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ウイスキーの「共有すること」の面白さ、「共有しないこと」の面白さ

最近ではあらゆる価値観・情報がSNSによって共有されている。

新商品の情報、最新ニュースはもちろん、そのレビューなどは"氾濫"に近い状態で溢れかえっている。

SNSを始めとするインターネットは魅力的で、いつも新鮮な情報で賑わっていて、とても楽しいと感じる。

それは「共有すること」の楽しさであり、喜びを分かち合えるという点から、それらを受け取り味わっている。

ところがつい最近まで、それとも気づかぬとも長い間、「ウイスキーが楽しい」という気持ちを完全に失っていたように思い返す。それはなぜか。

「共有すること」の面白さが、「共有しないこと」の面白さを消し去ってしまっていたからだと気がついた。


TwitterやYouTubeを始めとするプラットフォームを開けば、そこにはいつでも何かしらの情報に、再生回数や反応数などの数値、評価を伴ったものたちで埋め尽くされている。

知らぬ間に、自分が好きだったこと、信じていた価値観や世界観を失って、実はそこまで興味のないものにまで、無意識的に目で追いかけ、発信するとしてもその反応の有無に、心底疲弊する自分に気がついた。


「共有すること」は面白い。それは、互いの価値観・世界観が違うから、新たな視点を得られるという意味でとても新鮮で、世界が広がっていく感覚がある。

しかし最近ではどうだっただろう。自分の舌に自信がない者同士が、「よくわからないけどみんなが良いって言ってるから」という状況に陥っていたのではないだろうか。

ウイスキーは様々な香りや味、背景にある歴史、造り手の感性と時間など、あらゆる情報が内包されて形づくられている。

そんな圧倒的で神秘的ですらある"個性"に対して、それを受け取る飲み手の価値観・世界観、つまり"個性"が均一化されていくのはどうかと感じ始めた。


もし「ウイスキー観」という言葉があったなら、自分はどんな「ウイスキー観」を育んで、培ってこれたのだろう?と、素朴な気持ちで考えた。

振り返って見たときに、「もしかして、この価値観って誰かが良いって言ってたものばかりなのでは?」と察した気がして、少しだけ寂しい気持ちになった。

もしウイスキーを飲んで「人生が豊かになる」と言うのなら、一体それはどんな根拠をもとに、どんな変化を指し示してそれを言うのだろう?


ウイスキーにおいて「共有すること」は面白い。ウイスキーに限らず、共有することは喜びを分かち合うことである。

ただし、「共有すること」が行き過ぎるあまり、価値観の"タコ壺化"が起きているのではないかと危機感をおぼろげに感じている。

様々な感性があって、様々な視点があるからこそプロダクト、そこから文化は磨かれていく。

自分自身がひとくち、またひとくちとウイスキーを口にするたびに、自分の内側の何が培われていくのか。

内側に存在する、まだ言葉にもなっていない、そんな「共有しない」のその輪郭を、自分自身がしっかりと捉える必要があると感じている。

ウイスキー飲みます🥃