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なんだか似てる?コロナ禍の混乱と障害

コロナ禍に次々と巻き起こる混乱を目にするたび、「なんだかどこかで知っているような気がするなぁこの感じ…。」そう感じた方も多いのではないでしょうか?

私たちウィルチェアファミリーも一人一人が何となく、それぞれ立場は違えど、皆が一様に何となくそんなことを感じていたのでした。

そこで今日は障害というキーワードをもとに、コロナ禍の混乱の世界と障害のある世界を比較し、考えていきたいと思います。

コロナ禍の混乱は、今まで社会が向き合おうとしなかった問題を次々と目の前に突き付けてきました。多くの人が様々な困難を抱えながらも、無理をして社会に合わせるしかなかったということが明らかになったように感じます。そんな混乱下にある今こそ、社会変革の大きなチャンスになり得るのではないでしょうか。


コロナ禍の混乱

ある時を境に、突然これまでの日常が私たちの目の前で音を立てて崩れ去りました。ある日、遠い中国の海鮮市場で発生した未知のウイルスは、あれよあれよという間に私たちの日常も楽しみも仕事も、生活の全てを奪い去っていったのです。

私たちはウイルスの脅威にさらされ、あてどない不安や怒りを感じながらも自宅からでることすらできなくなりました。

家族に会うことすら叶わなくなった人もいるでしょう。必要なものが手に入らず不安に駆られた人もいるでしょう。

遊びに行きたいけれどいけない人もたくさんいたことでしょう。


これまでの当たり前が、何1つ当たり前のものではなくなってしまいました。

そして今、更なる脅威の襲来に備えて、私たちは生活様式の変容を求められているのです。

それはほんの数か月の間に突然、起こった出来事なのです。

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障害者と配偶者・家族の混乱

「行ってきます」と家を出て、当たり前に聞くはずだった「ただいま」を聞くことができぬまま、事故や病気で大切な人が障害を負ってしまうという世界をあなたは想像できるでしょうか?

その日から当事者のみならず、配偶者や家族も生活様式の変容をせざるを得ないのです。数か月あるいは数年の間、生活を共にすることが叶わず、共に暮らせるようになったと思ってもこれまで通りとはいきません

その間に当事者も、配偶者や家族も大きく生活の変化を求められ、心を大きく揺さぶられることになります。

もう元には戻らないと言われても、まさか自分たちの身にそんなことが起こるはずがないという楽観バイアスが働き、きっと数日たてば何か変わるに違いない、きっとリハビリすれば元に戻るに違いないという期待と、それに伴う落胆を繰り返します。

怒りを感じても、そのやり場はないかもしれません。

当事者にとっても配偶者や家族にとっても、ある日突然これまでの当たり前の生活が、当たり前ではなくなるのです。先天性の場合もその家族や当事者の置かれる環境というのは類似していることでしょう。

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構造が似ているのは何も、受傷だけではありません。

コロナ禍で私たちが多くのものを失ったように、障害がある人達は多くのものを失った世界で生きることを強いられてきたのではないでしょうか。

それもコロナのない世界で…。

人の手を借りなければ家から出ることも、入ることも自由にできない。エレベーターに乗りたくても満員で何度も見送るしかない。ジェットコースターが大好きなのに乗ることができない。学びたいのに学校に行くことが叶わない。働きたいのに雇ってもらえない、働ける先がない。車を車検に出しても借りれる代車がない。恋愛や結婚をしたいと思っていたが難しい。生活に欠かせない物品があって、その代替品がない。災害が起こっても避難所に避難することさえままならず、時に命を諦めなければならない。

そこに不安や怒りを感じても"障害があるから"、ただそれだけで多くのことを諦めるしかない選択肢の少ない世界に、多くの障害のある人達やその家族はこれまで生きてきたのです。


コロナ禍で見えてきたもの

今回のコロナ禍での混乱を受け、様々なマイノリティに属する人々が「この感じ、知ってる。」「なんだか似てる。」と言いました。そのいくつかを例に挙げたいと思います。

✓自閉症スペクトラムの世界との酷似

先の見通しがつかず、イライラし不安に押しつぶされそう。これはいつ終わるの?明日の予定はどうなるの?今目の前にある問題で精一杯で、次の行動なんて読めないし、不安でイライラしてカリカリしてしまう。

先の見えない、明日の見えない自粛生活となんだか似ていませんか?

✓不登校の世界との酷似

子どもが学校に行くことができず生活の乱れや学習の遅れが心配になったり、友達とのやり取りが学べない。学習サポートが学校から何ももらえず、親が教師の役割も担わなければなりません。学習教材などの出費やお昼ご飯の手間も増え、親たちは不安と焦りに包まれたのではないでしょうか。

その生活、自粛生活となんだか似ていませんか?

✓不妊治療カップルの世界との酷似

いつ妊娠できるのか先が見えず、いつ診察が入るかもわからないから明日の予定も立たない。明日出社しますと言っていたのに通院になり、休みを取っていたのに排卵してしまい治療キャンセルになる。何度トライしてもうまくはいかず、自分のコンディションが最高でもパートナーのコンディションが悪く結果が出せない(その逆も有り)。自分の努力ではどうにもならないことがあると知る。

自粛生活の先の見えなさや、自分が頑張っても他の誰かの行動で収束しない状況になんだか似ていませんか?

✓他にも見えたこんなもの

・リモートワークや自宅待機で、子どもの様子や家庭を回す大変さに初めて気づいた父親たちがいた。

・ソーシャルディスタンシングに最も適した言語は手話なのではないかという話が持ち上がったり、手話通訳者がマスクをしないのは表情も手話の大事な一部だからということが広まった。

・リモートワークで通勤の負担や人間関係などの外的刺激がなくなり、仕事に集中し本領を発揮する人たちが出てきた。

・学校での学びを子ども達ひとりひとりに合わせた進度や場所で行えるよう、選択肢を増やして欲しいという親の声が上がっている。


つまりはコロナ禍は社会が潜在的に抱えていた、誰かの努力や我慢で賄ってきた社会問題をより強め、浮き彫りにしていったということに他ならないのです。


なぜコロナ禍はマイノリティの抱える世界と似ているのか?

ではなぜコロナ禍は、これらのマイノリティの世界と似ているのでしょうか?

それは日本のみならず、国際社会全体が新型コロナウィルス(COVID-19)という(現在ではまだ)抗えない困難に飲まれ、全世界が一時的に弱者の立場に落ちてしまったからではないでしょうか?

人間は環境や時代など、自分の力では抗えないものに直面することがあります。例えばそれが障害や病気、貧困や不妊、ペットの休止や突然の婚約破棄かもしれないし、未知のウイルスによる襲撃かもしれません。その理由が何であれ、自分自身の努力では変えることのできない困難に直面し、一種の喪失を経験することがあります。それは大きなものもあれば小さなものもあるでしょう。

そうした事実に直面した時深く悲しみ、そして徐々に怒りや不安、不満を抱きます。ですがその加害者たるものは、その怒りや不満を引き受けてくれる存在ではないのです。

どうしようもないものだといつかは割り切るしかなくなる時が来るのかもしれない。そうやって順応していくしかないとわかってはいても、人が変化を受け入れるには葛藤が必要となるのです。

全世界が今、社会的弱者の世界に落ちました。その中にはいつか元通りになるものもあるかもしれません。ですが、「いつかの日常はやがて過去になり、非日常だった世界が日常へと変わるしかない」という部分も少なからずは残ることになるでしょう。それこそが障害者やその他のマイノリティの生きてきた、これからも生きていく社会との酷似なのではないでしょうか。

ただその契機が、違うというだけでプロセスはそう違ってなどいないのです。


アフターコロナに望むこと

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ここまでコロナ禍と障害やその他の一部のマイノリティの類似する点を多く述べてきましたが、この二者には決定的な違いがあります。

それは問題の継続する期間にあるでしょう。前者が徐々に緩和していく可能性が高いのに対し、後者は永続的にその困難さが続いていくのです。

ですが今、コロナ禍は社会の様々な問題を浮き彫りにし、誰もがそれぞれに困難を抱えているということが視覚化されました。

そんな今だからこそ他者の困難さ・大変さに寄り添い、その種類や程度に違いはあってもお互いに尊敬しあい助け合うことをひとりひとりが意識し、より多くの選択肢を選び取れる社会を作っていきたいですね。

私たちは、私たちの視点から。



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