真夜中の一期一会

 習い事の帰り道。最寄りのひとつ手前の駅で電車が止まり、待てど暮せど動かないので、しびれを切らしてタクシー乗り場に走ったのだった。
 時刻は0時を回っていた。同じような帰宅する人々の列に少し並び、自分の目の前にちょうど良く停まった黒いセダンのタクシーに乗り込んだ。

「すみません、三丁目の公園の辺りまでお願いします」

 行き先を告げ、シートベルトを付けて、ホッと人心地ついたような気がした。

 明るすぎる騒々しい電飾だらけの駅前を抜け、車は大通りをスイスイと走った。

 家までは5分ほど。歩いて帰れない距離じゃなかった。けれど、疲れた。人通りも少ない。夜、こんな時間に独り歩きすることのリスクを考えると、自分のしたことは最良の選択のように思えた。

「お客さん、お仕事ですか?」

 不意に、運転手さんが声を掛けてきた。
 年の頃は50代。白髪交じりの優しげな表情が、ミラー越しに見えた。

「あ、いえ。……実は、習い事の帰りなんです」
「へぇ、習い事?何をなさっているんです?」

 運転手さんが驚いたように聞き返してくるので、苦笑しつつ答えた。

「お茶……なんです。茶道です」
「茶道!?」

 運転手さんは、驚きの声を上げたのだった。
 その反応に(そりゃあ、そうだ)と、心のなかで相槌を打った。

「お茶の教室って、こんな遅くまでやるんですか?」

 予想どおりの反応が返ってきて、また私は苦笑した。

「他所は土日の昼間……とかが多いみたいですけど、うちの先生は平日の夜なんです。仕事の帰りに寄れるから、ありがたいんですけど」
「へえぇ、そうですかぁ〜。お茶のお稽古ってぇのは、何をするんですか?」
「なかなか説明が難しいんですけど、いわゆるお点前のお作法とお客作法のお稽古……ってところでしょうか」
「へえぇ。お客作法ってのは?」
「お菓子の食べ方とかお茶の戴き方とか、あとはお部屋の軸やお花を見たり。お客と言っても、いろいろやることがあるんですよ」
「はぁー、そうなんですか」

 運転手さんのその反応に、私は少し面食らっていた。普通、茶道と聞くと「正座をずっとしてるんでしょう」なり「抹茶ですか、風情ですね」と言われるくらいで、こんなに細かく聞かれることはついぞ無いからだ。
 私の話に、運転手さんは「へえぇ」と「はぁー」を繰り返し、さらに質問を続けた。

「お客さんが、お稽古してて良かったなって思うことは何ですか?」

 少し考えてから、私は口を開いた。

「五感でものを感じられるようになったこと、ですね」

 運転手さんは、今度は「ほぉ」と言って

「それは、どんな時に思うんですか?」

と聞いてきた。

「そうですね。雨の音って、すごく綺麗だなぁと思ったり」
「雨の音がですか?」
「そうなんです、私もこの前気付いたんです。日本家屋って、雨が心地よく響くように造られてるんだって。それで雨の降りしきるなか、お稽古していると、周りの音がスーッと消えて釜の音しかしなくなる時があるんです。そうすると、何だか部屋ごと異空間に飛んでしまったかのような、不思議な気分になるんですよ」

 こんな説明で伝わるだろうか。一抹の不安を抱えながらそう言うと、運転手さんは「はぁーー」と、感慨深げに言った。

「お客さん、いいご趣味お持ちですねぇ」
「そうですか?」
「えぇ、そうですよ。お茶のお稽古って、そんなに深いんですねぇ。私、初めて知りました。いやぁ、いいお話聞かせて下さってありがとうございました」
「あぁ、いえ。こちらこそ。こんなにご興味持って下さる方そういないので、つい話してしまいました」

 気付くと、車は家のすぐ傍まで来ていた。

「素敵な話を、ありがとうございました」

 降りるとき、運転手さんはそう言って会釈した。
 
「こちらこそ。ありがとうございました」

 私は頭を下げ、それから車に背を向けて、家までの道を歩いた。
 予期せぬ楽しいひとときに、真夜中なのに顔が綻んだ。
 まるで小間のお茶室にいたような、特別な気分だった。一客一亭、古の利休の時代のそれのような、何とも濃密で、貴重なおもてなしを受けたように感じた。
 あの方は、お茶の心を持っていらっしゃるんだ。運転手という仕事を通して、お客に向き合っている。私もああいう姿勢を見習わないと、と、思った。

 少し歩いて、あ!と思い至り、立ち止まって振り返った。当然ながらタクシーは、すでに跡形もなく消えていた。

(お名前を、聞いておけばよかった……)

 タクシーの会社名だけでも分かれば、お礼状のひとつも出せたのに、自分の迂闊さに少しだけションボリとして私は帰路についた。

 いつかまた、会えるだろうか。
 夜の街を走る、お茶室のお亭主に。

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