失敗したので、ばかなうたを歌う
週に1回投稿すると決めて早10日あまり。早くも週刊に遅刻する事態だ。
こういうとき、
「こんな自分の宣言も守れないバカですみませんんん。」
などと自らを蔑むことがあるひともいるだろう。僕も昔そうだった。
「すみませんんん。こういうところが本当に救えないんですよね。情けなくてすみません。」
こんなことをよく言っていた。
もちろん今もこの行動は大切だと思う。日々謙虚に、真摯にそしてつぶさに自らの行いや失敗を見つめて反省する姿勢は欠かせないマインドの一つだと考える。けれど、自身を蔑み、反省と後悔の自傷行為へと過度に走る必要は果たしてあるんだろうか…?
こういうとき、Sっ気な仕事デキる系サバサバお姉さんが言うだろう。
「反省して自分を責める反省する暇があるなら、その分さっさと切り替えて次ぎどうするか考えなさいよ。時間の無駄よ。」
ごもっとも。刺さる台詞である。きっと打ち抜かれたMな男性ファンを増やすに違いない。
確かに、失敗を真摯に見つめたら次に活かせばいいのが早い話だ。人間日々いろんな再チャンスにあふれている。一見失敗は許されないように見えても、日常の世界であれば一歩視野を広げれば挽回の機会は転がっているものだ。それに向けて直していけばいい。難しく簡単な話だ。
それにしてもだ。自傷に走る豆腐メンタルさんにとってSっ気お姉さんの言葉は些か殺傷能力が高い。いつまで経っても慣れない失敗に加え、クリティカルに正論が刺さるものだからなかなか立ち直りにくいこともあるだろう。ここではもう少しマイルドに考えてみる。
失敗は失敗だ。“謙虚に真摯にこれを見つめるべきだ。”そして、再発防止に精一杯努めよう。
そして、ここに両立の心を持つことにトライしよう。“人間は失敗する生き物だ。”避け続けて終える人生なんてないことを悟ろう。そして、一人声に出して嘆こう。
「しょーがないよー」
「にんげんだもの」
ラーメン二郎の店主とあいだみつをの言葉を合わせて読んでみる。なんとまあちょっと許せそうな雰囲気になってきたではないか。これって、僕だけか…?
仕方ない、仕方ない。失敗しない人なんていないのだと思う。思うだけでは足りない。声に出して嘆く。そうやって仕方のない事実を認めよう。そのときは取り返しがつかないように思えるかもしれないけれど、何も人生すべてが終わるわけではないのだ。僕らは今生きている。
失敗しよう。もちろん失敗しないことに越したことはない。避けられる失敗は減らすのは大切な行動だ。けど知らなくて、頑張って失敗したのなら仕方ないじゃないか。逆に考えてみれば、失敗の流れが手に取るようにわかるのだ。失敗しない人にはわからない、生きたノウハウが手に入るのだ。すごい資産じゃないか。そういったものが案外いつか自分を救ったりする。
僕自身は最近就職活動をしているが、なかなかハードな日々である。「今回はごめんね」と“企業からのお祈り”ばかり届くのだ。要するに失敗だ。もちろん、これは多少なりともメンタルに堪える。けれど、最近こう思えてきた。自分のした行動はわかる。それがうまく合わなかった。つまり、至らぬ改善点か悪くはないけどうまく伝えられなかった点があるのだ。はたまた、その考えが合わなかったのだ。いままで自分では気づかなかった面がわかるのだ。この発見は通った場合にはなかなか分からない。
「ごめんなさい」と言われることはきついかもしれないけれど、昨日の僕には見えていないことが見えるようになる。その発見は自分の成長になり、昨日より少し自身を誇れる人になっていけるような考えを持つことができる。これって本当にありがたいことだと思う。ごめんねとお祈りされる自分はある意味幸せなのである。
もしかするとなんだかんだ内定というものが出ている人間だからこそ、こうやって思えるのかもしれない。まあそれでもとにかく物事は捉えようだ。どんなにしっかりとやっていても失敗することもあるだろう。不幸なことに突然惨劇に巻き込まれることがあるかもしれない。仕方ない。世の中そんなものだ。逆もあるだろう。すごく思い詰めていても、誰かの一言や小さな発見一つでそれが急に馬鹿らしく、微笑ましく思えることはよくある話だ。
崩れるときには崩れる。そこからまたやり直せばいい。人間みんないろんなことを考えながらぐらぐらな毎日を送っている。それなら、ばかなうたでも歌いながら一緒に揺れよう。くだらなく考えよう。悲しい失敗もぐらぐらで幸せな日々の一コマだ。
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