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人間の営みは静謐である。『没後50年 木村伊兵衛 写真に生きる』

没後50年記念の回顧展。木村伊兵衛について、「日本のアンリ・カルティエ=ブレッソン」と称するのは、少し強引だがあながち間違いではない。1954年のヨーロッパ取材時、実際にパリでブレッソンと面会を果たし、親交を結んでいる。木村は、念願だった渡欧によってむしろ志向に迷いが生じてしまったそうだが、ブレッソンとの語らいによって、自己の進むべき方向をあらためて見出したという。その折に木村がブレッソンを撮ったショットは、ブレッソンのWikipediaで掲載されているもので、会場でも展示されていた。

https://collection.topmuseum.jp/Publish/detailPage/14678

スナップショットの可能性を切り拓き、現代写真の基盤を築いたのは、両者に通じる功績である。ブレッソンはもともと画家志望で、ルーツにシュルレアリスムがあったが、木村にそういう背景はない。拠って立つところの違いは当然あった。しかし、木村がただ「日常」を切り取るだけの素朴な表現者ではなかったのは確かだ。そのことが今回の展示であらためて実感できた。

なんというか、どの写真も静謐なのだ。画面から、その場の音があまり聞こえてこず、あえてミュートされているようにさえ感じる。笑顔はまれにある程度で、喜怒哀楽を強調するそぶりはなく、淡々とした空気が支配的である。

沖縄の市場にしろ、東京・千駄木の魚屋にしろ、大阪・天満宮のからくりにしろ、一見活気がありそうな現場でも、人々の多くは後ろ姿である。

顔を隠す作品も散見される。長崎の福祉施設の修道女はウィンプルで、浅草の飲食店の男性客は帽子で、素顔が見えないアングルが登場する。

https://collection.topmuseum.jp/Publish/detailPage/27657

https://collection.topmuseum.jp/Publish/detailPage/1912

個々人の記名性、固有性が抑えられ、光景が抽象化されることで、結果的に唯美が生じる、というべきか。

考えてみれば、人間の日常というものは、ある種の虚無を孕む、というとクールすぎるかもしれないが、たまのハレ以外は、ケのリピートであり、ニュートラルのモードが「通常運転」である。先に述べた静けさの所以も、そこにあると思う。

新宿の露店群やパリのエトワール広場を上方からの俯瞰で撮ったものは、おそらく本人は自覚していないだろうが、ブレッソンと同等のシュルレアリスム的な感性が息づいていた。

シンプルに粋な写真もよかったことは付記しておきたい。谷崎潤一郎のポートレイトはけっこう知られているかな。大阪・道修町の親父さんも伊達男だ。絶妙の「傾き」を堪能してほしい。掛け値なしの風情がここにある。

https://collection.topmuseum.jp/Publish/detailPage/14755

https://collection.topmuseum.jp/Publish/detailPage/40251

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