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ボクが幼少期に憧れた「おとな」


世の中には色んな大人がいる。ごく当然のことなのに、当時はそんなこと知らなかった。

ある程度成長してからは、人は自分で道を探し始める。

厳密に言えば探し始めるのはもっと前からかもしれないが、そこを進めるのはある程度の自由な時間と歩ける足ができてからだ。

だから僕は、親と先生しか「おとな」を知らなかった。


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写真はイメージです。。


ボクを育てた「おとな」

育てようと思って育つわけではなく、憧れを抱いて勝手に影響される。

「かっこいい」「すごい」。そう思うと人はそれを自分に取り入れようとする。行き着くところがどこであれ、その時の目に映る姿が魅力的であれば善・悪の関係がなく進んでしまう。だから見せ方は必要だけれども、その逆に見方も必要なんだと思う。

親に黙ってこっそりと行っていたバイク屋さん。そこのオジサンは長い髪に汚いツナギを着て、いつも油まみれの手をしていた。そこから僕はバイクに興味を持ち始めた。

でもその理由は「そのオジサンがカッコいいと思った」から。


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選ぶ自由、欲する自由、憧れる自由

そのどれもが当然のようで、子どもにとっては未知の言葉。その意味は知らなくてもいいけど、それを感じられる「余白」は必要だと思う。

オジサンの店に行っていることは親には黙っていた。なぜなら僕がそんなとこに出入りしていることを知ったら「きちんとした」親に怒られると思ったから。

「整理整頓をしなさい」「うがい手洗いをしなさい」「挨拶をしなさい」。そのどれも当たり前にするべき事のようだけど、理由がわからないと頭に入ってこない。

薄汚れた壁には工具がきちんと並んでいた。

僕が来たのを見ると手を洗ってから握手してくれた。

髭面を笑顔でくしゃっとして。


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実は子どもは頭がいい

「他の子の怪我を防ぐ為」「ばい菌を洗い落として病気を予防する為」「警戒心を持たせず相互理解をする為」など、全てのことには理由がある。

アートはその理由が心の中にあるので他人の目には映らない。それでも子どもは素直にそれを発信しようとする。

でもその為にはそこにちゃんと余白が必要。

だからたくさんの人にその「余白」を持って欲しいと思うし、そこに描く術を見せられたら、と思う。

「おとな」にも「こども」にも。

僕がもっと早くにオジサンと出会えていたら、とたまに思う。


自由な発想を表現に「アトリエ ファイン」
校長:ケイ 

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