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2022年『2020(ニーゼロニーゼロ)』観劇感想


前置き1.ネタバレ全開です

 ネタバレの定義は様々ですが、ある意味何書いてもネタバレにならないんじゃなかろうか今回の公演…と思う一方で、一言一句事前に知りたくない !!って方には、以下はそりゃもうありとあらゆる記述がネタバレになりますので、「素敵だった!」「見応えあった!」以上の、何らか具体的な本編のあれこれに言及した内容を目にしたくない方は、どうかここで撤退お願いします。

前置き2.「考察」「分析」じゃなくて「個人の回想/感想」です

 ここからガンガン本編に触れていきますが、「この公演はきっとこうに違いない !!! 」と自説を鮮やかに展開して何らか読んで下さった方にすっきり感やひらめきを提供する記事には多分なりません。自分でも自意識過剰な前置きをくどくどと書いてる自覚はありますが、あくまで、下の「前置き3」に記載した状況で劇場に行った一人の一般客が 2022/7/9(土) マチネ「初見」でこう感じたよ、の共有です。読んでくださる方との解釈違いは大いにあり得るので、「そっかそう思う人もいたのねぇ」の対象にしかならないです。あと、なんせ一回しか観れていない状態で書いているので、資料の助けを借りながらとはいえ、あれこれかなりうろ覚えです。
 私も他の方の観劇感想/呟きを読むのは大好きなので、このuploadが終わったら、誤字脱字を直しつつ、一旦他の方々のを読みに駆け回る予定です。

前置き3. 観に行く前の予習状況

 長い前置きもこれで最後です。今回は、漠然とした「これとりあえず現地で渦に飲まれながら直接受け止める方がいい系なんだろうな」という予感があり、「上田岳弘さんの作品は一冊も読んでないけど敢えてそのまま向かおう」と予習0で前日を迎えました。が、土壇場になって「一回しか観られないし、一口だけでも世界観を囓っておいた方がいいかも」という一抹の不安が突如頭をもたげ (一回しか観られない作品をどこまで予習すべきか問題、ちょうど少し前にtwitterで話題になりましたが、まさにあれを思い起こしつつ逡巡しました)、結果実に中途半端な=当日の朝図書館で『太陽・惑星』を借り、行きの電車で 23ページまでだけ読む、という状態で初見に至りました。が、結果的にはこれが、ベースに流れているエッセンスをほんのり嗅いだ上で、展開や言わんとされてることについていく、という点で怖いくらいのカバー率でもって今回の戯曲と一致(『太陽』のたった冒頭の 23頁なのに!)。
他に事前に目にしたのは公式HPの文言と、初日ゲネ後の取材の「一生くんは腹ただしいほどすごい云々」のところのみ。
 何も読まずに行っても大量のお土産(=自分で答えを考える、あれこれの問い) はもらえる作品に感じますが、太陽の冒頭23ページは、私にとっては受け取ったお土産が何なのかの解像度を上げる助けになった気がします。

起承転結は無く、すでに体系立てて練られた神話を色んな角度で切って、いくつもの問いを投げかける系

 とりあえずまず今回、起承転結系じゃないです。起承転結系じゃないどころか、『ありとあらゆる伏線が回収され、「そうかそことさっきのあれが!!」「これはあの場面のことだったのか!!!」と戯曲の中に問いと答えがちゃんと対になって用意してあって、さらにそれに気づくためのヒントすらある三谷幸喜さん系』じゃ全然無いです。こちらも確かに人類の歴史を追い、それに言及しますが、三谷さんの「日本の歴史」とはそりゃもう全然違うテイストです。

 じゃどういうテイストかって言ったら、私の印象では「はっきりとした懸念を軸に編み上げられた、フィクションとしての神話(=少なくとも2022年以降についてはフィクションの歴史)を、右から左から、上から下からいろんなエピソードやモチーフを使って切り取って、むき出しの断面を観客に提示するような形で、色んな問いを、定型の答えは一切期待せずに、まるで玉入れの玉のように客席に投げ、各自に考えてもらう頭出し(=種まき/きっかけ作り)をひたすら最後までダイレクトに重ねる系」。
 家に帰ってから 24 ページ以降の『太陽』を最後まで一気読みして確信したけど、上田さんの作品にはすでにパラレルワールド的に確立された、未来を含む設定(幸せを阻害する「差」や「寂しさ」を解消しようと突き詰めた結果、人類が最終的に個性を失い、個別の経験を失い、果ては物理的にも『肉の塊』として連結してしまう/「誰も止めないがために」、ありとあらゆるスペックが自在になった世界で、一周回って「不完全」を尊び愛したために、太陽を使って巨大な金を錬成する『大錬金』が起きて人類が滅びてしまうなど)があって、その共通の設定の上で色んな話が進行し、今回はその設定そのもの(=このまま進むと 2020年の「あれ」をきっかけにどういう未来に向かってしまうかの予言)ど真ん中にスポットライトを当てて戯曲にし、生身の一生さんと橋本ロマンスさんが魂懸けて演じ、表現したんだな、と。
 
 観る人によって、観るタイミングによって、メインに受け取るお土産 (=問い)のラインナップ
やサイズは違うと思いますが、今回の初見で私に強烈に刺さったのは、それが上田さん白井さん一生さん橋本さん達の言わんとしていたことと「ぴったりじゃなかったとしても」、次の 3つ:

①沈黙は金、雄弁は銀

「沈黙が破られてしまった以上、雄弁でなければならない」。うっわー、なんという今へのアンチテーゼ !!!!とのっけからぞわぞわ。作者の意図を正しく汲めてるかわからないから、この解釈が合ってるか分からないから、下手なことを言って間違えるのは怖いから、「先にネタバレを読む」、「感想は共有しない」、「発言する以上はなんかちゃんと考察しないといけない気がする」、「なまじ深そうな感想や考察を読むと、自分の浅さをバカにされたような気さえする」。以前「なぜ今、ネタバレ記事ばかり氾濫するのか」について書かれたインタビューだか記事だかを読んで強烈に衝撃を受けた時のことがフラッシュバックして、「うわぁこれ今正にそうだよね」と半ば自分も含めてずしーん。最近になって、手探りで感想を投稿してみる気になった自分からしても、「雄弁でなければならない。じゃなきゃ黙っとけ」のプレッシャーはまだまだ生々しく蘇る、何なら今も日々自分の中にどーんと居座り続けようとするもので、「物語の解釈」のみならず、「政治に対する疑問」、「周りで起きていることへの違和感」すらも「雄弁には語れない」と飲み込んで「とりあえず沈黙」を選ばせてきた得体の知れない大きなものの罪の重さみたいなものがぐわんと感じられた。
 違和感に声を上げないとどうなると思います?をこの作品、というか、まだ『太陽』しか読んでないけど上田さんはおそらく繰り返しテーマにしてるんじゃないかと感じていて、その成れの果てとして紹介されるモチーフが「肉の塊」や、「大錬金」による人類の滅亡。大錬金については、「本当にやって良かったの?!祝福され実行が決まってしまったけど、本当に「みんな一緒に違和感を持たない」で良かったの?!」と田山ミッシェルはギリギリまで葛藤して、必死にひとり違和感と闘うんだけど、結局「総意」に負けて、「その他人類は誰も結局声を上げなくて」、スイッチは押されてしまう。

②個性の歓迎と自他の境目

 「他人の許されざる行為を容認する。」。いろんな考え方がありますからね、個性の一つとしてそれも認めなければ、を繰り返していくとぶちあたるのが「許されざる行為」とは?で、軽いものでいくと「同意を確認せずにレモンを勝手に唐揚げにかけること」だし、極めて重いものでいくと、何人もの命を犠牲にした戦争、劇中引用されている特攻命令など。赤ちゃん工場のドンゴ・ディオンムが読み上げる『外すための予言の書』にある、「個を尊ぶあまりに、ばらばらであることを称賛しすぎると、究極の間違いを看過することになる」がこれで、①で書いた大錬金もそうだし、後半出てくる「最強人間(AI)」が誘導する「最高製品(多分実態は肉の塊)」もそう。
 
 分かり合えない寂しさも、あらゆる不幸の温床となる「差」も埋めて、字義通り「一体」となるとか、うわぁまさに人類補完計画…とエヴァを思い出しながら観ていたのだけど(と言いつつエヴァ全作品の完全履修はまだできていないんだけど/観たいとは思ってるんだけど)、もはやこれって示準化石的(同時代にそこにいた生き物同士だとわかる目印みたいな)にエヴァを通ってきた世代あるあるな共通言語なんじゃなくて、ずっとこの何百年言われてきた「幸せを阻害するものを全部取っ払うとしたらどうすればいいか」を思考実験すると出てきちゃう共通の答えなんだろうなぁ…とぼんやり思いながら観てた。同時に、当たり前のように共通言語的に肉の塊と言われて「あぁそういうことね」と受け止めてる自分を俯瞰しながら「ついに広義の同世代の人が書くお芝居を観る年齢になったのかなぁ」と全然ベクトルの違う妙な感慨深さのようなものも感じたりして、全編通して訴えられてる「懸念(避けたい未来像)」や警告のようなものが割とすとんすとんとこっちに落ちてくるのが(勝手に自分なりの形で受け取ってる点はもちろんあるけど)、「今の」作品だな、という、どーんと古典に浸かるのとはまた違った興奮のようなものを与えてきた。


③積み上がる白い「これ」(ブロック)と「遠方担当」
 


 全編通して舞台効果としてそこらじゅうに置かれ、積まれ、崩れ、投げ込まれ、いじられ、落とされる白い立方体(=ブロック)。このブロックはなんなんだろう、なんのメタファーなんだろう、「これ」に代入されるべき言葉は一体なんなんだろう、となぞなぞを解くような感じで、でも割としつこく言及されるためかなり必死に正体を考え続けることになった白い立方体。

 最初見た時、うっわー崩れやすそう。。これ乗ったりして大丈夫なのかな、と思ったのだけど、まさにこの「崩れたり」「積み上がったり」「その中に溺れたり」「それに埋もれたり」「頑強なもののように見えて欠けたり損なわれたり(舞台後方スクリーンに埋め込まれてたキューブが後半ぽろぽろ歯抜け的に欠けていく演出がある)」する存在として絶妙な素材、サイズ、表し方でそこに配置されてるように思えた(それにしても、あんなにも適当に無造作に置かれているように見えた無数の白いブロックの一つをすっと抜き出して文字(「遺書」etc)が書かれた面を向けるとか、「手品かい!!!!」とその緻密さにびっくりしたけど。。。何個かダミーあるのかな。。。にしても崩れる時はほぼほぼみんな真っ白に見えた。。)

 せっかく観劇後図書館で戯曲を読んできたので抜粋して要約すると、
・人間がこの世に登場するようになってから現れて
・クロマニヨン人時代は50~100年に一度出るかどうかのペースで生み出され
・作れるのは人間だけで
・現れるペースはどんどんスピードアップしていき
・産業革命の時代には加速度的に増え
・人類を肉の海へと導き
・作り続けなければ人間を続けていかれない。人間とゴリラを分かつもの
・2020年に「完成間近だった」(バベルの)塔を構成していた
もの。

 想像力?言葉?意識?と片っ端から代入しては、「自殺する類人猿に共通ものものとして存在する想像力」、「簡単なコミュニケーションならゴリラもとれるというし、一定の時期から加速度的に増えるものでないといけない」、「意識は人間以外の動物も持つ」と候補を消す作業を繰り返し、現時点で「これかな?」と感じているのは「発明/イノベーション」。猿だって棒とか使うじゃん、、、と思ったけど、「そこにあるものを使う」のと「組み合わせて新しいものを生み出す」「新しい概念を生み出す」となると、発明に近いかなと。。。

 生み出すことをやめられない、「遠くへ行きたい衝動」とつながるもの、ひたすら遠くへ行くことで「止めないで済む」。

 群れから離れ、命を賭してまで「ここではないどこか」を目指して片道切符となるリスクも厭わずに飛び出していく「遠方担当」を支え、同時に送り出すのもおそらくこのブロック。
 
 遠方担当が持つ「外・もっと先・遠くへの憧れ」と、「いざ望んだ遠くに着いた時の、言いようのない孤独」のアンビバレントな感じもクライマックスで一生さん演じるGenius lul-lulによって語られているような気がした(ちなみに、宇宙船から手を延ばした時に、下から船の灯りによって照らされるのを見て「僕はほっとする。船の外側もちゃんとあるんだってね」は、「自分だけがひとり完全に世界から切り離されて独立してしまったのではなく、自分のいる船には中も外もあり、まだ何らかの関係や空間に包まれてる、『何らかの文脈のようなものの中にいる』と感じさせてくれる安心感」を指してるのかな、と思った。望んで遠く世界の果てまで来たのに、それでも何らかの文脈・関係と完全に切り離されてしまうことへの恐怖は最後まで残るんだなというか)。

 プログラムで、上田さんと白井さんが間接的直接的に書いているけど、私もこの作品を観ながら、あぁ彼ら(一生さん、ロマンスさんをもちろん含める)はそれぞれに今この時代の「遠方担当」で、この「もっと遠く/まだ見ぬ景色を見つけることへの憧れ」と、それに至るまでの産みの苦しみ、至る過程、至りつつある時に待っている孤独をおそらくリアルタイムに体感している方々なんだなぁ、と感じた。

ものすごいとりとめないけれども、初見翌日の感想一旦ここまで。

貴重なお時間で読んでくださった方々、ありがとうございました!!!
 

参考文献

パルコ・プロデュース舞台『2020』公式プログラム
雑誌『新潮』 2022年8月号 
新潮社『太陽・惑星』上田岳弘著

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