月日は過ぎ、12月のさむいさむい冬の夜中、とうとう妻は産気づきました。

病院に着いた夫婦は、出産の準備にかかりました。夫は妻の手を握り、妻は痛みにもがき苦しんでいます。

何時間も、いや、何十時間も経ったかのように感じられるほど、長い時間が過ぎたように思えました。夫婦は疲れ果て、妻の体力は限界に達しようとしていました。

医者が、「奥さんの命が危ない」と、危機迫った口調で告げました。

栄養不足が祟ったかもしれない、と医者は言いました。

夫はその瞬間、今までどこか薄ぼんやり、この出来事を、他人事のように思っていた愚かな自分に気づきました。

”自分は今まで何をしてきたんだろう。出産は人それぞれ違うのに、上司の奥さんの安産の話ばかり聞いて安心していたんだ。自分が耳を傾けるべきなのは上司の話なんかじゃなくて、いつも目の前にいた、自分の愛する妻だったんだ”

一方の妻は、自分が出産の苦痛に耐え、死の淵を彷徨うことになって初めて、将来のことばかり気にかけていた愚かな自分に気づきました。

”私は今まで何をしてきたんだろう。まだ起こってもいない未来のために食費を削り、大事な体を粗末にした。向き合うべきだったのは、赤ん坊を育てている、今のこの体に、ほかならないのに”

夫は、生気を失いかけた妻に呼びかけました。

「周りの人の過去の体験談ばかりに捉われていて悪かった。思い出したよ。僕は、君が将来の心配ばかりしていて、体を大事にできていないことが心配だったんだ。誰よりも君に、無事でいて欲しかったんだ。だから、出産の経験のある人の話ばかりを聞いていたんだ。でも違った。今、目の前にいる君と話すべきだった。こんなことになるまで、気がつかなくて本当にごめんよ」


妻は夫の手を弱々しく握り返し、

「私も謝らなくちゃいけないわ。来てもいない将来のことばかり考えて、大切な今のことが見えていなかった。お金をやりくりすることに必死で、自分の体を疎かにした。大事な赤ちゃんを育てている、今この瞬間の体を蔑ろにした。きっと将来に備えて考えることで、安心したかったのね。お金のことも育児のことも、1人で先走るんじゃなくて、もっとあなたと、そして今の自分と、話あうべきだったんだわ。」

と応えました。

「私たちが向き合うのは、過去でも未来でもなく、今この時、一瞬一瞬だったんだ。」

それが、夫婦の見つけた答えでした。

そして2人は、赤ちゃんの命と引き換えに、妻の命を救うことを医者に頼みました。

たいへんな手術でしたが、何とか妻は一命を取り留め、やがて元通り、元気に暮らせるようになりました。

妻は持ち前の計画性を生かし、家事の傍ら、計画的に貯金をし、少しずつ無理のない範囲で暮らしを豊かに支えていけるようになりました。夫は持ち前の楽観主義的な性格で職場の人々、取引先を楽しい話で盛り上げ、良好な関係を築き、ゆっくりと確実に昇進していきました。

そうして2人は、再び赤ん坊を授かりました。

産まれた赤ん坊は、すくすくと育ちました。やがて、のんびり屋でありながら、計画的に物事を進められる立派な大人になりました。

やがて夫婦は年老いて、2人とも病気になりました。さむい、さむい12月の夜中、奇しくも2人の命が尽きようとしていました。立派な大人に育った息子は両親に、優しく語りかけました。

その目は、遠い昔を懐かしむように、細められていました。

「今日みたいにさむい、さむい夜だったね。あの日、もし僕が産まれていたら、お父さんもお母さんも僕も、不幸になっていた。あの時、2人がお互いを、そして自分自身を大事にしようと思い直してくれたから、こうして僕は幸せに育つことができた。あの時、僕じゃなくてお母さんの命を救ってくれてありがとう。」

夫婦は命が尽きる寸前でしたが、顔を見合わせ、照れくさそうに笑いました。

「そうか。お前はあの時の子だったんだな。もう一度生まれてきてくれて、ありがとう。」

「私たちに大事なことを気づかせてくれて、ありがとう。」


夫婦はそう言い残すと、息を引き取りました。







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