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聞こえない喝采

「今日、登板ね。いけるか?」と監督が声をかけてくる。はい、と答えてから、ユニフォームに着替えて、たった3人しかいないチームメイトの顔を見る。楽屋には弁当の匂いと、試合開始前の選手紹介をする実況と解説の音声が響いている。10年前にプロ麻雀士として活動を始めてから、ずっと夢見てきた舞台に、私は今日、初めて登板する。
「思い切り打ってこい。これは受け売りだが、『デビュー戦は一度しかない』ってやつだよ。」と、ベテランの先輩が声をかけてくれた。


その日、私はなぜか初めて見たサッカーの試合のことを思い出していた。その試合は大荒れだった。

後半アディショナルタイムに突入して、残り時間3分、コーナーキックのこぼれ球を、途中出場のフォワードの選手が押し込んだ。それが決勝弾だった。それは、この試合初めてのゴールだった。

けれども、その直後、負けたチームは審判と得点の起点となったコーナーキッカーに猛然と駆け寄っていた。一触即発の空気がスタジアムを包んだ。翌日の朝刊でも、この試合は大々的に報じられた。『スタジアム騒然--大波乱は試合後に!?』

この日の試合のことをよく覚えていた。それが、私にとって初めて生で観戦したスポーツの試合だったからだ。父は、Jリーグ発足当時から、地元チームの大ファンだった。そして、私が5歳の誕生日を迎えたあの日、父は私をスタジアムに連れて行ってくれた。

私は、泣き出しそうになっていた。怖かったのだ。ゴール直後の、スコアラーによるセレブレーションは、怒り狂ったサポーターが暴れたせいで、私は全く見ることができなかったし、うるさすぎて何も聞こえなかった。かろうじて父の手を握っていた。
何はともあれ、結局、その試合は大荒れだった。

テレビの前で見るというのは、なんと安全なことだろうか。ちょっとしたいざこざがあっても、実況や解説の人が冷静にその状況を分析して伝えてくれる。それは、なんとも心に優しいことなんだと、私は5歳にして、頭では理解していなかったけれど、心で感じることになったのだ。

「いやあ、ちょっと後味悪かったな。」
車を運転しながら、父は私を慰めるように言った。「しかも、これで準優勝か。カッコ悪いなぁ…くそっ!」父は少し機嫌が悪そうだった。私はそんな父を見ることになると思わなかったから、試合を見にきたことを後悔していた。父まで、負けたチームの選手みたいになって、暴力的になっているようで嫌だったのだ。私は、父に、いつも通りの父に戻って欲しくて尋ねた。「なんで、おとうは応援なんてしてるの?」

父は、そんな私の質問にムッとしたが、やがて私の様子に気がつくと、気恥ずかしそうに苦笑いしながら、バツが悪そうにこう言った。「ごーめんよ。怖がらせたな、ははは。」私は同じ質問をもう一度繰り返した。

父は言った。
「最初はサッカーが好きだったんだ。毎日、毎日、学校終わりは友達とサッカーをして遊んでたんだ。そうしているうちに、プロリーグが始まった。俺はその開幕試合をテレビに齧りつくように見てた。翌日の学校は、友達とその話で持ちきりだった。先生だって、その日だけは行儀が悪くても許してくれたくらいだ。」
 それから父が語る言葉は、「女子もサッカー」「イケメン選手」「学校にポスター」「地元のプロの1日教室」「サッカー部発足」「エースはモテた」「キーパーだけは不人気」そして、「そんな感じ。」と続いた。話はそれで終わった。

二週間後、父はまた私をスタジアムに行こう、と誘った。私はあんな父は見たくないな、と思いつつ、結局ついていくことにした。スタジアムに行けば、大きめの紙コップに入ったペプシと唐揚げ棒を父が買ってくれることを、私は学習していたのだ。

その試合は快勝だった。
前半開始早々、パスがみるみるつながったかと思うと、浅めのクロスボールが蹴り込まれ、それが弾かれると、今度は敵のクリアミスから、鮮やかな超ロングボレーシュートが炸裂して、見事に先制した。2点目は因縁の(とは言っても、この日の相手は、この前とは別のチームだ)コーナーキックからヘディングでゴール右隅を沈めた。すると、今度は自信をなくした相手チームの連携ミスをついて、、、あっさり得点。

試合は快勝、5-0のスコア。
父は満足げだった。そして私も「今日は楽しかった!」と言った。「毎日こんなふうに勝ってくれればいいのに。」とも言った。

「そんなわけにはいかないさ。レアル・マドリードくらい強くなきゃ」と、父は私の知らない言葉を使いながら言った。「今日みたいな日があれば、この前みたいな日がある。だから応援したくなるんだ。」と、父は続けた。

 「どうしてだろう」と、あの日思ったことを覚えている。今でも思うのだ。大人になった今でも。なぜ、応援したくなるのだろう。あの日、初めて見た試合は、私がサッカーを嫌いになるには十分な経験を私に与えた。そして、次に見た試合は、父の大好きな笑顔を、私に与えてくれた。私は別にサッカーが好きだったから、父にスタジアムに連れて行って欲しかったわけではないし、今でも、サッカーが好きなのかどうかはよくわからない。当時の私のモヤモヤはずっと続いている。結局、私もスタジアムに足繁く通うようになった頃、私のそんな疑問に父はこう言ったのだ。「試合を楽しむだけなら、どっかのチームを応援しないことが一番かもなぁ」と。
そりゃそうだと思う。その時もそう思ったし、今でもそう思う。試合を見に行って応援をする日も、そして、応援されながら、私が闘う今日も。

「今日、登板ね。いけるか?」と監督が声をかけてくる。はい、と答えてから、ユニフォームに着替えて、たった3人しかいないチームメイトの顔を見る。楽屋には弁当の匂いと、試合開始前の選手紹介をする実況と解説の音声が響いている。10年前にプロ麻雀士として活動を始めてから、ずっと夢見てきた舞台に、私は今日、初めて登板する。
「思い切り打ってこい。これは受け売りだが、『デビュー戦は一度しかない』ってやつだよ。」と、ベテランの先輩が声をかけてくれた。

そして、ついにその時がやってくる。一礼をして、席へ。そして、よろしくお願いします、の合図で座ったままお辞儀する。ゆっくりと顔を起こす。東一局、親番。開始のためのボタンに手を伸ばすのは私だった。そして指を伸ばしていた。

どうしてなのだろう。今でも思うのだ。大人になった今でも。私はわからないままなのに、このチームを応援してくれる人がたくさんいる。私がこのチームに入った時、私のSNSフォロワー数は3倍増加したが、それより驚かされたのは、期待と応援のDMがたくさん届いたことだった。その中のほとんどが、ずっと前から私を応援してくれているユーザーネームのアカウントだったことにも、驚かされた。ずっと応援されていた事実に驚かされたのだ。さらに言えば、新規メンバー歓迎会と称して先月開かれたファンミーティングでは、多くの温かい言葉をもらった。「なぎさ選手は本当に期待されていますね」「これからさらに麻雀界が盛り上がりますね!」などという、司会の、そんな声が聞こえていた。
こんなことにいちいち驚いている私は今日、カッコ悪く負けてしまうかもしれない。デビュー戦はそんなうまくいかない。特にこの世界はそういうものだ。どれほど運があっても、それは些細な慰めにしかならない。サッカースタジアムと違って、サポーターの応援が聞こえるわけじゃない。4人ではあまりにも広すぎるこの部屋で、静かに、麻雀を打つだけだ。プレッシャーは半端じゃない。無様な姿を晒したら、ファンはどう思うだろうか?
「絶対大丈夫だ。」
キャプテンが昨日、わざわざその一言だけメッセージをくれたことを思い出した。これだけを送ってくれる、キャプテンの気遣いは、経験者のなせる特殊能力のように見えた。まあ、私はそれに返信せずに寝てしまった。というのも、麻雀に「絶対」なんてないから、意味がよくわからなかったのだ。

指先がつく。ボタンがカチッと言った。牌が自動で上がってきて、機械が大きな音を立てて動き始める。ゆっくりと、配牌に手を伸ばす。初めてスタジアムに行った時、目の前の手すりに掴まろうと伸ばした時のように、指先の脈の動きを感じながら、配牌を掴んだ。
応援されている。
声は聞こえない。
とても静かな会場。とてもうるさい機械音がする。
父はあの時言った。「でも、誰かを応援するってことは、競技を楽しむこと以上に…」
父は昨年亡くなった。
私は葬儀に行けなかった。
あー、くそ。
なんでもっと早く、早く…。
後悔先に立たずなんて、誰が言いやがったんだ。
キャプテンの声を思い出す「絶対大丈夫。」
私は知っている。
置かれた牌は動かない。
積まれる牌は選べない。
切った牌は戻らない。
あの時父はしばらく考え込んでから先を続けて言った。「競技を楽しむこと以上に、人生にとって重要なんだ。」
ああくそ、まだ、何もしてないのに、涙が溢れてきそうだ。
父はその後で恥ずかしそうにしながら私にこう言った。
「俺は、お前をずっと応援しとるよ。」




昔も今も、私はその意味を掴み損ねている。
でも、この先は、決して、そうじゃない、かもしれない。




目をぎゅっと瞑る。
第一ツモに手を伸ばす。
涙の気配は消えている。
目は鋭い眼光を放っている。
目の前の光景をはっきりと捉えている。

5巡目テンパイ。
打点そこそこの愚形待ち。
一息つく。
私は、応援されている。
聞こえない喝采に私は包まれている。
それを感じて、牌を一つ摘んで、横に倒した。
不思議だなあ。
これほど緊張しているのに、自信がある、というのは。
聞こえない喝采を遮るように私は声を出す。
「リーチっ…。」
場の空気が一変する。
わたしが打ちつけた牌の、カツンという音だけが、一瞬この部屋にこだまして、それから、父の苦笑いをするときの、ちょっと恥ずかしそうなあの声が聞こえた。

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