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【短編】カフェ、教室、それからあの頃はまっていたバンドのあの曲

 気になってしまって、翌日、僕はいつものカフェに行った。
「大切な常連さんですから、今後も来てくださいね!」と、昨日卒業した馴染みの店員さんはそう言ってくれたけど、その人がいなくなってしまったカフェは、いつも通りの賑わいを見せていたけれど、やっぱり寂しさを感じてしまう。

 本当は持って帰るつもりだった。テイクアウトはほとんどしたことがないとしても、今日は、この店内にいると何も手につかないと思っていたから。でも、結局マグカップに入れてもらって、ソファ席に腰を下ろした。作業も読書も勉強も、なにもできなかったけれど、それがよかった。それはいつものここでの時間の使い方ではなかったが、今しかできない時間の過ごし方だった。

 なんとなくだけど、僕は、地元を離れる前にひとりで訪れた高校の教室のことを思い出していた。初めて私服で高校に入って、いつもの教室に入った時のことだった。いつもみんながいた場所に、自分一人だけポツンといて、自分のものじゃなくなった席に腰を下ろして、卒業式の日に、みんなで落書きしたままになっている黒板を見つめていた時のこと。確かにここにみんないたんだ。そう思って写真を撮った。2階の授業の声がかすかに聞こえていた。2年生、1年生はまだ学期が終わっていなかったから、3年生だけがいつもの学舎の風景から消えていた。それは年に一度だけ訪れる、そして毎年訪れる、けれども誰かにとっては一度きりの期間だった。あの頃、僕がよく聴いていた曲は『木蘭の涙』だった。今でもそれを聞くと、高校生活を思い出すけれども、今日みたいに自然と思い出すことは、滅多にない。

 昨日、僕がメッセージカードを馴染みの店員さんに渡すとき、その人はすでに泣いていた。あと2分で営業時間が終了しようとしていた。このカフェで働いていたOBOGも大勢来ていて、僕はさっさと渡してしまって、退散しなければ、と思っていた。いつも人で賑わっていたけど、この日の賑わいぶりはいつものそれではない。なにかを見送る寂しさと、同窓会のような匂いがあった。僕は心の中で、完全に部外者だ、と思っていた。でも、この景色の一部に自分がいる、そう思うと、恥ずかしいけれど、嬉しかった。その人の涙を見ながら、この一瞬が、この人の思い出になっている、まさにその瞬間なのだと悟って、無闇に触れたくないと思った。

 今日ここにあの人が来ることはないだろうと思う。僕はある意味、あの人の代わりにここに来ている。いつかまた再会した時に、「あの翌日にカフェに行ったんだ」と話せるようにするために。「どんな感じでしたか?」と聞かれれば、「卒業式の次の日の教室のようだった。」と答えようと思う。でも、そんなこと聞かれないかもしれない。それを聞いてくれる事が普通に想像できる僕は、やっぱりどこかロマンチストなのだろう。

 Voundyの『mabataki』を聞いている。この曲を3年後くらいにまた聞こう、と思う。この頃、はまっている曲だ。どこでも、いつでも、音楽なんて聞けるけど、そこに思い出が染みつくのが、どういう時かなんてわからないものだ。だから、そういう瞬間がおとずれたのなら、ぜひとも想い出にしたいと思う。いつだって、そんなふうに生きていたい。「コーヒーは冷めたらミルクを入れればいい。」と、あの店員さんはよく言っていた。でもそれが、いつまでも冷めない想い出なら、いつだってストレートのまま味わえる。だから、僕は冷めた浅煎りのコーヒーには、きっと明日も、ミルクを入れる。そうして昨日のことを、いつでも昨日のことのように思い出す。

 僕はまだよくわからないけど、もしも全ての記憶が想い出になるわけじゃないのであれば、きっとその時のことを覚えているのは僕だけじゃないのかもしれない。どうか、どうか、僕だけじゃなくて、みんながみんな覚えていますように。昨日という日について語ろうとする今日の僕が、正解でありますように。

 ところで今日は雨が降っている。今月、この季節にしては急に冷え込んだ。桜はまだ咲かないのか、去年のように。でもまあ、雨が降ったのが昨日でもなく、なによりも桜が咲いた後でもなく、今日でよかった。今日はコーヒーがよく冷める。

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