ぐるりと、地球が回ったよ
子供の頃、私は保育園に通っていた。
東京の郊外ながら少し広い園庭には、ブランコや砂場、ジャングルジム、すべり台といったいろんな遊具が置かれていて、夕方、親が迎えに来るまで飽きることもなく、よく遊んだ。
その園庭の一角に、鉄棒もあった。3つほど連なってあったそれは、支柱を赤や黄色でカラフルに染めていて、子どもの興味を引くには、極めて効果的な色をしていた。
おむつも取れないような小さいうちは(記憶もないが)恐らく、見上げて眺めることしかできなかっただろう。しかし、ある日、ひょいっと前まわりが出来た瞬間から、鉄棒は園児たちの遊びのトレンドになるのだった。
私たちは毎日のように、くるりくるりと飽きもせずに鉄棒で遊んだ。スポンジが水を吸い込むよう……とは言うが、だんだんと、運動神経の良い子たちは片足だけ引っ掛けて回ったり、空中回りをしたり、それから逆上がりをするようになった。
私は、残念ながら運動の神様からは匙を投げられたようで運動音痴だったため、逆上がりも空中前回りも、人生で出来た試しはない。
(そのせいで、小学校へ上がってから、体育の時間は憂鬱だった)
けれど、鉄棒は好きだった。くるりと宙を回る独特の感覚が、とても気持ちよかった。
鉄棒は、園庭の中で一番、保育園の門に近いところにあったので、迎えに来た親に「見てて」とせがんで、鉄棒で遊んで帰ることも珍しくなかった。
それから、何年も経った。私はすっかり大人になり、社会に出た。前述のとおり、運動がからっきしだった私は、紆余曲折があり人前でスボーツをすることが、すっかり嫌になってしまった。
幼いときは、上手いの下手だの、失敗しただの恥ずかしいだの、そういう精神ダメージが少なかったのだろうか。保育園に通っていた頃、失敗しても笑いながら、ひたすら鉄棒をクルクル回っていた。
そんな日々に切なさと懐かしさを抱く歳になったある日のこと、5歳になる甥が言った。
「鉄棒で遊びたい」
甥は、あの頃の私と同じ歳になっていた。
地元の、小さな公園で甥と鉄棒で遊んだ。
「ピョンって飛ぶとこまではできるんだけど、うまく回れないから、叔母ちゃん支えててね」
落ちないように手で補助すると、甥は安心したように、くるりと回った。
一回転して地に足を付けた甥は、ニコニコと嬉しそうに笑った。
「もう1回やりたい」
せがまれて、2回、3回と同じようにした。
あの頃の私も、そうだった。保育園の先生や迎えに来た親たちに「見てて、見てて」とせがんでは、何回もクルクルと回った。そんな過去の自分と甥とが重なる。頬に汗をキラキラと輝かせ、夢中で回る。出来たって、出来なくったていい。ただ、ただ、楽しいのだ!
その空気に乗せられて、不意に私は言った。
「ねぇ、叔母ちゃんにもやらせて」
甥は、快く鉄棒を譲ってくれた。
子供用の鉄棒に、手をかける。子ども用の鉄棒って、こんなに低かったっけ……。あの頃は飛び上がるように掴まっていたバーがとても小さくて、郷愁に似た気持ちが胸を突いた。
地面を軽く蹴って、ヒョイッと鉄棒に体を付ける。懐かしい感覚だ。
それから体を丸めて、ぐるりと反転した。その瞬間―――
私は、固まった。
想定よりもずっと、体が重い。それに、思ったよりもずっと、地面が近い。予期せぬ事態に、逆さになった頭が混乱した。
少し考えてみれば、道理なのだ。
私の記憶の中の、鉄棒を回った頃は、10代で終わっている。
逆上がりが出来ても給料が上がるわけでもなく、空中前回りが出来なくても、会社をクビになることはない。
そんな社会生活の中で、鉄棒をやる必要性は無くなり、触る機会すら無くなった。
子供の頃の、楽しかった記憶だけが残っていた。
さて、話は戻って、反転したままの私である。
世界の向きが逆さになった私の眼前には、不安そうな瞳の甥の姿があった。
それはそうだ。大人が鉄棒で反転したまま動かなくなる事態なんて、そうそう無い。甥の方も、困惑したことだろう。しかし、補助してもらうわけにはいかない。
その間、たったの数秒のことであるが、混乱し、さらに頭に血が上っていく状態では、数時間にも感じられた。
さて、どうする。どうする、どうする。考えた結果、答えはすぐに出た。
分かりきっていたことだが、半分回ったのなら、もう半分回って体の向きを元通りにするしかない。
きゅっ、と体をより丸めて、鉄棒に添わせながら体を回した。
(南無三―――!)
何故か、そう思った。
もう一度、ぐるりと体が反転して、私の足は無事に地面へと着地した。
「はは……あはは……」
安堵からつい、笑いが零れる。そんな私を、甥は少し呆れたような顔で見ていた。面目丸つぶれである。
しかし、情けなくみっともないながら、何故か充足感のようなものもあった。
ウン十年ぶりに触れた鉄棒は、掌にほんのりと残る鉄の感触とともに、やはり、とてもワクワクした。
失敗しても、上手く出来なくても、楽しむ大切さ。大人になるにつれ失っていったそんなものを、童心と共に思い出させてくれたような気もした。
遊び疲れた甥の手を引き、家路につく。
(次は、子ども用じゃない鉄棒でやろう)
懲りずに、そう思うのだった。
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