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写真が上手い下手論争

初めに…

前回の記事が自分史上最大に反応頂き、
ビビって更新が遅れました。
(人のせい)

本当に何度も書いては消して、
書いては消して。
年に一回しかnoteを更新しない
mode○樫先生状態に陥りかけていました。
あぶねー

今も成仏しきれてない下書きが沢山溜まってます。
もう見たくねー

そして自分がこんなにも人のリアクションを気にする
サービス精神を持ち合わせていたのかと
気付きも貰えました。

ありがとうございます。

※注意※
私のこと!?みたいな被害妄想をして連絡してきたり
勝手に僕に気まずい思いを抱いたり等の
新手の当たり屋ムーブはやめて下さいね。

はい。
では、今日は写真に上手い下手はない。
ということを言いたくて書きます。



①写真表現の価値観


今って本当に誰でもフォトグラファー時代なんですよね。
その傾向はぶっちゃけ僕はどうでも良いです。

時代も流行も何も関係なくて、
必要とされてれば生きていけるし、
必要とされてないから生きていけない。

その事実だけはずっと変わってないからです。

カメラ買えば誰でもフォトグラファーになれて
誰でも好きに写真表現できる。
表現手法が巧みなら一流の待遇の仕事がきて、
突然一躍有名になれる。

こんな素晴らしい世界ないですよね?

それに文句を言ったり未来を憂うのは大抵、
昔からこの仕事をしてる所謂
写真家(老害)と言う人なんです。

正直僕も何度か言われたこともあります。

まだ君のレベルではこう言う発言はだの、
まだ君は人に教えれるレベルでないだの。

じゃあ、そんなあなたは何者??
誰もあなたを愉快にさせる為に
表現や発信をしてないんですよね。

相手が業界人であろうが、
カメラマン先輩であろうが、
表現の前ではみんな平等。

ディスカッションしたいなら、
お互い写真で自分のスタンスを表現し続ければいい。
そうしてカルチャーは成長し紡がれて価値が出来てきたんです。

写真表現の話し合いをするのに、
写真表現で示せないのは、
もはや表現者ではないですよね。


僕は表現を一生続けたいし、
色んな表現に出会って感情豊かに
生きたいんです。

なので最初に僕の価値観を描きたいと思いました。

②写真が上手い下手について


まず写真に下手なんて存在しません。

だって撮った写真を
自分が気に入ってたら
それで良いじゃないですか。

カメラや編集の操作が下手って、
ただの知識なんですよね。
なので知識増えれば簡単に解決できちゃうので、
それは下手ではなくただの勉強不足

世の中に言われてる『写真が下手』の本質は、

アウトプット方法が伝わりにくい。
それだけだと思います。

自分が写真にした動機や思惑
そのアウトプット方法に当たるわけで、
それが相手にとって解りにくい。

要は写真以前に
相手に同意を求めるのが下手ってことです。

世の中の写真に対する評価って実は、
上手い下手良い悪いじゃないと思っていて、

その写真に興味があるかないか
そんだけなんです。


③表現のレベル


これも優劣の話ではありません。
あくまで僕にとって価値を感じる写真についてです。
写真に『価値』を求めてる訳でもないです。

では、興味のある写真ってどういうことかと言うと。

議論が出来る余地があることだと思います。

ふと立ち止まって、

なんかいいな、なんか気になるなって些細なことから

なんでこの人はこの写真を撮ったんだろう
なんで僕はこれが気になるのだろう
この写真に対する他の人の意見も聞きたいな

みたいに自分が作品に対して
何かを思い巡らせるキッカケを
与えてくれるもの。
インスピレーションというのかも知れません。

でもこれには発動条件があると思っていて、
感受性が豊かな状態を作れてるか?
それが重要だなって。

僕が一番多感な時って
心身がニュートラルな時です。

その状態だとどんな出来事も自然とより多くを受け止めれるんです。

逆に僕がダメな時は
美術館とかギャラリーです。

何故かというと身構えて見ちゃうので。

何かを得よう!何かを学ぼう!って
一見姿勢は前向きなんですが、
その気持ちだと
せっかく来たんだし!とか、
これは有名だし何か感じれるはず!とか、
みんなが良いと言うから(世界的に有名とか)
って変なバイアス
かかるんで、
僕はそうゆう時に感情に嘘付きそうになります。

何が言いたいかと言うと、
その時その瞬間の気の持ちようで
価値観なんて簡単に変わるってことです。

1を100までとらえれる人もいれば、
1は1のままの人も人もいます。

これを表現のレベルと揶揄されがちですが、
その多寡は問題ではなく、

自分の気持ちに嘘をつかない
有名とか無名とか変なバイアスかからない
心身が良い時も悪い時も目の前の事実を見る

ダヴィンチだろうがエルメスだろうが
サブカルだろうがその辺の石ころだろうが
自分が良いと感じたモノは全て価値

これが自然と出来る人の方が、
発信する側も受ける側も表現に関わるレベルが高い
と僕は思う訳なんです。

逆に有名なモノでしか自分論を語れない人は
ダセーなこいつって思ってます。

なので写真表現って
意外とメカニカルな要素はなく
単純に何を撮りたいと思うのか?

たったこれだけのことだと思います。

__________________________


以上が僕の言う

下手な写真はない

と言う定義と根拠です。

なんか書いてるうちに、
自分でも盛り上がってきて、
この話を誰かとダラダラ語り明かしたいです。

誘って下さい。
(高嶺の花スタイル)


おしまい

















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