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友人のFacebookを見つけて少し話した。

Facebookを久しぶりに開いた。
友人が数名僕をフォローしていたのに気がついて、少しだけ彼らのページにアクセスした。
その共通する友人たちも皆懐かしい顔ぶれだった。

僕の記憶の中での友人は中学生だった頃の姿で止まっている。あどけない顔をした子供の姿のままで過ごしていると勝手にイメージをしている。


つい最近、僕は中学の頃の友人と会うことがあった。彼らはあの当時のままで変わらなかった。でもふとなんとなく違和感を感じられずにはいられなかった。「なんか雰囲気が変わった気がする」
僕の当時の記憶ではもう少し、上手く説明が出来ないけどもう少し明るかった様に感じる。お互い昔話に花を咲かせていたけど、どうも同一人物に思えない気がして。結局色々話をして僕たちは別れた。

家に帰って昔の友人と今の友人を見比べて考えてみた。
でもそういう事を考えていることが非常に馬鹿らしく感じてしまった。

人なんていくらでも変わってしまう。それを自分のイメージでその人を捉えてしまう。それは些か自分勝手なんじゃないか?と…。

人って人を自分のイメージで捉えがち。
その当時の友人であれ、元恋人であれ、こうであって欲しい、あのままでいて欲しいと願う。
自分自身が多くの経験をし変わっていく中で、人だって同じ様に変わっていく。でも「あの時の姿のままで、あの時の性格のままでいてくれたなら」と何時までも記憶がずっと止まったまま。

そのイメージを抱いて再び再会をし、何故彼、彼女は変わってしまったんだろうとなんだか裏切られてしまったと思い込んでしまう。

それは知り合いだけじゃ無くて、好きな芸能人やスポーツ選手でもそう。勝手なイメージでその人を捉えて、そのイメージから外れたら「そんな人だと思わなかった。幻滅した」と勝手に離れていく。

自分の推している選手やアーティスト。彼らは超人的でありそして英雄である。子供の頃から抱いてきた憧れというイメージ。でも、多くの人と関わる中で気がつく「彼らだって自分と同じ人間なんだ」結局どんなに凄かろうが、どんなに輝いていようが皆同じ人間なんだと。

なんというかその憧れが強ければ強いほど
強烈にその相手に対しイメージという枷を付けてしまう。人間は表裏一体であるはずなのに...。
僕は思ったもう自分で勝手に人をイメージして縛るのはやめたほうがいいと。あの頃の友人もまた彼であり、今の友人も彼である。

そうやって人は爬虫類の様に脱皮を繰り返しながら日々成長している。その成長の過程で何かを捨てなければいけない事もある。だけどそれと同時に得たものがある。

人には人の道があり生き方がある。

「どうしてお前は変わっちゃったんだ」なんて自分勝手過ぎるよなって…。


卒業アルバムに二人隣に立って写真を撮った記憶がある。
同じ部活動二人はたまたま隣同士になって写真に収められた。無邪気に笑う二人、まさかその後長い年月が空いて再び再開するとは思わなかった。

自分も相手もあの頃の自分ではない。
お互いが持っていたイメージが少し崩れ、口には出さないが相手は僕に対してもそう思っただろうか?


「あの頃のアイツではない。でも今ここにいるのは間違いなく今を生きている」


そうやって相手を許容してあげれれば気兼ねなくお互いが再び付き合っていけるのだろう?と思った。


人は常に変化する生き物だ。
変化するからこそ昔の姿も輝いて見える事もある。
だけど今の姿もしっかりと見てあげて、認めてあげる。

どれだけ年月が経とうとも本人はあの頃のままでいたいと思うもの。それが楽しい思い出が詰まっていたのなら尚更だ。


そんな相手には

「なんか成長したよな!」とだけ言ってあげればいいと思った。そして相手の話を聞いてあげるのが友情なのかな?と思う。


その空白の時間が長ければ長いほどじっくりと話を聞いてあげる。辛い経験が多ければ多いほど共感してやれる。

人生どんな経験も無駄じゃないと思った時に、なるほど自分も成長したのかな?と感じれるのだろうか?


そうそうその仲間が過去の部活動の写真をアップしてた。

あれ?こんなんだったっけ?なんて二人で笑ったなぁ。
色々なエピソードが飛び出して笑いが止まらなかったw


そんなもので良いのかもな。

過去なんてものは…

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