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【短編小説】風にピアス

「必ず読むよ、あなたの小説」

そう言って君は結婚した。相手がどんなやつだか、僕は知らなかったけれど。
大した人だと思う。その一言が聞けただけで、僕は死ぬまで書くことをやめられなくなってしまった。
チェーホフも、僕くらいわかりやすい人間ならば、それなりに可笑しく、誠実に、を僕を描写してくれるんじゃないかと思う。もう3年くらい、彼の小説を読んでいないけれど。

4月。
僕は上京した。新宿はまだ寒かった。しかし一週間後には、都民は一人残らずエアリズムを着ていた。
とにかく何もかもが目まぐるしかった。それでも、何もかもが常に同じだった。
ネクタイを締めないカッターシャツ、透けて見える肌着に、満員電車のパレードが、朝と夜にはどこでも見られた。まるで全ての人間が、10種類のアバターに分類されて、散らばされたかのようだ。その中でも新卒社会人は見た目からわかりやすいな、と思う。桜が似合うからかな。

これまで僕は、1ヶ月に一作は書いていた。この4月に初めて、僕の記録はわずか1日の差で途絶えてしまった。
これが社会人か、と思った。

東京には、僕の友人がいた。それから兄弟と親戚もいた。新たに出会った友達もいた。なんとなく連絡をとっていないけれど、いざとなれば声をかけられる程度の知人もいれば、いつも声をかけないだけの、腐れ縁の親友がいた。
有象無象だった東京の人々も、僕が知ることで、輪郭がはっきりと浮かび上がったし、どんな些細な違いもはっきりとわかるようになった。例えば、僕の弟は、僕が知らない間に左耳にピアスを開けていたけど、それは、妹よりもだいぶ遅かったし、この間知り合った可愛い女性のピアスよりも派手だった。弟は片耳だけど、僕は両耳だし、この女性も両耳にピアスが空いている。「いつまで経っても、ピアスの穴が安定しないから、パジャマでも、ピアスをつけてならなくちゃならないの」と彼女は言った。僕は、彼女の耳がすこし血で汚れているのを想像してみたけれど、うまくいかなかった。

「チェーホフって、誰?」
地下鉄のおおきな音が耳を塞いだけれど、彼女の声はよく聞こえた。「俳優さん?」
「いや、もう死んでる。」僕は言った。「小説家だったんだ。読んでみる?」
そう言った後で、僕はちょっとまずいかな、と思った。正直、チェーホフを知らない人が、あれを読んでも意味がわからないだろう。あれを面白いと思えるには、経験値がいるし、それは骨の折れる作業だ。
「そうね、読んでみたいかも。難しくない?」
「いや、ちょっと、理解に苦しむかも。うーん…そうだな。普段何を読むの?」
彼女は、ショートショートの作家の名前をあげた。
そこで僕は結局、カーヴァーを薦めた。それは、ついこの間読み切った作家で、短編小説ばかりで、少し暗くて、チェーホフが大好きだった、アルコール中毒に人生の半分以上を狂わされた作家だった。

今になって思うのは、自分の小説以外だったらなんでも良かったんだと思う。それこそ、日本の現代作家でも、あるいはエーコーでも、エンデでも。僕は、僕から借りてくれればなんでも良かったんじゃないかな、と今なら思う。

「また、配属決まったら教えてね。でも、もしも地方とかになったらどうしよう。わたし、返せないわよね。」彼女は少し嬉しそうに言った。まるで、困ったほうがいいかのように見えた。
それをみて僕は困ってしまう。どちらでも良かった。
「もう、当分読まないかな。死ぬほど読んだからね。」と、僕は言った。
「それでも、なるべく早く返すよ。ちゃんと読むからね。」と彼女は言った。まだ、借りてもいない本が、彼女のトートバッグに入っているかのようだった。それを考えると、僕は自分の荷物が軽くなった気がした。
いや、いいよ、と僕は言う。

その日、僕は家に帰って真っ先にその本をカバンにしまう。そして、「みずきの小説」というあの声を思い出す。この本はおろか、カーヴァーも、チェーホフも嫌いだと言ったあの娘は、出会った時からピアスをつけていたし、それは大学一年のときだった。そうか、だから僕は、結局書こう、書こう、だなんて思っているのか。わざとそう思い込もうとして、その思い込みをまとめて洗い流すように、シャワーを浴びる。

僕は、当然そんな夜を過ごすことになるとは知らない。
いや、いいよ、と僕は言う。
地下鉄に入る階段を降りる時、コンビニ前に設置された電話ボックスの中に、ビールの空き缶が置いてあったのが目端に映った。それはあまりにも遠い風景だったから、そんな事がいつぞやの、ひとむかしまえの、当たり前だったってことに気がついて、僕は愕然とした。

確か、僕はこう言ったと思う。
本当に、ゆっくり読んでくれたらいいんだ。それも、うんと時間をかけて。
君のピアスの穴が、ようやく安定したらで。その時が来たらでいいから。

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