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北野映画に息づくポストモダン。『首』

時代劇版『アウトレイジ』だが、基本はコメディ。絵作りやカット割りの妙に過剰に意識を向かわせず、骨太かつ小気味よい展開で楽しませる。北野映画に世界が求めるものが十二分に盛り込まれていて、いかにも巨匠的な手並みだ。むろんそれは、大味と紙一重でもあり、村上春樹の近作にも当てはまる傾向だと思うのだが、結論としては大いに堪能した。

タイトルの「首」にこだわらず、暴力のバリエーションはいつも通り豊富でこなれていて、それほど目新しさはないが安心感がある。口と刃物の組み合わせはいかにも北野印だろう。

本能寺の変を題材に、史実とは異なるであろうフィクションの要素が加味されている。例えば、加瀬亮扮する織田信長が迎えた最期は、「そう来る?過去作の『BROTHER』みたいじゃん」と思わず唸ってしまった。標準的な関連の知識を有する日本人なら、それらのフックを楽しめるだろう。武士の嗜みとしての男色が、耽美的なムードを醸すための小道具ではなく、物語を駆動する仕掛けとして活用されているのもいい。

ただ、その信長のキャラクター作りには、若干の違和感があった。全編キツめの尾張弁で押し通す信長は、とにかく気まぐれで手に負えない暴君として、極端にカリカチュアライズされている。「裸の王様」として分かりやすいのかもしれないが、日本人の常識としては、開明的で怜悧でもあったのが信長で、残忍さとの二面性に彼の奥深さがある、という認識が浸透していると思うので、一面的すぎる感もあった(海外の観客にはすんなり受け入れられるのかもしれない)。しかも加瀬亮の演技は、チンピラ的軽薄さが空恐ろしさにつながらず、必死さが滲み出るもので、余計に興が削がれる。彼は『アウトレイジ・ビヨンド』の経済ヤクザの役作りもそうだった。正直、器ではない。個人的な好みかもしれないけど。

(C)2023KADOKAWA (C)T.N GON Co.,Ltd

印象的なキャラクターが多く登場する中で、北野自身が扮する秀吉は、意外にもそれほど目立つ存在ではない。ただ、その造形はとても興味深く、特筆に値する。

序盤、ボスの信長から田舎者、サル扱いされて「悔しい」と地団駄を踏むシーンがある。といってそれ以降、彼自身がリベンジに向けて才覚を発揮する感じは薄い。弟の秀長や部下の軍師に「どうにかしろ!」といつもほぼ丸投げなのである。知恵を出し、立ち回るのはおおむね他の人物。秀吉は、その成果を受け取るだけのように見える。

本作での秀吉は、狡猾な切れ者として描かれない代わりに、物語を俯瞰するための「定点」として機能している。農民出身ゆえ、信長の男色趣味について「武士の文化はよく分からない」と素朴な気持ちを吐露するシーンに象徴されるように、本作での秀吉は、戦国武将の物語の主要人物でありながら、ある意味「部外者」なのだ。その効果は、ある種あっけないラストシーンにも的確に反映されている。秀吉にこのような役割を与えるところは、極めて斬新だ。しかしそれはあくまで、戦国時代の基本知識を有する日本人にとっては、ということ。海外の観客とどこまで共有できるかは定かではない。

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とはいえ、この種のクールネスや軽みは、どんなバイオレンスを描こうとしても北野映画に通底するものだ。それはポストモダンといっていい。黒澤明や深作欣二はドロドロのモダンだが、北野は涼し気なポストモダン。ポストモダンなんて言葉は昨今すっかり廃れてしまったが、いやいや、今も実際は有効なのだ。ポストモダンにとどめを刺す表現はまだ生まれていないから。

前作『龍三と七人の子分たち』から喜劇が続いた。今後シリアスもの、悲劇に戻ることはあるだろうか。まったく予想はできないが、北野のフィルモグラフィーは、コメディで締めくくられてほしいという気持ちもある。長寿だったオペラ作曲家ヴェルディの最終作『ファルスタッフ』が、円熟した技法をやりたい放題詰め込んだ傑作喜劇だったのを、なんとなく想起してしまう。だから、あと数作、悲劇があってもいいけれど、大団円はぜひ喜劇で。そういうフィナーレが北野にはふさわしい。

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